蒼風センチメンタル

                   池田 風太郎 

 こんっ、こんっ、こんっ。

 踏み出す足が地面を叩く、無機質な音が響いている。薄暗い景色が幾多の線となって後方へ消え、走る躰は風を纏う。

 常なら心地よいそれも、今の私にとっては汗ばんだ躰を芯から冷ます不快なものでしかなかった。とにかく、今の私は一刻を争う。あらん限りの力を振り絞り、薄暗い階段を一弾飛ばしに駆け上がる。

「あの、馬鹿……!」

 普段から陸上部の一員として走ることには慣れているが、それでもグラウンドから校舎の四階まで全力で駆け上がるのはなかなかに(こた)えた。それでも、悲鳴をあげる自分の躰に鞭を打ち、私は必死に足を動かし続ける。

 荒い呼気の有機的な音が、階段と足の奏でる無機的なビートに混じる。すれ違った生徒たちには、当然怪訝な目で見られた。だが私はそれら一切に気を払うことなく、ただひたすらに前へと、上へと、目的地を求めて駆け上がった。

 やがて、長い階段の終着点が見える。そこは小さな踊り場のような構造をしており、?一般生徒立ち入り禁止!?と大きく書かれた張り紙のされた、いかにも重そうな鉄扉を奥に構えている。

 『一般生徒』とあるのは、この学校で唯一立ち入りが認可されている天文部の存在のためだ。鍵は天文部の部長や先生しか持っていないはずだが、そもそもここはあまり施錠されていないことを私は知っている。これがいい事なのか否かは私には分かりかねるが、恐らく学校側は立ち入りを黙認しているのだろう。

「蒼ーッ!」

 阻まれないことを知っているが故に、私は一段飛ばしで駆け上がった階段の終点から鉄扉までの距離を飛ぶようにして詰め、迷いもなく鉄扉に手を掛けた。見かけに反して扉は軽く開き、私をその外側へと吸い寄せるかのように(いざな)う。

 薄暗い空間を裂いてなだれ込む眩い光と、ぶわっと吹き付ける屋上の強い風が、転げ出る私を飲み込んだ。

 明暗の急激な変化に順応する一瞬で、私の見る景色は一変する。コンクリート壁に囲まれた無骨な廊下のそれは既になく、田舎とも都会とも言い切れない平淡な街を一望できる雄大なものへと移っていた。雄大といっても当然フェンスによって仕切られた区画であり、一望といっても狭い範囲であるのだが、基本的に学校の日常においてこのような景色を拝む機会はあまりない。相対的に感覚が誇大化されるのは仕方の無いことだった。

 そんな特設展望台の?さらに外?から、拍子を抜かしにかかる軽い声が、肩で息をする私を出迎えた。

「あれ、風香じゃーん。こんなところで何してんのさー?」

 あまりに悪意も素っ気もない声を耳にして、私の四肢はへなへなと力を失い、その場へと崩れた。

「何、って……蒼、あんた、何で、そんなとこに……!」

 息も切れ切れに、私はへたり込んだまま?外?の少年へと疑問を投げる。よく見知った彼は少しだけ申し訳なさそうな顔を向けると、フェンスを飛(・・・・・・)び越えて内側へと飛び込む(・・・・・・・・・・・・)。身軽に着地する姿は、どこか優美な印象を与えた。

「ああ、ああ。それでそんな慌てた様子だったんだね。安心して、別に自殺とか考えてここにいるわけじゃないから」

 私が『蒼』と呼ぶ彼は、私のすぐ傍まで歩いてくると、そっと手を差し伸べる。私はあまりに平然としたその態度がどこか気に食わず、それを無視して目を逸らして見せた。

「それで、何であんなところにいたの?」

 数分後、ようやく息を整え落ち着きを取り戻した私は、改めて蒼へと問い直した。蒼は苦笑すると、ポケットから薄汚れたハンカチを取り出し、ひらひらと振って見せた。

「これが柵の外側に落ちてたんだよ、昼によくここでご飯食べてる生徒いるしね。後で職員室にでも届けようと思って」

「……それだけだったら、フェンスの外側からあんなに身を乗り出さないと思うけど?」

「あ、見てた? あはは、参ったな……」

 蒼は苦笑し、ハンカチをポケットにしまう。私はフェンスに腰掛けて腕を組む姿勢のまま、軽く蒼を睨んだ。

 そう、私は陸上部の練習中、たまたま蒼の姿を見かけたのだ。その時の蒼は腕を後方いっぱいに伸ばしてフェンスを掴み、体を斜めに倒して足場のない空中にまで身をさらしていたのだ。例えるならば?ひとりタイタニック?とでも呼べばいいだろうか。とにかく、屋上でそのような不安定な格好を晒す友人を心配するのは当然のことである。慌てて練習を放棄し、駆けつけて今に至る。

