幸福の天秤-Another End-

池田 風太郎 

 

 人生は、上手く行かない。深海に沈んでいくように、ただ同化し流されていくだけ――そんな目立たない人生こそがお似合いで、正解だと思っていた。

 だが人生という絡繰(からくり)じかけは、油をさせば円滑に動き、歯車一つを組み替えてしまえば動きそのものが変調する。

 あまりにもあっさりと?上手くいかないこと?は崩壊する。私は身をもって知った。

 良くも、悪くも。?上手くいかなかった自分?はもういない。

 天秤は均衡を保とうと、華奢な腕に重荷を抱え続ける。

 

 

 

 数日前、遠藤紡(えんどうつむぐ)馴染にしてかつての同僚・マキから久しぶりに会おうという誘いを受け、受諾した。そして今、遠藤はマキに指定された居酒屋の前にいた。

「……よし!」

 遠藤は手鏡で化粧や服装を軽くチェックすると、両頬を軽く叩いて気合を入れた。彼女がマキと会うのは、マキが会社を寿退社して以来である。当時と大きく変わる事の出来た自分をマキに見せようと、いつも以上に張り切っていた。

 一歩踏み出すと、居酒屋の自動ドアが開いて機械的なチャイムが鳴る。店員が一人、新たな入店客に近寄ってきた。

「いらっしゃいませ、一名様でしょうか?」

「あ、連れがいるんで」

 笑顔で答えると、遠藤は周囲を見回す。入口からそう遠くない場所に、懐かしい雰囲気の後ろ姿を見つけた。

「マキ!」

 髪型は記憶にあるそれとは異なるが、長い付き合いが曖昧さを確信に補正する。遠藤はすぐに駆け寄ると、独り飲み始めていたらしい彼女の肩をぽんと叩いた。振り返る女性は、やはりマキであった。

「やっぱりマキ! あは、久しぶりだね!」

「ああ、紡。久しぶり、随分と明るくなったね。驚いたよ」

 振り返るマキもまた、遠藤に笑顔を向けた。その美しさは遠藤の記憶と全く相変わらずだ。だが今日は、割と派手な普段着を好む彼女にしてはかなり控えめの服装で、片ピアスも着けていなかった。また、服装と反してメイクだけはやけに濃い。面倒だからとメイクを嫌う彼女にしては、これもまた珍しいことだ。

「へへ、おかげさまで! マキも元気そうだね!」

「そう見える? ……へへ、よかったよかった。とりあえず座りなよ、紡。久々だし、色々お話したいな」

 マキは隣の椅子を引き出すと、座部をぼすっと叩く。遠藤は荷物を机の端に乗せると、導かれた通りその席に腰を下ろした。

 

 

 

 その後しばらく、二人は酒を飲み交わす。昔話を交えながら、遠藤は自身の忙しく充実した近況について細かに語った。昔からマキは、何をやっても上手く行かない遠藤の幸せを願っていた。ようやく語れる成功譚はマキを喜ばせられる。また、マキと同じ幸せという土俵に上がれたことが自身にも嬉しく、遠藤はひたすらに近況を報告し続けた。

 今も昔も変わらない、仲の良い二人組。だがその有り様は、かつての二人とは同じようで異なっていた。かつては、マキが自分の幸せを誇らしく語り、遠藤はそれを相槌や突っ込みを挟みつつ聞いていた。ところが現在は、その関係が逆になっている。幸せ報告はひたすら遠藤の側から行われ、マキは相槌を打ちながら聞き手に回っていた。

「なんだか懐かしいね、後ろからぽんって叩いて、隣に座って。んで、リア充報告。昔の私たちが入れ替わったみたい!」

「……そうだね、本当にそうかも」

 飲み始めてしばらく経った頃。何気なく言う遠藤に、マキはしんみりとした口調で返した。

 遠藤はここで初めて、マキが笑っていないことに気付いた。厳密にいえば、聞き手に回るマキは笑顔である。だが、その笑顔はあまりに哀しい、笑っていない笑顔(・・・・・・・・)だった。

 遠藤には、なぜ彼女がそのような表情をしているのかが理解できなかった。以前のマキならば、遠藤の成功話など目を輝かせて食い入るだろう題材である。

 マキは疲れているのだろうか。それとも、知らないうちに何かまずい事を言ってしまったのだろうか。一度気付いてしまうと、遠藤はマキの不可解な表情の意味が非常に気になった。

