交錯 Y
                    紫陽花
 

「ごめんなさい」
 震えた声で言いながら、彼女は深く頭を下げる。
 その言葉がやってくることは予想通りであったため、たいして驚くことはなかった。しかし、その言葉を聞いたときの自身の心情には大いに驚かされた。
 というのは、予想をしていたとはいえ、その言葉はできることなら聞きたくなかった言葉である。もっとショックを受けて動揺するだろうと思っていたのだが、実際は、胸は痛んだものの想像していたような衝撃を受けることはなかった。
 少しの間自身の心情について考え込んでいたが、ふと我に返ると、目の前の彼女が未だに同じ姿勢を保っていることに気がついた。
「そんなに謝らないでよ」
 自身の心情には疑問を感じつつも、同じテーブルで向かい合って座っている彼女がいつまでも頭を上げないので、意識をそちらに集中させることにする。声をかけると、彼女は恐る恐るといった様子で顔を上げた。その瞳は、今にもこぼれ落ちそうなほど涙でいっぱいである。
 前にも同じようなことあったな、と思いながら鞄に入っていたハンカチタオルを取り出し、差し出す。それを見た彼女はいらないという意思で首を横に振って見せたが、自分がその意見を聞き入れずにいるとやがて、ありがとう、と小さく言い、ゆっくりと手を伸ばしてハンカチタオルを受け取った。
「やっぱり好きなんだろ? ……彰のこと」
 本題を話そうと、原翔悟はそう声をかける。いきなり投げかけられた言葉とその内容に驚き、同時に翔悟への申し訳ないという気持ちが湧き上がり、梨乃は涙を拭いていた手を止めてた。そして、大きく頷いた。
 先日、梨乃は悩んだ末に谷口彰に自分の想いを伝えた。その時は高校の頃の同級生と付き合っていると思っていたので、初めから玉砕のつもりで告白したのである。後で聞いた話では、少し前に彼女とは別れていたらしい。恋愛の価値観が合わなくて彰から別れを告げたとのことであったが、まだ忘れることができないとも言っていた。
 自分の想いを受け止めてくれ、その上自らの想いもすべて話してくれた彰を、やはり好きだと思った。それは彰に彼女がいてもいなくても同じだろうと梨乃は考えている。付き合いたいという感情よりも、谷口彰という人間が好きだという気持ちのほうが強かった。
 だから、梨乃はもう一度言った。
「私は、やっぱり彰くんのことが好き。だから――そんな気持ちのまま、翔悟くんとはお付き合いできないです」
「うん……分かった。ありがと、聞かせてくれて」
 彰くんの気持ちを聞いたとき私もこんな顔してたのかな、翔悟の顔を見て、梨乃はぼんやりとそんなことを思った。

   *

『ごめん、今日行けなくなっちゃったのよ……。お詫びは今度するから、私抜きで楽しんできて! 涼子』
 このメールが届いたのは、待ち合わせの時間の十五分前のことである。このメールに梨乃は驚いた。
 今日は梨乃、峰涼子、彰、翔悟の四人で遊ぶ計画をしていた。場所は、梨乃が親戚からもらってきた割引チケットがある、とある遊園地。ところが、涼子からこれに来れないと連絡が来たのである。
 四人で遊ぶのを楽しみにしていた梨乃にとってはとても残念なことであった。また、男二人と女一人となった状況に少し緊張もしていた。
涼子にまた今度遊ぼうと返事を返した時、高橋、と声をかけられた。
「あ、彰くん!」
  声のしたほうを見ると彰がこちらに向かって歩いてきているところであった。やがて梨乃の傍まで来ると、おはよう、と挨拶をする。そして、申し訳なさそうに言った。
「せっかく誘ってもらって悪いんだが、翔悟が来れなくなったらしい」
「え、翔悟くんも?」
「……も?」
「うん、涼子もダメになったって、さっき連絡が――あ……」
 涼子だけでなく翔悟までも来れなくなってしまったことが残念で仕方がない。と同時に、ある事に気がついた。途端に、梨乃は顔が徐々に熱を帯びていくのを感じた。
(ふ、二人きり……デートみたい!?)
 一方の彰は、四人が二人になってしまい、どうしたものかと考えていた。今日はもう解散してしまうか、二人で遊ぶか。
「どうする? 二人になったが」
 二人、という言葉に梨乃が異常に反応してしまい、返事をする余裕がないことに彰は気づかない。困っているのだと感じていたのである。
 数分の沈黙が流れた後、梨乃は小さな声で、しかしはっきりと言った。
「二人で……遊びたい、かも。……せ、せっかく来たんだし!」
 その言葉に、彰は分かったと頷いた。
「じゃあ、行こう」


