交錯V
                    紫陽花
 
 
「大丈夫?」
 戸惑いながら発せられたその声に高橋梨乃は力強く頷いた。涙が後から後から溢れ出してくるような状態で、とても大丈夫には見えないだろうことは自分でもよく分かっている。けれど相手に心配をかけさせるわけにはいかないと、首を縦に振ったのだ。
 ハンカチの両目を覆っている部分がゆっくりと水分を吸いとっていく。泣き始めた時より落ち着いてきてはいるものの、涙はまだ止まる気配をみせない。水分をたっぷり含んだのを感じてハンカチを目から離し、まだ乾いている部分を握っている手で探し、再度両目へと当てる。この動作も、何度行われたか分からない。
 ふと、頭の上に何かが載った。それは撫でるように何度も頭の上を前後に滑る。それが原翔悟の手であると気づいたのは、その数秒後。
「映画でそこまで泣けるなんて、梨乃ちゃんは心が綺麗なんだね」
 その優しげな声に、止まりかけていた涙が再び溢れ出してきた。
 
     *
 
 数日前。
 何かを聞き間違えたのかと思った。しかし差し出された二枚のチケットと、目の前に座っている人物のあまりにも真剣な瞳に、聞き間違えてはいないのだと確信した。普段なら煩いと感じる食堂のノイズも、今は別世界のもののように遠くに聞こえる。
 デートに誘われたことなど完全に忘れ、気づくと頭に思い浮かんだ疑問をそのまま口にしていた。
「いつから知ってたの? その……私が、彰くんのことを好きだって」
 梨乃が谷口彰のことを好きだと打ち明けたのは、親友の峰涼子だけである。それなのになぜ、目の前にいる翔悟はそのことを知っていたのだろうか。涼子が勝手に話したとは考えられない。だとすれば、態度に出ていたのだろうか。
 いつって、という声を聞いて梨乃は顔を上げる。と、言いにくそうにしている翔悟と目が合った。少しして翔悟はやや下に視線をそらしたが、やがて腹をくくったかのように続きを切り出した。
「梨乃ちゃんが彰のこと好きなんじゃないかって思ったのは、彰が奈央ちゃんと付き合いだしたって聞いたあとからだよ。いつもと様子が違ってたから、ひょっとしたらって思って……」
 奈央―彰のことは忘れると数十分前に決心したばかりだというのに、その名前を聞くと心の奥が苦しいほどに痛み出す。光山奈央は彰の高校時代の元彼女で、一週間ほど前にまた付き合いだしたらしい。そもそも別れた原因というのは奈央にあった。彼女が何度も浮気を重ねたために彰の方から別れを切り出して、その後は一切連絡を取らなかったのだという。
 ところが大学に入学してから何週間か経ったある日、高校の頃の友人を通して奈央から連絡があったらしい。初めは相手にしなかったそうだが、どうしてもやり直したいと何度も言われ、浮気をしないことを条件にもう一度付き合うことにしたのだそうだ。
「だからさ、今はパァーっと遊んで、失恋なんか忘れちゃおうよ!」
 二人の間を流れる沈んだ雰囲気を振り払うように、翔悟はわざと明るく言う。その際に両手を真横に広げたのだが、横を通ろうとした皿の載ったトレーを持っている男性に危うくぶつかりそうになっていた。危ないだろ、という眼で一瞬睨んで去っていった男性と、その後ろ姿に向かって謝っている翔悟―その光景に、梨乃は思わず噴き出してしまった。それを見て、翔悟はしてやったりといった顔をした。
 その後に差し出された映画のチケットを、梨乃は素直に受け取った。
 
   *
 
「……ゴメンね」
 梨乃はそう言ってまた頭を下げた。これで何度目になるのか分からないが、まだ謝り足りていない気がしている。再度謝罪の言葉を告げようとしたが、それは翔悟によって止められてしまった。
 翔悟に慰めてもらってしばらくした後に、ようやく涙は止まった。今は近くの喫茶店に入って落ち着いているところである。その間に梨乃は数え切れないほど、あんなに泣いちゃってゴメンね、と翔悟に謝っていたのだ。
「確かに切ない映画だったけど、まさか梨乃ちゃんがあんなに泣いちゃうなんて」
「だからゴメン――」
「あー、なし! もう謝るのなし!!」
 翔悟は叫ぶように言いながら、両手でバツの形をつくる。梨乃はそれ以上何も言わなかった。それを確認してから、翔悟は肘をテーブル上に載せてその上に顎を置くという体勢になった。首を少しだけ曲げて、ふっと笑ってみせる。
「俺は、それが可愛いなって思ったの。だから謝るの禁止」
 男の人に面と向かって可愛いと言われたのは初めてに等しかった。頬や耳が熱い。外にも聞こえるんじゃないかと思うほどに鼓動が速く、大きくなっていく。恥ずかしい、と梨乃は翔悟から視線を外した。
 しばらくして、顔は少し横に向けたまま、目だけを翔悟へと戻す。と、数日前に見せた時のような真剣な眼差しで梨乃を見ていた。先程よりも鼓動が速くなる。どうしたの、と聞くよりも早くに翔悟の口が動いた。
「ねぇ、梨乃ちゃん」
 その声はいつもよりも少し低い気がした。あまりにも真剣な瞳をしているからだろうか。
「俺と……付き合ってくれない?」
 言っておくけど本気だから、と付け足した。
 
   *
 
「――そう。じゃあ、うまくいったんだね」
 携帯電話の向こうで今日の出来事を惚気(のろけ)話を交えながら話す翔悟に言った。返ってきたのは曖昧な言葉だったが、涼子はイエスだと捉えることにする。そうすることで、左胸の痛みが少しでもおさまると思ったからだ。
その後は他愛ない話を少しして、電話を切った。腰かけていたベッドへ背中を沈めながら、今日の二人のデートの様子を想像してみる。映画館の前で待ち合わせ――二人で映画館に――終わって外へ出ても泣きやまない梨乃を翔悟が慰める――気分転換に喫茶店へ――翔悟の告白――。
 どんどん増していく痛みを止めようと、左胸を右手で力強く抑えた。しかし一向におさまる気配がない。そこで今度は、身体の向きを変えてみようと試みる。身体を横にした瞬間、目から涙が溢れてきた。
『梨乃ちゃんって、彰のこと好きなの?』
 翔悟との会話が頭の中に蘇る。それは先ほど交わされたものではなく、一週間ほど前のものだった。
『俺、梨乃ちゃんのこと好きになっちゃったかも』
(……あぁ、そうなんだ)
 分かった。ずっとあったこの胸のつっかえ、今のこの痛み、この涙の、その理由に、気づいてしまった。そしてすぐに後悔した。今頃気づいてももう遅い。
『ねぇ、涼子ちゃん……ちょっと、協力してくれない?』
 その言葉に頷いたのは、他でもない涼子自身。それは、涼子の意志だった。
 それでも、気づいてしまったこの想いが止まることはない。涼子は、声を出して泣いた。
〈続〉
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