交錯 X
                    紫陽花
 

 なんとなく、そんな気はしていた。しかし、もう一度信じてみたいと思ったのである。それは恐らく、惚れた弱みという奴なのだろう。
『いやよ、彰! 別れるなんてイヤ!』
 電話の向こうでヒステリック気味に叫ぶ声も、いい加減聞き飽きた。嫌なら、しなければ良かったのに。約束を破らなければ、谷口彰も彼女とは別れないつもりだったのだから。
 その旨を電話の相手に告げる。返ってきたのは、予想通りの逆ギレともいえる発言。
『だって、メールも電話もしてくれなかったじゃない! 大学が違うからただでさえ毎日会えないのに。彰が連絡してくれなくて、私がどれだけ寂しい思いをしたか!!』
 どこかで聞いたセリフだと思い、記憶をめぐらせる。すると、以前に別れ話を切り出した時と同じセリフであることに気がついた。彼女も自分も、何も変わっていないのだと知り、彰は自嘲気味に笑う。もちろん、電話の向こうは相変わらず何かを言っており、彰の様子など知りもしない。
 もういいだろうと思った。これでは何度でもくり返す。いい加減、終わらせてしまいたかった。
「言っておくけど、裏切ったのはお前だからな、奈央」
『彰、待っ――』
 冷たく言い放つと、相手の返事も待たずに通話を切った。そのまま携帯の電源を落とす。今は、彰が出るまで何度もかけてくるはずであった。以前もそうであったように。
 ほとぼりが冷めた頃に携帯電話の電源をつけ、先程までの電話の相手――光山奈央のデータを電話帳から消去しようと考える。そういう条件で、彼女ともう一度付き合うことにしたのだから。

   *

 ――ブブブ……ブブブ……

 机の上に置いていた携帯電話が、いきなり震えだした。マナーモードにしていたので、着信を知らせるために机の上で小刻みに動いている。メールだと思い放っていた彰であったが、まだバイブがなり続けていることから電話なのだと理解した。
 ベッドで寝転んでいた身体を起こし、読んでいた小説を枕元に置く。机に近づいて携帯を手に取ると、画面に着信者の名前が出ていた。受話器を上げ手いる状態のボタンを迷わず押した。
「もしもし」
『あの、もしもし、彰くん?』
 電話の相手は、同じ大学に通う高橋梨乃。彼女とはたまにメールでのやりとりをする程度で、電話をすることはあまりなかった(そもそも、彰自身が電話をすることが滅多にない。するとすれば、暇だと言って電話をかけてくる翔悟と少し話をするくらいである)。だからどのような用事なのか、彰には想像できないでいた。
「あぁ。どうかした?」
『えっと、ね……その……』
 何か言いにくいことなのだろうか。梨乃は言葉を詰まらせている。彰は適当に相槌を打ちながら気長に待つことにし、ベッドに腰を下ろした。
 恐らく一分も経ってはいないだろうが、ようやくといった感じで、梨乃は切り出した。
『彰くん、明日、何限目が空いてる?』
「明日? ちょっと待って」
 聞かれ、考える時の癖で顔を上げて天井に目を向ける。翌日である月曜日の時間割を頭の中に思い浮かべた。すると、一つだけ空いている時間があった。上に上げていた顔を下に下ろし、視線を正面の壁へ向ける。
「明日は二限が空いてる」
『そっか』
 電話の向こうで安堵の声が聞こえた。と思えば、次にやってきたのは沈黙。電話の相手が何をどうしたいのかが分からず、彰は何も言わずに待つことにする。
 しばらくして、再び梨乃の声が聞こえた。
『じゃあ、あのね。明日の二限、少しお話しない?』
 彰はますます訳が分からなかった。話したいことがあるのなら、電話をしている今、この時に話せばいいのではないだろうか。
 その考えと伝えると、梨乃が慌てた声で答えた。
『ダメ。直接会って話したいことなの』
 先程までのおどおどした感じとは違い、今度は凛とした、決意を表す声だった。そこまで言うのならと、彰は、分かった、と答えた。
 それじゃあまた明日、という声に、おやすみ、と返す。すると向こうからも、おやすみなさい、返ってきた。その後、通話が切れる音が聞こえた。
 携帯の画面が待ち受けに戻っていること確認し、彰は携帯を枕元に置いた。久々に落ち着いた電話をしたな、とぼんやり考える。先日の奈央との電話を思い出しそうになり、振り切るように小説に手を伸ばして、そこに書かれた活字を目で追った。