 まるでデートのようになった現状に、梨乃はとても興奮していた。それは彰と遊ぶことへの嬉しさと、二人きりだという緊張感からである。そのために、いつも以上に口数が減ってしまっていた。彰もそれほど喋るタイプではないため、いつの間にか、二人の間は沈黙で覆われていた。
 何かを話そうとすればするほど、余計に何を話せばいいのかが分からなくなり、何も言うことができない。梨乃の中でだんだんと、緊張や焦りといった感情が大きくなっていった。
 その時である。キャーという複数の女性の声が聞こえた。その方を見ると、ジェットコースターが走っているのが見える。なんとなくで見つけたものだったが、今の梨乃には会話になるものがほしかった。やけに近かった。
「あの、彰くん。ジェットコースター乗らない?」
 すると、彰の顔が引きつった、ように見えた。少し考えるそぶりを見せてから、一つ頷いた。
「……分かった。乗ろう」
 この時は彰の感情を読み取ることができなかった。しかしそれは、ジェットコースターが終わった後に嫌でも知ることとなった。


 彰は、ジェットコースターの出口付近にあったベンチにもたれ掛かっていた。それも、疲れきった様子で。
「彰くん、大丈夫?」
「……あぁ」
 ジェットコースターを降りた直後よりは元気になっていたが、声まだ弱弱しく、本調子にはなっていない。
ぐったりともたれ掛かるように座っている彰を、梨乃は隣に座って見ていた。飲み物を買いにいこうかと聞いたが必要ないと言われ、他にすることを見つけられなかったのが一番の理由なのだが。
 少し元気が出てきた彰を見て、それにしても、と声をかける。
「彰くん、ジェットコースター苦手だったんだね。言ってくれれば、別のに乗ったのに」
言えるわけがないだろう、と呟いた声は小さすぎて、横に聞こえることはなかった。ため息をついてから、今度は隣にも聞こえるような声で言う。
「もう大丈夫だと思ったんだ。でも、駄目だったな」
 ふてくされたように言うその姿が、何だか子どもっぽい気がした。それを見て、梨乃は小さく笑ってしまった。彰が不機嫌そうにこちらを見るのがまた新鮮で、なんだか可愛らしいと思う。
 これを期に、二人の間にあった緊張が少しずつ緩んでいくように感じた。


