交錯U
                    紫陽花


「……どうしよう」
 困惑の表情を浮かべながら呟いた高橋梨乃を見て、峰涼子は静かにため息を吐いた。諦めてこのまま探検しようか、と提案しかけたのだが、必死に打開策を練っている真面目な友人がそれを許すはずがない。始めこそは涼子も焦り、困惑し、どうしたものかと考えていたのだが、ここがどこなのかも分からない今となっては、完全に諦めモードに入ってしまったのである。
 腕時計に目をやると、残り時間が二分であると示していた。さすがにもう無理だと感じ、梨乃に諦めるように言おうとした。
 その時、視界の端に人影が映った。
(! あれは)
 少し離れたところにいたのは、本のようなものを見ながら歩いている、見覚えのある二人。茶髪で襟足が長くピアスをしている原翔悟と、黒髪で黒縁の眼鏡をかけている谷口彰である(前日に受けた学科全員必修の講義で先生が受講者全員の名前を読み上げて出席を取っていたので、その時に二人の名前を知ったのだった)。
 考えるよりも先に、体が動いた。梨乃の左手首を掴むと、涼子は何も言わずに二人に向かって走り出した。
「どっ、どうしたの涼子!?」
 訳も分からずに走らされている梨乃には申し訳ないと思ったが、舞い降りてきたこのチャンスを逃すわけにはいかない。心の中で謝罪をすると、涼子は思いきり息を吸い込み――一気に吐き出した。
「原くん! 谷口くん! 次の授業の教室がわかんないの、つれってって!」

     *

「でも、実はすぐそこだったんだよね。間に合ったからよかったものの……ホント、あの時は恥ずかしかったなー」
 それは四月、大学に入ってまだ一週間しか経っていなかった頃のこと。受講している講義が行われる教室が分からず、二人は途方に暮れていた。そんな時にたまたま近くを通りかかり、かつ、同じ講義を受講していた彰と翔悟を見つけ、助けを求めたのである。しかしその教室は二人立っていた場所からすぐの所にあったため、初対面だった彰と翔悟に笑われてしまったのだった。
 その時のことを思い出してクスクスと笑いながら、恥ずかしい、と言って手で顔を覆う。涼子はしばらくの間そうしていたのだが、いつまで経っても正面の席に座っている人物が何の反応も返してこないので、笑うのをやめてその額にデコピンを食らわした。
「ぃたっ」
「私の話、何にも聞いてなかったでしょ」
 急に何よ、と梨乃が言おうとしたよりも先に問い詰められる。そこで初めて、自分が涼子の話を全く聞いていなかったことに気がついた。ごめん、と謝ると涼子はため息を吐いた。今日だけでもう何度目となるこのやり取りに呆れているのだろう。
 彰が光山奈央とよりを戻したと知ってから一週間、梨乃はずっと心ここに在らずといった状態だった。講義中はぼうっとしてばかりで、呼ばれても一度で返事をすることはない。携帯電話のメールや電話にも気づかないありさま。大丈夫かと問われれば大丈夫だと答えるが、すぐにまた上の空になる。
 時間が傷を癒すだろうと思った涼子は、今まで一度も彰と奈央のことについて触れることはなかった。しかし、自然に治る見込みがない状態をこれ以上放って置くわけにもいかない。意を決して、涼子は言った。
「梨乃は、どうしたいの? 彰くんのこと」
「……」
 梨乃は口を開こうとしなかった。自身の中で、答えが見つかっていないのだろう。否定されているわけではないと感じとり、涼子は続けた。
「彰くんが彼女とうまくいってほしいと思うなら、きっぱりと諦めるべきだと思う。でももし、あんな浮気女許せない、って思うなら――」
「……!」
 椅子から立ち上がる勢いで反論しようとする梨乃を、手で制する。今欲しいのは反論ではないと、目で訴えかけながら。
「――思うなら、奪う気でいけばいいんじゃないかな。あたしはね、梨乃に今みたいに落ち込んでほしくないの。梨乃が進むと決めたら、あたしは何だって応援する」
 そう言うと涼子は優しく梨乃に微笑みかける。しかし、その顔はすぐに歪んでしまった。その原因が何なのかを梨乃が知ったのは、瞬きをした際に自分の目から涙がこぼれたからである。
 涙は止まることなく、次から次へと流れ出た。それでも涼子の気持ちにこたえようと、必死に言葉を紡いでいく。
「……私、ね……彰くんが付き合ったって、知って……っ……すごく、ショックだった」
「うん」
「でもね……別れて、ほしい、とか……思わない。彰くん、には……幸せに……なって、ほしい、の……っ」
 そっと、ハンカチを差し出された。やっとの思いでありがとうと言ってハンカチを受け取ると、自身の目にそれをあてる。
 少しの間、思い切り泣くことにした。


 しばらく泣いた後、ハンカチを目から外すと正面の涼子と目が合った。どちらともなく、にこりと笑う。
「ありがとう、涼子」
「どういたしまして」
 心の中にあった暗雲が晴れていくのを感じた。この一週間は出口のない迷路の中をずっと彷徨い続けている気分だったのだ。しかし、涼子に助言をもらいながらも、なんとか出口に辿り着くことができた。これで前に進むことができる。
 心の中でもう一度、ありがとうと言った。
「梨乃ちゃん。涼子ちゃん」
 名前を呼ばれて二人が振り返ると、そこには翔悟がいた。彰が一緒にいないのが珍しく、二人は違和感を覚えた。すると、そんな二人の心情を察したのか、翔悟はにやりと笑って見せた。
「アイツは真面目に授業。俺は自主休講」
「……それ、ただのサボりじゃん」
「細かいこと気にするなよ」
 文句を言いながら、二人が座っている机の空いている席に腰を下ろす。翔悟が座ったのを見届けると、入れ替わるようにして涼子が立ち上がった。心底嫌そうな顔をして。
「じゃああたしは、嫌で嫌で仕方のない授業にいってきますよ」
 時計を見ると、もう少しで四限が始まるような時間だった。涼子は恨めしそうに梨乃と翔悟を見ると、わざとらしく大きなため息を吐いて歩き出した。行ってらっしゃい、頑張れ、とそれぞれがその背中に声をかけて見送る。
 涼子の背中が見えなくなると、翔悟は梨乃に向き直った。
「そういえば梨乃ちゃん、今度の土日ヒマ?」
 突然の話だったので少し面食らった。何だろうと思いながらも、頭の中で今週の予定を思い起こす。予定は何もなかった。
 その旨を伝えると翔悟は小さくガッツポーズをし、鞄の中を探し始めた。取り出してきたのは2枚の映画のチケットである。
「この映画、すごく面白いらしくてさ。良かったら一緒に行かない?」
 一枚を梨乃に差し出した。その映画は、公開日から動員数ナンバーワンを誇っている、今大人気の恋愛モノ。原作の小説を読んだことのある梨乃は、映画化を知った時から観たくて仕方のなかった映画である。
 観に行きたいと思う反面、どうして自分を誘うのだろうという疑問が生まれてきた。なかなか返事をしない梨乃にしびれを切らしたのか、翔悟は僅かに身を乗り出し、梨乃の瞳を正面から真っ直ぐ見つめた。
「ほら、失恋を癒すには新しい恋がいいって言うだろ? だからさ――」
 翔悟の瞳は、今までに見たこともないほど真剣なものだった。
「――俺と、デートしない?」

〈続〉
 
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