   *

 月曜日、二限。
 ふと、何でお前はいつも言うのが遅いんだよ、という翔悟の先程の言葉を思い出す。別れた理由や経緯、別れ際に言ったことなど散々問い詰められ、彰はすでに疲労を感じていた。
 彰からしてみれば、聞かれない以上言うことがないだろう、と思っている。もちろんそれは翔悟に伝えたのだが、それは自己申告だろ、と返された。自身のルールを他人に押し付けるなと言いそうになったのだが、それは心の内に留めておくことにした。
 突然、静かであった図書館に、バタバタと走ってくる足音が響いた。その音で彰は我に返り、音の主が誰なのかを探すためにその姿を探す。やがて本棚の間から、長距離を走って疲弊している梨乃の姿を確認した。椅子から立ち上がると向こうも気がついたらしく、両手を合わせて謝罪の意を表しながら近づいてきた。
「ごめんなさい、遅くなって」
 肩で息をしているところを見ると、全力で走って来たのだろうことが分かる。そんなに走らなくてもいいのに、と思ったが、口から出たのは別の言葉だった。
「図書館では静かに」
 その言葉は、滅多に出ない彼なりのジョークのつもりだった。
「……あ。ごめんなさい」
 しかし、どうやら本心と捉えられてしまったらしく、梨乃は再び謝罪をする。どうしようかと少し戸惑った彰は、とりあえず座るよう促した。ありがとう、と言って彼女が座ったのを確認すると、自身も先程座っていた席に腰を下ろす。
「それで、話って?」
 先程の言葉はなかったことにしようと思い、彰は本題を聞こうと問いかけた。すると梨乃は一つ、大きく深呼吸をした。そうして、ゆっくりと彰を正面に見る。
 その様子から、彼女の緊張した様子が嫌でも伝わってくる。なぜか、彰まで緊張してきた。
 たっぷりと間をおいてから、梨乃は口を開いた。

「私ね、彰くんのことが好きなの」

 言葉にできないとはこのことなのだろうか。彰は予想すらしていなかったその言葉に、どう反応しすれば良いのか分からなかった。そんな彰の様子を梨乃がどう受け取ったのかは分からないが、彼女は言葉を続けた。
「奈央……ちゃんと付き合ってるのは知ってるよ。別れてほしいとか、そういうのじゃなくて……ただ、知ってほしかったの。私の気持ちを」
 変なこと言ってごめんなさい、という言葉は、彰の耳には届かなかった。何故奈央が出てくるのか、彰の頭にはその疑問で浮かんでおり、少々イライラしていた。その疑問を口に出そうとして、けれど、出る直前に彰はその疑問を飲み込んだ。先程翔悟に言われた言葉を思い出したのだ。何でお前はいつも言うのが遅いんだよ、と。
「奈央とは別れたよ」
 唐突に言う。え、という声を漏らして、梨乃はよく分からないという顔をした。その目からは涙が一筋流れていたが、なんとなく気まずくて、彰は気がつかない振りをする。
 かわり、というのもおかしな表現だが、かわりに、奈央と別れたことについて話すことにした。
「奈央は、恋人とはいつも一緒にいたいっていう考えらしい。高校の時は、奈央の希望で二人でいることが多かった。今は大学が違うから、そういうこともできないんだが」
 そこで一度区切り、隣にいる梨乃に目をやった。彼女は真剣に彰の話を聞いている様子であった。涙を拭いていないのは、自分が泣いていることに気がついていないからなのだろうか。
 彰は鞄の中に入っているハンカチを探す。その感触を見つけるとかばんから取り出し、梨乃に手渡しながら話を続けた。
「それと、毎日電話やメールがないと嫌らしい。好きなら連絡しろとよく言われた。……それがないと、寂しいんだと」
 再び梨乃に目をやる。彼女はハンカチを渡されたことで自分が泣いていることに初めて気がついたらしい。今は彰のハンカチで両目を押さえている。
「知ってると思うけど、俺は電話やメールをするのは苦手だ。だから、それはできないと言ったんだ。そしたら――」
 過去の衝撃が、フラッシュバックする。思わず奥歯を噛み締めた。けれど、なんとか喉の奥から言葉を搾り出す。
「――寂しさ紛れらしい。別の男と一緒にいるのを見かけた。最初はすぐに謝ったから許したけど、結局なおらなかった」
 目頭が熱くなるのを感じた。決して、奈央のことが嫌いなわけではないのだ。ただ、浮気という形で裏切られたということが、ひどくショックだったのである。
 ふと名前を呼ばれた気がした。声のした方に目をやる。と、梨乃と目が合った。彼女が無意識に呼んだのか、自分の空耳なのか。それは分からないけれど、今は彼女が真剣に聴いてくれていることが、とても嬉しいと感じる。
「奈央のことは……たぶん、まだ好き、なんだと思う。だけど、価値観が合わない。だから、もう付き合うこともないと思う」
 自分から、自身の感情を話したのは初めてのことのように思う。滅多に思いを口にしない彼は、けれど、今は聞いてほしいと思っていた。自分のことを好きだといってくれた彼女に、おそらく良い返事をすることはできないが、自分を知ってほしいと思った。
「……ありがとう」
 彼女は泣きながら、それでも心の底から幸せそうに笑った。
「彰くんの気持ち、聞かせてくれてありがとう」
 お礼を言うのは彰の方だった。しかし、感謝の言葉が口から出ることはなかった。代わりに目から温かい何かが流れていった。