「えと……マキ、どうかした?」

 気付けば空になっていたグラスを机に起き、遠藤は当たり障りのないように尋ねた。グラスの中の氷が、互いがぶつかるカランという音を立てた。

「……今日、初めての質問だね」

 マキは、遠藤の質問に答えなかった。ぽつりと、遠藤に向けたのかも不明瞭な言葉を漏らすと、グラスに残った酒を一気に飲み干す。

「紡はさ、前の赤ぶちメガネの方が似合ってたよ」

 マキは空のグラスを遠藤の物と並べて置きながら、言葉を続けた。氷のぶつかる音よりも、机に置く時のゴトっという音がやけに鈍く響いた。

 後の言葉は遠藤と目を合わせて言った、明らかに遠藤に対して放たれたものだ。その目はやはり笑顔らしき形をとっていたが、光を宿していない。

 これが、あの明るかったマキなのだろうか。

 遠藤はわけがわからず、ちゃんとサイズを合わせて買い直した白ぶちの眼鏡に、意味もなく触れた。

 

 

 

「ありがと、久々に紡の顔が見れて良かったよ」

 遠藤が返す言葉を失っていると、マキは財布から一万円札を取り出し、立ち上がった。だいぶ飲んでいたからか一瞬ふらついて、それからしっかりと両の足で立つ。

「え……?」

 状況を理解していない遠藤の前に、マキは取り出した一万円札を置く。そしてお釣りは取っておいてと言い、荷物をまとめ始めた。

「え……ちょ、ちょっとマキ!」

 遠藤は慌ててマキを引き止める。マキは逆らわず、動きを止めた。

「お金ならいいよ、私が出す。最近儲かってるしね。ごちそうするよ!」

「……そう」

 遠藤は差し出されたばかりの福沢諭吉をマキの上着に押し込むと、にこやかに笑いかけた。

 

「やっぱり、そう。そうだよね」

 

 だがマキは、感情のこもらない口調で一言言うと、そのまま踵を返して出て行ってしまった。

 その直前、遠藤は確かに見た。もはや完全に笑みの形を失った、冷たく光るマキの眼差しを。そこに込められた意思は、恐らく……失望。

 遠藤は初めて、親友(マキ)に対して恐怖を抱いた。

 

 

 

 マキは遠藤を置いて店を出ると、待つことなくどんどんと先へ進む。遠藤は慌てて会計を終わらせると、マキの後ろ姿を大急ぎで追いかけた。柵を挟んで線路に面した小路に、他の人気(ひとけ)は見当たらない。

「ま、マキ! どうしたの? 何か変じゃない?」

 叫びが、夜風に乗ってマキへと届く。その直後、眩い光と轟音が駆け抜け、柵の向こう側に敷かれた線路を特急電車が通過していった。

「……変?

 声が届いたのか、先行していたマキは呟きと共にようやく歩を止めた。遠藤はその背後に追いつき、手を握ろうとする。

 ――ぱしん。

 握ろうと差し出したその手を、勢いよく弾かれた。遠藤の華奢な手は受けた威力のままに飛ばされ、逆再生のようにマキから遠ざかった。

「な……マキ――!?

 遠藤の瞳が、驚愕に見開かれる。そしてその目は、振り返ったマキの表情を余さず映した。

 マキは、泣いていた。歯をギリギリと食いしばり、あらん限りの意思を込めて遠藤を睨みつける。涙を拭わず垂れ流したままの目には、怒り・悲しみ・憎しみ、そのどれとも取れる、強い敵意が渦巻いているのがわかった。

「変なのはどっちさ! なんで変わっちゃったの、紡……昔のあんたはそんなんじゃなかった!!

 今まで遠藤が聞いたことのない、心からの絶叫。見えない力に打ちのめされ、遠藤は動くことが出来なくなった。

 反対に、一度溢れ出したマキの激情は止まらない。怯んだ遠藤に、これでもかと言葉をぶつける。

「あんた、私をいじめてるの? 幸せな自分を見せびらかして、不幸な私を嘲笑いたいんでしょ!」

「ま、マキ……? 私は……」

「黙ってよ!!

