交錯T
                    紫陽花


「――うひゃあッ!?」
 夢の入り口へ片足を踏み込ませていた高橋梨乃を現実に引き戻したのは、突然の腰への衝撃だった。急に両側から腰をつかまれたかと思うと、こしょこしょこしょ、と言う声が聞こえてきそうなほどくすぐられた。これは梨乃にとっては拷問にも値する行為である。
 「ちょっ、やめッ……涼子ッ!!」
 叫びながら後ろを振り返り、自分をくすぐり続けている人物を思い切り睨みつけた。その人物とは、親友の峰涼子である。彼女は、梨乃が腰を触られるのに弱いことを知っている唯一の人物だった。
 睨まれた涼子は梨乃の腰から手を離したかと思うと、大声を上げて笑い出した。おそらく、くすぐっている間は笑うのを必死にこらえていたのだろう。思う存分に梨乃をくすぐった後に笑い出すのはいつものことである。
 すっかり人気の少なくなった食堂に涼子の笑い声が響く。しばらくするとその声は小さくなり、やがて目に涙をためながらもようやく笑い終わった。それを見た梨乃は安堵のため息を漏らす。
「だめ、やっぱ面白いわ、これ。癖になるよ」
「冗談じゃないわよ。……私を殺す気?」
 目をこすりながら言う涼子に即座に返した。最後の一言は梨乃にとっては冗談のようで冗談ではない。あんなことをされ続けたら、本当にいつか死んでしまうのではないかと思っているのだから。
 しかしそんな梨乃に対してまったく悪びれた様子もなく、涼子は、だって、と頬を膨らませた。
「人が睡魔と闘いながら必死にノート書いてたっていうのに、梨乃ったら食堂で優雅に寝てるんだもん。そりゃあ、こしょばして起こしたくなるでしょ」
「そんなこと言われても。私は授業なかったんだから、仕方ないでしょ」
「ふーんだ。せっかく良い知らせを持ってきてあげたのに、もう教えてあげない」
 そう言うと、ふて腐れたように涼子はそっぽを向いた。こういう時は普段なら適当に流すため、ハイハイ、と答えようと思っていた梨乃は開きかけた口を止めた。今回は、流してしまうわけにはいかなかった。涼子の言う『良い知らせ』というのに、思い当たる節があったからだ。
「良い知らせって?」
 「えー。どうしよっかなー」
 予想通りの食いつきに満足したのだろう、涼子はここぞとばかりに焦らし始めた。心の底から楽しそうに、そんなに聞きたいの、と何度も聞く。
 初めは教えてほしさに頷いていただけの梨乃だったが、あまりにもしつこいので、教えるのか教えないのかはっきりしてよ、と逆に問い詰めた。右手に拳をつくって見せるとさすがにやり過ぎたと思ったのか、涼子は手を合わせて謝り、『良い知らせ』について話した。
「さっき授業が終わってここに来る途中にさ、翔悟くんと彰くんを見つけたの。声かけたら次の授業同じだから一緒に受けようって。梨乃が食堂にいるって言ったら、ここまで迎えに来てくれるって」
「え……」
 つくられた拳は、無意識に漏れた声に合わせるように開いていた。顔がだんだん熱くなっていくのを感じる。行き場をなくした右手を気にしてやる余裕はなく、聞き返さずにはいれなかった。
「……本当に?」
「ホントだよ」
 良かったね、と涼子は自分のことのように喜んでいた。梨乃は、目の前にいる親友は実は恋のキューピッドなんじゃないかと思った。
 谷口彰と原翔悟は、梨乃と涼子と同じ大学一回生である。とある授業でたまたま隣の席に座り、涼子が二人に話しかけたのがきっかけで仲良くなった。当初は真面目そうな彰とチャラチャラしていそうな翔悟が一緒にいるのが不思議だったのだが、二人が自分達と同じく高校からの知り合いだと聞いた時には納得した。
 梨乃は化粧気もなく真面目で、加えて人見知りをするため友人が少なかった。一方の涼子は誰とでも仲良くなれる性格だったため、男女共に友人が多かった。二人が仲良くなったのは高校三年の時だった。きっかけはどちらも覚えていないのだが、いつからか話をするようになり、今では互いに一番の親友となっていた。彰と翔悟も同じように仲良くなったと言っていたので、すぐに納得できたのである。
 涼子が話しかけて以来仲良く四人でいる時間が増えるにつれて、梨乃は少しずつ彰に惹かれていった。そんな梨乃の想いを知り、涼子は先程みたいにたびたび力を貸してくれるのだ。
「ありがとう涼子!」
「お礼はジュースでいいから――て言ってる間に。おーい! こっちこっち!」
 涼子が手招きをする方向へ目をやると、こちらへ歩いてくる彰と翔悟がいた。彰の姿を見た途端、にやけているのが嫌でも分かった。慌てて顔をつねってなんとか元に戻し、梨乃は今日初めて会う二人に声をかけた。