   *

「涼子ちゃん見―っけ!」
 遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえた。少し憂鬱な気持ちになりながらも、携帯電話の画面を見つめていた目を、声の主へと向ける。涼子の名を呼んだ相手―原翔悟は大きく手を振りながらこちらへと近づいてくる。
 どうして立て続けに二人に合ってしまうのだろうか、小さく手を振り返しながら涼子は思った。幸いなのは、二人が並んでいるところを見ていないことである。
 涼子の机まで来ると、翔悟はさも当たり前のように正面の席に座った。
「一回生のうちからサボっちゃダメだろ?」
「アンタこそサボってるじゃない。同じ授業でしょ」
 説教じみたことを言ってきたので、軽く笑いながら同罪だと返す。そりゃそうだ、と翔悟は笑いながら答えた。
 かと思うと、突然真剣な顔になった。
「それより聞いてよ、涼子ちゃん」
 涼子は嫌な予感がしたのだが、聞かないわけにもいかなかった。あくまでも冗談らしく聞こえるように、梨乃と何かあったの、と聞いてみる。
 しかし翔悟は無言で首を振った。
「梨乃ちゃんじゃなくてさ。……彰が、奈央ちゃんと別れたらしいんだ」
 それは涼子にとっても衝撃の事実であった。何があったのかと聞き返したい衝動に駆られた。けれど、それを遮るように、もっと驚くべき言葉がその後に飛び出してきた。
「梨乃ちゃんと彰が付き合うなんてことになったらどうしよ、俺!」
 訳が分からない、と涼子は思った。何故なら。
「何言ってるの……? アンタと梨乃は付き合ってるんでしょ?」
 何故なら二人は、梨乃と翔悟は、付き合っているはずだから。梨乃は性格上浮気などするはずもなく、だから、彰と付き合うなどありえない話である。
 しかし今度は、翔悟が訳が分からないといった顔をした。
「あれ……ちゃんと説明してなかったっけ?」
「な、何よ。聞いてないわよ、説明して!」
 問い詰めるように言う。今にも立ち上がって詰め寄ってきそうな涼子に落ち着くように声をかけ、それから翔悟はゆっくりと口を開いた。
「昨日、梨乃ちゃんに告白したんだけど、今のままでは俺に申し訳ないって。真剣に伝えてくれたから真剣に答えたい、だから今は断るって。彰に振られてから、俺のことをそういう目でみれるようにしたいって」
 そう言われたんだけど、と最後に付け足す。
 しかし、涼子は始めて聞くことばかりで混乱していた。何一つ理解できなかった。もし彼の言っていることが本当なら、自分はとんでもない勘違いをしていたことになる。
 声が震えないように意識を集中させながら、涼子はゆっくりと言葉を選んだ。
「……とりあえず、もう一回言って」

<続>
 

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