 激情の呪縛から逃れようと必死の遠藤は弁解を唱えようとするが、激昂のマキはそれすらも許さない。遠藤の胸を両手の平で突き、押し飛ばす。そしてよろけた遠藤が次の行動を起こすより早く、さらなる口撃の追い打ちを浴びせた。

「ずっと聞いてれば、あんた……口を開けば自慢話ばっかり! 私、言ったよね? 色々お話したいなって。なのにあんたは自分のことばっかりで、私のことなんて何も聞いてくれないじゃん!!私にだって、話したいことはたくさんあったのに!」

 遠藤は、突き飛ばされたままの格好でマキの叫びを聞き続けていた。一緒に、何かが崩れていく音が聞こえる。

「確かに私は、あんたが幸せになってくれればいいと思ってたし、幸せになれって言ってきたよ。でも! こんな風になっちゃうなら、紡は幸せになんかならなきゃよかったんだ!」

 マキはここで一度言葉を切り、大きく息を吸った。彼方から仄かな明るさが舞い込み、脇を通り抜けるだろう電車が近づいているのがわかった。

 

 

 

「今のあんたとは、顔も合わせたくない。あんたなんか……もう、親友でも何でもない!!!

 

 

 

 駆け抜ける電車のヘッドライトが、一瞬だけ辺りを白に染め上げた。轟音の中にあっても、マキの言葉はしっかりと遠藤の耳に届いた。

 届いてしまった。

「……う……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!

 遠藤は、自分がそんなに速く動けることを知らなかった。だが、彼女は電車が通り抜ける一瞬の間に体勢を立て直し、同時に地面を強く蹴った。

 取った行動は、殴打。平手ではなく、握り拳に依るものだ。その対象となった女性は、全く不意を打たれた反撃に対応できず、その一撃を無防備な左頬で受け止め、吹き飛んだ。

 

 

 

 電車が遥か遠方へと消えていく。遠藤とマキの体勢は、その僅かな間で完全に入れ替わっていた。

 状況把握が追いつかないのだろうか、殴られた頬を押さえたまま蹲り動かないマキ。そして、胸の奥底から湧き上がる新たな気持ちを拳に乗せて放った、遠藤。片方が片方を見下ろす構図であることだけが、動かぬ状況だった。

 遠藤は、自分が何をしたのか、行動にかなり遅れて理解した。だが、一度決壊した感情は押しとどめることなどできない。押し寄せる感情は洪水になり、言葉となって口から飛び出した。

「そんなの……そんなの、昔のマキだって同じだったじゃん。マキばっかり幸せな花で、私はその日陰で枯れていくだけの雑草。マキこそ、見下してたでしょ。私のこと!」

 言葉を言い放つほどに、遠藤は自分を動かした新たな感情の正体に気付いていった。

「マキだって幸せの絶頂にいるくせに、なんで私の幸せばっかり否定するの? マキはよくて、私はダメなの? 自慢話ばっかり? ふざけないでよ、マキだってそうだったじゃん!」

 遠藤は、表れた新たな感情に任せて言葉の弾丸を打ち続ける。感情の正体は、怒りと憎悪。マキが直前まで遠藤にぶつけていたものと、全く同じであった。

「結局、マキは自分より下にいるものを惨めにして喜んでただけじゃん。最低だよ」

 マキは、蹲ったまま動かない。焦れた遠藤は、蹲るマキの傍らに経つと、腹を力の限りに蹴飛ばした。転がるマキの体は、やけに軽かった。

「……もういい」

 遠藤は立ち上がらないマキにありったけ侮蔑の視線を向ける。

「もういいから……死ね」

 最後に吐き捨てる一言を残し、遠藤は踵を返した。

 恐らく二度と会うこともないだろう、かつての親友をその場に残したままに。

 

 

 

 バンッ!!

 家中が揺れたのではと思うほどの勢いで玄関ドアを閉めた遠藤は、大股で居間へと向かった。居間に入って一番に目に入るのは、遠藤に幸せと成功の日々をもたらした夢のアイテム、幸福の天秤である。

「何よ……何よ何よ何よ何よ、何なのよ……ッ!!

 そんな大切なものさえ、今の遠藤には目障りで腹立たしいものに過ぎなかった。遠藤の成功は、この天秤によって与えられた?マキの幸せのお裾分け?に拠るからだ。

 さらに、実は遠藤は今日の再会に備え、家を出る前にこの天秤を使用していた。楽しい再会になるように……そう願っての行動であっただけに、マキとの決別は天秤への信頼そのものを揺るがしていた。

「何――なのよ!!

