交錯 W
                    紫陽花
 

 今思うと、きっと一目惚れだったのだろう。
 襟足が長い茶色の髪、両耳についている少し大きめのピアス、銀のアクセサリーでジャラジャラした首もと─目立つ人だなぁ、それが第一印象だった。いつも横にいる、黒髪で黒縁眼鏡のいかにも真面目そうな彼の友人が霞んでしまうくらい、彼の存在は、彼女――峰涼子の中でとても大きな存在だったのである。
 彼のことが気になっていたのは、涼子の中では無意識のことだった。彼の名前を聞き逃すまいと、受講者の名前を読み上げる先生の声に必死に耳を傾けた。教室が分からずに友人と迷っていた時は、彼の姿を見つけると、二度と来ないチャンスだと言わんばかりに彼の元へと走っていった。
 それらは全て、彼と仲良くしたいと思っての行動のつもりだった。まさか涼子自身、彼に恋愛感情を抱いているとは思ってもいなかったのである。
 それも、その感情に気がついたのが彼――原翔悟が、彼女の友人――高橋梨乃と付き合うようになったと聞いた瞬間だとは。

「……うー……」
 とりあえずといった感じで学校には来たものの、授業に出る気にはなれずに涼子は食堂で一人、机に突っ伏していた。いつもは梨乃と一緒に電車で登校して授業を受けたり食堂などで喋ったりしているのだが、今日はわざと電車の時間をずらして一限目の授業もサボっている。
 朝、体調が悪いから遅刻するというメールに対して、心の底から心配する返事が梨乃からきた時には、罪悪感でいっぱいになった。彼女は何もしていない。むしろ彼女が幸せになればと思い、自分で決断したことだった。
 それなのに。
「バカみたい」
 誰にともなく呟く。その直後に、携帯が着信を告げるためにチカチカと光っていることに気がついた。ライトの色から、メールが届いているらしい。重たい身体を起こして携帯を手に取り、誰からかと確認するために受信ボックスを開く。
 と、涼子は足元の床が崩れ落ちるような感覚に襲われた。ゆっくりと、送信者の名前を口にする。
「……りの……」
 少しの間、涼子は動くことができなかった。しばらくして動けるようになったかと思うと、本文を見ることもなく受信ボックスを閉じ、携帯を机の上に置いた。そして再び机の上に突っ伏す。
 梨乃と翔悟を思い浮かべると胸が苦しかった。二人が並んでいる姿など見たくないと思った。
 目頭が熱を帯び始め、何かが目から零れ落ちる。そこでようやく、自分が泣いていることに気がついた。思わず、奥歯をかみ締める。
(こんな感情……気づかなきゃ良かったのに)
 そう思った時だった。