 そろそろ日も暮れてきた頃、二人は観覧車に乗ることにした。この遊園地の目玉の一つに、イルミネーションがある。それは、様々な乗り物やオブジェクトに取り付けられたLEDから発せられる光や、街の明かりなどが、観覧車から見下ろした時には幻想的に感じるほど綺麗だということであった。そのために、二人はこれを最後にしようと決めていた。
 人気スポットということもあり、日が落ちてからは観覧車には長い列ができている。それに並んで待つこと三十分、ようやく観覧車に乗ることができた。
 二人は向かい合って座り、それぞれに景色を堪能していた。ここから見る景色はどちらも初めてだったのだが、本当に綺麗だと感じた。おかげで、綺麗だね、そうだな、会話という会話はこれくらいのものなってしまっていた。
 ふと、梨乃は視線を感じた。夜景から目を離してそちらを見ると、彰と目が合う。どういたの、と聞く前に、高橋、と名前を呼ばれた。
「聞いてほしいことがあるんだ。いいか?」
 真剣な様子の彰に、言葉ではなく頷いて返す。そしてこちらも真剣に聞けるようにと、真っ直ぐに座りなおした。
 一つ深呼吸をしてから、彰は口を開いた。
「図書館で、高橋の気持ちを聞かせてくれたことがあっただろう?」
 その問いかけのような確認のような言葉に、梨乃は頷いて返した。それは、今から一ヶ月以上も前の話。大学の図書館で、梨乃が彰に告白をした時の話である。
「あの時は、嬉しかった。高橋の気持ちを聞かせてくれたことも、俺の気持ちを聞いて受け入れてくれたことも。それから……たぶん、初めは無意識だったと思う。高橋のことを、意識して見るようになってた」
 これに梨乃は驚いた。彰の変化には全く気がついていなかったからある(その変化は内面的なもので、表面には出ていなかったのかもしれないが)。同時に、嬉しいと思った。そういう風に見てもらえていたことが。そういう風に想ってもらえていたことが。
 彰は続けた。
「それから、今まで知らなかったこととか知ったりして……それで、まぁ、何が言いたいのかというと……」
 少し視線を外す。それは、言葉を慎重に選んでいるようだった。やがて、決心をしたように視線を戻した。
「――俺は、高橋のことを好きになった、ってこと」
「え……」
 その声は自然に漏れた声であった。頭が真っ白になって、何も考えることができない。
「ほんと、に……?」
「こんな時に嘘をつくか」
「でも……だって」
 なにも、彰の言ってることを嘘だと思っているわけではない。けれど、その言葉は唐突で、心の底から嬉しい言葉であるからこそ、すぐに信じることは難しかった。
 すると、彰が立ち上がった。どうするのだろうと見ていると、彼は梨乃の横に座った――かと思えば、視界から姿が消えた。同時に、温かいもので身体を包み込まれているような気がした。
 少しの間をおいてから、彰に抱きしめられているということに気がついた。途端に、目から涙が溢れ出した。
「……わたし、も」
 考えはまとまっていなかったが、言わなければならない気がしたのである。彰が話したように、自分の気持ちを今、伝えてしまわなければならない気がした。
「わたしも……彰くんが、好き……大好き」
 ちゃんと伝わっただろうか、と思う。自分でも何を言ったのか分からないぐらいなのだ。けれども、ありがとう、と彰がより強く抱き締めてくれたことから、気持ちは伝わったのだと思った。
 それに負けないくらい、梨乃も明のことを抱き締めた。

   *

「どうなったのかねー、あの二人」
 梨乃と彰が乗った観覧車のすぐ下で、翔悟はそれを見上げていた。傍らには涼子もいる。二人はずっと、梨乃と彰の後をつけてきていたのだ。
 理由は、
「うまくいってると思うわよ。彰くんも、梨乃のこと気になってるんでしょ?」
「口では言わないけどね、彰。ま、態度でバレバレだっつーの」
 梨乃と彰の関係を良くしようと思ってのことだった。涼子にとっては、もう一つ理由があったのだが。
 と、あーあ、と羨ましげに言ったかと思うと翔悟は観覧車に背を向ける。
「いいなー、彰のヤツ。俺も彼女できないかなー」
「じゃあ、私と付き合う?」
「……え?」
 間髪いれずにやってきたその言葉を、翔悟が理解するのには時間がかかった。そうしている間に、涼子は悪戯っぽく笑ってみせたかと思う、歩き出してしまった。
「お腹空いたなー。何かご飯食べて帰ろっと」
「え、ちょ、待ってよ涼子ちゃん! さっきのどういう意味!?」
 慌てて追いかけてくる翔悟に次は何を言おうか、涼子は楽しげに考えていた。

<終>
 

inserted by FC2 system