 ちっ、ちっ、ちっ……

 壁掛け時計の正確なリズムが、妙に不快だった。遠藤はやり場のない怒りを机への暴力に変換することで憂さを晴らそうとしたが、その行動は遠藤のつま先に鈍い痛みを残す結果しか残さなかった。

「何……なのよ……」

 自分はマキと今日、決別してきた。

 自分がマキを捨てたのだ。

 断じてマキが私を捨てたわけでは、ない。

 ぐるぐる回る思いを押し込めるように、遠藤は頭を抱えてその場に蹲った。

 

「幸福ってのは、好き勝手に振る舞って、何でも望み通りになるって事じゃない……そういう事さ」

 

 遠藤は驚愕に目を見開き、勢い良くばっと顔を上げた。今の言葉は遠藤のものではない。だが、一人暮らしの遠藤にとって他に言葉を発するものがいるはずがない。居てはならない。

 さらに悪いことに、遠藤にはその声の主として思い当たる相手を知っていた。雷鳴のように低い、中年男性の声。奇しくも、初めて聞いたときもこうして?いるはずのない場所?から声を掛けられている。

「……なんで、ここに居るんですか? 不法侵入っていうんですよ、そういうの」

「さあ、俺も来たくて来たわけじゃないんでな」

 二度目の声は、背後から聞こえた。振り返ると、壁に寄りかかるようにして、胡散臭さを全身から漂わせる男が立っていた。遠藤に『幸福の天秤』を渡した張本人である、いつかの怪しい露天商だった。

「今日はお客様アンケートだ。幸福の天秤(こいつ)ようやく仕事を終えたことだしな」

 飄々たる口ぶりで、男は事もなさげに言った。遠藤も、何故かこの男がこの空間に定着していることが不思議ではなく感じてきた。

 それよりも、遠藤が気にしたのは別の一点である。

「な、何言ってるの。この天秤はまだまだ私の幸せの為に働いてもらうんだから。例えマキと不仲になっても、天秤は使えるはず……! あ、そういえば売り物だって言ってたっけ。だったらお金はいくらでも払うから!」

 遠藤は男が現れたことや言動から、彼がこの天秤を回収しに来たのだと考えた。当然、はいそうですかと手放せるような代物ではない。

「やれやれ……お前さん、すっかりこいつの虜ってことかい」

 だが、男の反応は遠藤が予想した通りではなかった。擦り寄るように食い下がる遠藤を前にし、男はやれやれの体でため息を吐く。その動作を見た遠藤は、内心に宿す焦燥を一層強めた。

 何をやっても上手くいかなかった自分を良い方向に導く?幸福生産機?が、目の前で取り上げられようとしている。遠藤にとって、これは死活問題だった。これは決して大げさな表現ではない。今の遠藤は、天秤なしの生活など想像できなかった。

「あなたが言ったんじゃないですか、これを使ってチャンスを掴んでみせろって。だから私、掴んでみせたんです! この天秤を使って!」

「……そう、お前さんは幸福にしがみついた。だが、掴んでなんぞいない。お前さんは掴み損ねたんだ」

 ふうっと、不穏な風が駆け抜けた気がした。勿論ここは屋内であり、そんなはずはない。だが、遠藤は確かに風のようなものを感じた。

「最初の問いに答えようか。といっても、嬢ちゃんは少し勘違いしてるみたいだがな」

 男は壁に預けていた体を起こし、しっかりと遠藤の目を見据えた。きちんと立つと、意外な長身であることがわかる。

「俺が幸福の天秤を持ち帰ろうが否が、お前さんがこいつを使えることはもうない。何故なら――お前さんの運を支えてきた親友、マキとか言ったっけか。あの嬢ちゃんが、亡くなったからだ。いくら幸福の天秤だろうが、死人から運を取ることは出来ん」

「……は……?」

 男の表情は動かず、心情が読み取れなかった。目だけが、異様にギラギラと光っているようにも感じられる。

 また、相変わらずの様子であるとはいえ、男があまりに事無さげにいうので遠藤はその内容をすぐに飲み込む事が出来なかった。一秒、二秒と、壁掛け時計の刻む音だけが正確なタイミングで部屋に響き続けている。

「え……嘘、冗談だよ。だって、さっきまで……マキは、私と一緒にいたんだよ。一緒に飲んで、喧嘩もして。死んだなんて――」

「本当のことだ。信じられないなら、死体を運んで来てやろうか? ……断っておくが、勿論俺が殺したわけじゃないからな。お前が、そう望んだんだ」

 男の表情は変わらない。だが、口調はあまりにも冷たかった。遠藤は何を反論すべきかわからなくなり、凍る。

「お前さん、最後に彼女になんて言ったか覚えてるか?」

 ――死ね。

 自分の声が、自分の脳内で繰り返し響く。常の自分なら決して使わないであろう、強い敵意の言葉だ。

 ……だが。

「お、おかしいよそんなの! 確かに私は言っちゃいけない事を言ったかもしれない。でも、そんなの本心じゃないし……願いでもない! そんなこと現実になっても、私は幸せになんかならない!!