「お、後ろの席空いてるぜ。あそこ座ろ」
 そう言うと、翔悟は教室の後ろの方を指差しながら三人に向き直った。三人が同意したのを確認すると、教室の後ろへ向かって歩いていく。
 次の授業で使う教室は、大学の中でも一番に大きいのではないかと思われるような広さであった(まだ大学の全ての場所を見て回ったわけではないので、本当にこの教室が一番大きいのかは分からないのだが)。教室の前の席から後ろ席が少しずつ高くなっていくような段になっていて、教壇からどの席でも見渡せるようになっている。だが、本当に一番後ろの席まで見えるのかは分からない。
「ここなら何しててもバレないだろ」
 目的の場所まで来るとニッと笑いながら言い、翔悟は席に着いた。それを見て、翔悟の隣に彰、梨乃、涼子の順に座っていく。
 次に四人が受ける授業は、出席さえしていれば単位が取れるようなものでる(出席回数のみで評価を決めるため)。加えて一日の最後の授業ということもあり、まともに授業を受けている人は少ない。みな、出席の確認さえすればさっさと教室から出て行く。一つ問題があるとすれば、授業内のどのタイミングで出席確認が行われるか分からないという点である。
 四人が席に着いてしばらくするとチャイムが鳴った。それとほぼ同時に先生が教室に入って来る。先生はすぐに教壇へ上がると天井からスクリーンを下ろし、授業を準備を始めた。それから五分と経たないうちに教室の前の方の電気が消され、マイクを通して先生の声が教室中に響いた。

 ――ブブブ……ブブブ……

 授業が後半に差しかかった頃、どこからかバイブの音が聞こえた。どこで鳴っているのかと辺りを見渡すと、彰がポケットから携帯電話を取り出していた。
「珍しいな、お前がサイレントじゃなくてバイブにしてるの」
「そうだね」
 不思議そうに言う翔悟に梨乃は頷いた。彰は携帯電話をあまり好まないため、基本的にはいつもサイレントモードにしていた。本人曰く、携帯電話はあくまで何かあった時の連絡手段らしい。
 二人の不思議そうな声に彰は、あぁ、と返しただけだった。画面を見ながら何度もボタンを押している様子から、メールを打っているのだと推測する。そんな様子を面白そうだと思ったのか、翔悟はその光っている画面を覗き込もうとした。
「なぁ、誰からだよ」
 しかしその直後、彰によって携帯電話は閉じられた。メールを打ち終わって送信したらしい。翔悟は諦めず、もう一度同じ質問をした。
 翔悟は興味本位ではあるが、心の底から楽しんでいるといった声をしていた。それとは反対に、梨乃の心は緊張と不安でいっぱいであった。滅多にメールをしない彰が現在メールをしている相手。それも、すぐに気づいて返信できるようにバイブにまでしているのである。梨乃は、そのメールの相手が気になって仕方がなかった。
 はぁ、とため息を一つ吐き、彰は重たそうに口を開いた。
「奈央だよ」
「それ、誰?」
 梨乃の心をそっくりそのまま、涼子は声に出した。二人には聞き覚えのない名前だったからだ。
 しかし翔悟は、あぁ、と手をたたいた。
「奈央ちゃんか、久しぶりだな。……あれ? でもお前ら、別れたんじゃなかったっけ?」
 そういえば、と梨乃は思った。彰は高校時代に彼女がいたと、涼子が翔悟から聞いてくれていた。その子の名前が確か、光山奈央。高校三年生の秋頃に彰がその子に告白したことによって二人は付き合い出したらしい。しかしその子が何度も浮気を重ねたため、卒業式の日に別れたとか。それ以来、連絡は一切とっていなかったという。
 それでは何故、今、その子とメールをしているのか。三人とも、わけが分からないといった顔を浮かべていた。すると彰は少し頬を掻いてから、あー、と言いにくそうに口を開いた。
「また、付き合うことになったんだ。……三日くらい前に」
「……え……」
「うっそ、マジで!?」
 頭が真っ白になった。大丈夫、と隣で涼子が問いかけているが、それに答えられる余裕はなかった。再び付き合うことになった経緯を心底楽しんで聞いている翔悟の声も、今の梨乃には届いてこない。何かが崩れる音が、梨乃の中で響いていた。

<続>
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