「……涼子、大丈夫?」
 横から聞こえたそれは、あまりにも聞き慣れた声。
 けれど、今は一番聞きたくなかった声。

 反射的に声の主に向けて顔を上げる。横に立っている人物――自分の名を呼んだ声の主――梨乃と目が合うと、涼子は顔を上げたことをひどく後悔した。今の状態で梨乃と普通に接する自信がなかったのである。
 一方、そんなことを知る由もない梨乃は、体調を崩して遅刻してきた親友が机に突っ伏して泣いている状況に出くわしたのである。心配しないほうがおかしかった。そもそも、涼子が泣く姿をほとんど見たことがない。そんな彼女が泣いているのだから、よほど辛いのだろう。梨乃はどうすれば涼子にとって一番いいのか、頭をフル回転させて考えていた。
 涼子は、そんな梨乃の頭の中を容易に察することができた。すると、ある情景が頭の中に浮かび上がった。それは、想い人が元彼女と付き合うようになったと知ってショックを受けていた、親友の姿。
『でもね……別れて、ほしい、とか……思わない。彰くん、には……幸せに……なって、ほしい、の……っ』
 あの時の親友は、今の自分と同じ状態であったのだということに気がついた。途端に、悩んでいる自分が馬鹿らしく思えてきた。同時に、どこからか笑いがこみ上げてくる。
「りょ、涼子?」
 泣いていると思ったら笑い始めた。見ている方は戸惑うしかないだろう。しかし涼子は、何かが吹っ切れたような気がしていた。
 困惑の表情を浮かべている親友に、向かいの席に座るように促す。
「今日の涼子、何か変だよ。まだ体調良くないんじゃないの?」
「ごめんごめん。もうなんともないよ、大丈夫。」
 梨乃はまだ疑っているようであったが、涼子は何度も大丈夫だとくり返す。しばらくそのやり取りが続いた後、梨乃は渋々といった表情で納得した。それを確認すると、涼子は話題を変えた。
「それにしても、よくここにいるって分かったね」
「そりゃあ、この食堂は涼子のお気に入りだから。学校に来てるとしたら、一番にここを探すよ」
 よくお分かりで、とは口には出さなかった。普段なら当たり前に交わされるこのやり取りが、今の涼子にとってはとても心地が良かった。親友の心の強さと、その存在の大切さを知った今では。
 ふと、梨乃が何かを思い出したような顔をした。少し言いずらそうにしてから、静かに口を開いた。
「そういえば、メール見た?」
「……あ」
 言われて、思い出した。受信は確認したが、本文は見ていなかった。慌ててメールを開こうとした涼子を、梨乃が止めた。
「ちょっと話したいことがあって。今どこにいるのか聞いただけだから、今メール見なくていいよ」
「そうなんだ。話って何?」
 明るく聞き返したつもりだったが、少しだけ後悔した。話というのは恐らく、昨日翔悟から電話で聞いたことと同じ内容なのだろう。涼子があれほど悩んでいた話。
 けれど、今なら聞ける気がした。いつかの親友を思い出して二人の恋を応援しようと思える、今なら。
 少しの時間をおいて、梨乃は話し始めた。
「あの、ね。昨日、翔悟くんと一緒に映画を見に行って、その後……こ……告白されたの」
 再び口を閉じる。その顔はりんごのように真っ赤だった。今までに付き合ったことがないらしいのだから、そういう反応になるのは自然なことだろう。
 そんな可愛らしい親友に、涼子は助け舟を出そうと思った。
「一応、知ってるよ。翔悟くんから先に聞いちゃったからね」
 自然に話せたかどうかは分からない。もしかしたら声が震えていたかもしれない。しかし、梨乃が驚きと安堵の表情を示したことから、うまく話せていたのだと確信した。

 ――キーンコーンカーンコーン

 遠くから、チャイムの音が聞こえた。
 すると、梨乃は固まった。しかしそれは一瞬のことで、慌てて時計で時刻を確認したかと思うと、思い切り立ち上がった。
「二限目!? ごめん、私、用事があるの!」
 涼子も授業あるでしょう、と、目で涼子に早く立ち上がるように訴える梨乃。しかし、涼子は今日一日、授業に出るつもりなど一切なかった。なので、笑顔で手を振ってみせる。
「気をつけてねー」
「……もう! あんまりサボると、単位落とすよ!」
 そう言い残すと、梨乃は駆振り返ることなく駆け出した。あんなに急いで一体どんな用事があるのだろう、と涼子は考える。しかし一つの結論に至った途端、涼子は考えることを放棄して、次の一時間半をどうやって過ごそうかと考え始めた。
 梨乃には最後に言い残したことがあったのだが、涼子はそれには気がつかなかった。

   *

「なぁなぁ、彰」
「何」
 翔悟は隣に座って小説を読んでいる谷口彰に声をかけた。彰は顔も上げず、小説を読み続けながら声だけで返事をする。そんな彼の反応は予想の範疇だったのか、翔悟はたいして気にも留めず、話を続けた。
「俺な、昨日梨乃ちゃんに告ったんだ」
「……へぇ」
「何だよその顔は」
 意外だとでも言いたげな顔をして彰は顔を上げた。今度の反応は予想していなかったらしく、少し口を尖らせながら何が意外なんだという顔をして返した。
 すると、彰は何もなかったように再び小説に顔を戻した。口だけはきちんと返事をする。
「いや、今までのお前の好みとは少し違うと思った」
「確かにな。けど、ほら、梨乃ちゃんって、なんか守ってやりたくなるタイプだろ? ……ま、お前は奈央ちゃんが一番なんだろうけどな」
 勝ち誇ったように両方の口の端を吊り上げて、文字通りニヤニヤと笑ってみせた。すると、再び意外そうな顔をして彰が顔を上げて翔悟を見る。
「なんでそこで奈央が出てくるんだ?」
「はぁ? なんでってそりゃ、お前らが付き合ってるからだろ」
 そこまで言ってようやく、彰は翔悟の言った意味を全て理解した。理解してから、自分の記憶と違う部分があることに気づく。
 小説を閉じ、真剣な顔を隣に向けた。そして、一言。
「別れた」
 それはあまりに突然すぎて、翔悟には一つも理解ができなかった。だから、聞き返した。
「は?」
「いや、だから別れたんだって。奈央と」
 彰が言った言葉を何度も頭の中で復唱し、ようやく翔悟は理解することができたような気がする。しかし、あまりにも唐突過ぎる事実だったので、もう一度聞き返してしまった。
「……はい?」

<続>
 

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