 悪気はなかった。悪気はなかった。悪気は……子どものような言い訳を鎧に、遠藤はひたすら男に言葉をぶつけた。何故彼が先程の出来事を知っているのかわからなかったが、今はもうそのような事は気にならない。

「確かにな、通常はそんな些細な事で死ぬことはないだろう。だが、今回のケースは『通常』じゃない。お前さんに運が強く働きすぎ、彼女に運がなくなりすぎてた。そういうことだ」

「……そういう、ことって……どういうこと……?」

 男は遠藤の空虚な反撃に耳を貸さず、ただ話を進めていく。その口調は決して遠藤を責めるものでもないし、呆れたものでもない。ただ、どこまでも温かみを感じさせない口調だった。

「お前さん、『幸福の天秤』がどういう品だったか覚えてるか?」

「た……他人の幸運を、ほんの少しだけ分けてもらって、自分も幸せになる道具……」

「概ね正解だな。じゃあ次だ、『ほんの少し』とは一体どれくらいだと思う?」

「え、と……」

 そういえば。遠藤は気にも留めなかったが、そもそも元が天秤という計測の道具であるにも関わらず、分量が非常に曖昧だ。

 やはりな、と男は呟き、胸ポケットに手を入れた。おもむろに取り出したものは、今時見かけない極太の葉巻だ。

「じゃあ別の質問だ。幸福の天秤を使うにあたって四つのルールがあった。お前さんは随分と軽い気持ちで破ってくれたみたいだがな。その理由はわかるか?」

 『随分と軽く』という言葉に合わせて向けられた厳しい視線に内心を冷やしながら、遠藤は添えられていた説明書に述べてある、四つのルールを言葉に出して思い返す。

 一、必ず一摘みずつ移すこと

 二、短期間に使いすぎないこと

 三、移した砂は戻さないこと

 四、移す砂がなくなった時、この天秤を破棄すること

「ルールの一。砂を一摘みずつ移すのは、一度に沢山の運を奪いすぎない為だ。あくまで『お裾分け』程度にもらううちは問題ないが、多くの運を奪えば奪われた側にも少なからず影響する」

 男は説明しながら葉巻をくわえると、いつの間にか取り出していたライターで火をつけた。濃い灰色と独特の香りが、狭い室内に漂う。

「……二。短時間に使いすぎないようにするのは、一のルールと同じ理由だ。気付いていたかどうかは知らないが、砂を動かせば天秤は傾きを変える。この傾きは、重さじゃない。時間と共に元の傾きに戻っていく。つまり、あまり傾くようなら使用を控えろ……というサインだ」

 男は二つ目の説明を終えると、煙を大きく吸い、ゆっくりと吐く。喫煙習慣のない遠藤は、煙の強烈な刺激にむせた。

「三。そもそも『一握の砂』の総量は、取って問題ない運と等しくなる量だけ入れてあった。これを戻し戻し使えば、対象者は際限なく運を奪われる。おまけに、元々戻さないことを前提に設計された天秤だ。色々とおかしくなる。例えば、二のルールに関わる天秤の傾きが不正確になる、とかな」

 遠藤はようやく、男の言いたい事が理解できてきた。と同時に、少しずつ心の奥底から、染み出すようにじわじわと感じる、冷ややかな真実が見えてくる。

 気付けば、遠藤の体は細かく震え始めていた。男はそのような遠藤の様子を見ながら煙を吐き、説明を続ける。

「四。たとえ三までのルールを守っていても、天秤を持ち続けていれば、いつか砂を戻して再利用したいと思う日がやってくるだろう。それを防ぐために、天秤そのものを破棄する必要があるんだ……こんな感じに、な」

 男はいつの間に取り出したのか手にしていた長い杖を力強く水平に振るい、遠藤の机を払った。机上にいくつか存在した人形や果実類をも巻き込んで、杖先は『幸福の天秤』を床へと叩き落とした。

 ががだっ。硬い床に衝突した華奢な木製天秤は、あまりにもあっさり、かつ無抵抗に関節部を砕かせ、細やかな残骸を散らばらせる。

「な……何を!?