 仮に自殺しようとしていたとするならば、心当たりも、あった。

「死ぬつもりじゃなくても、あんなのちょっと手を滑らしたら本当に死んじゃうよ。絶対にダメだからね」

「……うん、心配かけてごめん」

 今度は素直に謝り、少し伏し目になる。私は目が潤んでいることに気付き、慌てて目をこすった。腕に滲んでいた汗が目に入り、かえって目が痛くなった。

「……タオルを取った時にさ、すごくいい風を感じたんだ。それで空を見たら、突き抜けるように綺麗な青空。思わず見惚れちゃってさ」

 蒼はフェンスに手を掛けると、呟くようにぽつりと漏らした。私は沁みて痛む目を意志の力で無理やりこじ開けると、その目を蒼の方へと向けた。

「蒼……」

「大丈夫、僕は大丈夫だよ。今までがオーバーペース過ぎたんだ。これからはゆっくり、歩いていけばいい。そうでしょ?」

 蒼は何でもないような笑顔を向け、明るい口調で言った。だが、私は何も言葉を返すことが出来ない。こんな時どんな返事をすればいいのか、どんな返事をするのがいいのか、私にはわからなかった。

 蒼は強い。そう思いながらも、私は蒼の笑顔に脆さを感じていた。

「ねぇ、風香。部活抜けちゃったんだよね。だったら、もう少し僕と歩かない?」

 私が返答に困って黙っていると、蒼はポケットから飴玉を取り出し、私に差し出しながら言った。鮮やかなカラーのスマイルマークがロゴとして描かれた、どこか彼に似合う包装の飴玉だ。

 それも、ポップな外装に反して?抹茶味?などと書かれている。

「……おばあちゃんか!」

 なんだか悩むのがおかしな気分になり、自分でもよくわからない突っ込みを入れた。だがそれに対して蒼がクスリと笑ったので、私の気はほんの僅か明るく晴れた。

 

 

 蒼と私は幼少時からの幼馴染みであり、元陸上部の仲間でもある。ほんの数か月前までは一緒にグラウンドを走っていた。

 私はどこからともなく吹いては抜けていく風を感じるのが大好きで、風を感じることの出来る?走る?という行為が好きだった。蒼とは同じ喜びを共有する同士であり、昔から公園や道路、果ては知らない場所まで走り回って遊んでいた。出会いがいつごろ、どのようなものであったかは、もう覚えていない。二人はいつも走っていて、纏う風の心地よさを全身で感じていた。

 高校に上がってもその関係が変わることはなく、私たちは陸上部の一員として走り続けていた。

 だが、この頃から蒼の考え方が変わった。

 速く走れば、その分だけもっと違う風が感じられる――そう考えて、無理な練習を繰り返した。その様相たるや、普段の穏やかな性格が信じられないほどの豹変ぶりで、誰が止めても限界を超えて走り続けた。

 結果、蒼は足に重大な故障を抱えることになり、陸上を手放さざるを得なくなった。私はただ、そんな蒼を見ていることしかできなかった。

 悔やんでも仕方ないことは分かっている。でも蒼の暴走を止められなかったという事実が、私の心のどこかに今も引っかかり、ぶら下がり続けていた。

 

 

 

 暮れ始めた夕陽の道を、一台の自転車が行く。昼間の快晴は、未だ雲一つない鮮やかな茜空という形で持続している。

「ちょ、ちょっと蒼! スピード緩めてよ!」

「何言ってんの、これぐらい出した方が気持ちいいでしょ!」

「?ゆっくり歩く?んじゃなかったわけ!? 捕まっても知らないからね!」

「その時は風香、乗ってる君も同罪だよ!」

 一台に二人分の影を乗せ、二つの車輪は緩い下り坂を快速で転がる。道幅が広いので通行人にぶつかる心配はなさそうだが、わき道からの飛び出しがあれば避け切れない可能性は十二分にある。よい子は決して真似をしてはいけない。

「お願いだから、蒼、緩めて!!

 風を切って、勢いよく走り続ける自転車は進み続ける。蒼が前に座って壁になっているとはいえ、陸上部のランニングウェアのまま飛び出してきた私にこの風の直射はいささか以上に寒かった。

「えー……仕方ないなぁ」

 蒼は渋々ながらスピードを緩めると、そのまま進路を変えた。程なくして、二人は小さな公園に入る。私は内心ほっとしながら、駐輪スペースに停められた自転車を降りた。

「あー、寒かった……」

「ごめんごめん、そういえば風香はそんな恰好だったね」

「汗もかいてるしね。さすがに冷えちゃうよ」

 私は鞄から防寒用に持ち歩いている薄いタオルケットを取り出すと、体を(くる)みながら苦笑して答えた。

 走ることを失った蒼にとって、自転車はハイスピードの風を感じられる数少ない手段だ。それを理解している私は、多少辛かったとしても、彼を止める気にはなれなかった。

「不思議な、気分だよね」

 キーコ、キーコと、鎖が軋む音が物悲しく聞こえる。私たちは自らの体を預けたそれぞれの台を前後に振り子移動させながら、沈みつつある夕陽を眺めていた。

「軽くジョギングしたり、さっきみたいに二人乗りの自転車を飛ばしたり、そんな日常の動作ならほとんど何の問題もないんだ。でも、長距離や全力での走りは出来ない。今まで、呼吸をするように行ってきたことが、もう出来ないなんて……ね」