 遠藤は男が取った突然の行動に驚愕し、悲鳴混じりの叫びをあげながら天秤だったモノ(・・・・・・・)駆け寄った。もはや砕け散った天秤に、秤にかけるものはおろか、自身を支える力すら残されてはいない。

「今やどっちにしろ無用の長物、こうするのが一番だ」

「ひ、酷いよ! こんなになっちゃって……これじゃ、もう……私の成功は、輝かしい未来は……!」

「……驚いたな。まさか嬢ちゃん、まだこいつ使うつもりでいたのか? わかってるか、お前さんは天秤(こいつ)親友を殺した同然なんだぞ

「私が、殺した……?」

 残骸を拾い集めようとしていた、遠藤の動きが止まった。勢い良く駆け寄ったために、眼鏡が床に落ちてしまっているが、それを直すことすらしない。

 男は濁った煙を吐くと、遠藤を見下ろす格好のままに言葉を続ける。

「いいか。お前さんが限界を超えて運を貪り続けた結果、彼女は全てを失った。お前さんは知らないだろうがな、彼女は退社後すぐに旦那の浮気で離婚している。さらに親の会社の破産で文無しになったり、散々な目に遭ってきたんだ。彼女の運は、ゼロどころかマイナスといえる程に無くなっていた。今日まで生きていられたのが不思議な程にな。お前さんは彼女が未だ変わらず幸せな日々を過ごしてると思ってたようだが、実際は違ったというわけだ」

 男はもう一本葉巻を取り出すと、前の葉巻を指に挟んだまま吸い始めた。遠藤は固まったまま動かない。

 ちっ、ちっ、ちっ……時計の音が、奇妙な空間に規則的なリズムを生み出す。男は舌打ちをすると、遠藤に詰め寄り語気を荒げる。

「逆に、お前さんは運気が異常に上昇していた。そんなお前さんが放ったほんの些細な『死ね』の一言――つまり"願い"は、運気が最低に落ちた彼女にとって?不幸の具現?という形で表れた! お前さんの願いが叶い、彼女に不幸が訪れる……わかりやすい構図だな。お前さんが、彼女を殺したも同然なんだ! わからないのか?」

 やはり、遠藤は動かない。焦れた男がその肩に手をかける。

「……おい!」

「……何、言ってるの。私は殺してない。私は悪くない。マキはただ、不幸だっただけ。私に関係はない。元から不幸になる運命だっただけ。そうでしょ?」

「……!!

 遠藤は顔を上げず、ようやく出した返事も、聞き取りにくい震える声だった。

 だが、男にはそれだけで十分だった。予想だにしない返事ではあったが、男は動揺することもなく、遠藤の肩に置いた手をすっと引いた。

「……そうかい。わかった、邪魔したな」

 男は床に散らばった部品の一つ、秤の片側を拾い上げた。小さな皿から落ちずに残った『一握の砂』を払うと、そこには擦り切れた紙切れが乗っていた。幾度となく砂の乗せ変えが行われた事によって表面は傷だらけになっているが、うっすらと残る色は笑顔を形作っていた。

 

 遠藤とマキ、二人の親友が隣り合って笑う、幸せそうな笑顔の残滓が、そこにはあった。

 

「…………」

 男は手にしていた葉巻とくわえていた葉巻、二本をその写真の上に乗せた。葉巻の煙に混じって漂う紙の焼ける臭いと共に、笑顔がじりじりと少しずつ焼失していく。

 その秤を、そっと遠藤の傍らに置く。やはり遠藤は顔を上げず、失われていく"幸せの形"に目を向ける事はなかった。

「マキが死んじゃった。私はどうやって幸せになろう。天秤を直さなきゃ……マキも、直そう。壊れたものは、直せばいいんだ。そうだ、それが一番じゃない……!」

 もはや今の遠藤には、男の姿も燃える写真も目に入らない。男は新しい葉巻に火をつけると、今までで一番深く吸い込み、大量の煙を吐き出した。

 くすんだ白が部屋に漂い、一瞬だけ視界を濁らせる。その煙が晴れた頃、既に男の姿は部屋になかった。

 

 ――――…………

 常に規則正しく時を刻んでいた壁掛け時計が、針の進む幾何学音を、止めていた。

 

 

 

幸福の天秤-Another End- …Fin

 

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