 見上げた空へと近づいては、遠のいていく。軋みを伴って連続する繰り返しの中で、蒼が物悲しさを宿す色で言った。

 公園の寂寥とした雰囲気のせいだろうか。蒼が、どこか弱気になっているように見えた。

「別に僕は走るのが特別速いわけでもないし、大会で好成績を残してるわけでもない。ただ走って、風を感じていたかった、それだけなのにね」

 キーコ、キーコ――ブランコが、僅かなそよ風を生みながら揺れる。私は余計な口を挟まず、ただ立ち漕ぎで斜陽を眺めながら蒼の声を聞いていた。

「何を間違えたのかな……僕が好きだった全力の風は、もう感じられなくなっちゃったな。はは……」

 蒼の声が僅かに震える。ちらりと蒼の方を向くと、先ほど屋上で見せた強がりの笑顔ではなく、本心を吐露する痛恨の表情が見て取れた。何故だか見つめては悪い気がし、私は再び斜陽へと視線を戻した。

「全力の風、か」

 遠心力を利用して、私は勢いよくブランコを跳ぶ。茜色に染まる雲が一瞬急激に近づき、また遠ざかる。綺麗な着地を最後に、天と地の往復運動は終止符を打った。

「昔はさ、ただ走り回って遊んでるってだけだったじゃん。タイムとか、意味とか、何も考えずに。ただ気の赴くようにさ。そこに妥協はなかったし、いつだって全力だった」

 遠い日の回想が脳裏をよぎる。野山、砂浜、連れて行ってもらった先々で私たちは身一つをおもちゃに駆け回った。山の澄んだ風、海からの潮風、行く先々で感じた様々な風の感触が、追憶の中に浮かんでは消える。

「そんな時代が、私たちにもあったんだよ。いつからか部活動として、速く走ることが目的、イコール全力みたいになっちゃったけどさ」

 キィ、キィと、背後で鉄と鉄が擦れ合う甲高い音が続いている。心無しか、その音が小さくなったような気がした。

「速く走れば感じられる風は変わるけど、それってゆっくりの風を失ってる事にもなるんじゃないかな……いや、そもそも私たちは、走らずとも感じられる風を知ってるんだよ。屋上に吹き付ける風とか、自転車の風とか。速く速く走ることばかり考えてたら、きっと忘れたままだったんじゃないかな」

 ブランコを漕ぐ音が聞こえなくなった。代わってどこかの遊具が、ホォウ、ホォウと、風鳴りの音色を口ずさんでいる。

「……ま、風を感じたくて走ってきた陸上部の私が、いまさら走らず感じる風の良さに気付くのも変な話だけどさ」

 私は苦笑し、少しためらったが、ゆっくりと振り向く。その視線の先には、ブランコを降りて地に足を着けた蒼の姿があった。

「……なんだ、泣き虫の蒼のことだから、泣いたかと思ったのに」

「僕だっていつまでも子供じゃないんだよ」

 少し予想外な驚きを隠すように、私は悪戯っぽく茶化して見せた。蒼は少し膨れた素振りを見せ、反論する。

 僅かな間が生まれた。私はお互いがたった今とった行動こそがまさに子供っぽいということに気付き、クスリと笑いを漏らす。それを見たからか、はたまた同じように感じたからなのか、一拍子ほどの後にふっと笑う。

「お互い、変わんないってことか」

「ふふっ、そうみたいだね」

 正体が判別できない程の遠くを、少し大きめの鳥が飛んでいくのが見えた。引き連れられたかのように、ふわりと一迅の風が駆け抜けていく。適度に冷たくて心地よい、夜よりも少し早めにやって来た夜風だった。

 私は外套のように羽織っていたタオルケットを丸め、鞄へと押し込む。そして、鞄を持っていない方の手を蒼へと差し出した。昼間、蒼が私にしたように。

「また一緒に走ろうよ。部とかタイムとか関係なしに。歩くほどのゆっくりでもいい、からさ……ごめん、私、失礼な事言ってるよね」

 言ったはいいものの、私はすぐに自分の発言は足を痛めた蒼への配慮がなかっただろうことに気付いた。相手が相手なら、怒られても然りというレベルだ。

 私は罪悪感から、出した手を自然と引っ込める。

 ……がしっ。

 引きかけた手を、蒼に掴まれた。

「ううん、嬉しいよ。一緒に走ろう。全力では走れないけど、まだ走ることそのものを諦めるには早いよね」

 私はその反応に驚いたが、すぐに驚きは消えていった。代わりに、予想以上に手を固く握られた事が気恥しくなり、私は慌てて蒼の手を振り払った。

 

 

 

 

 

 

 

 風が吹いている。

 二人が乗る自転車は、追い風を孕んで来た道を辿っていく。

 失ったものは戻らないけれども。

 失ったことで、見つけられるものもある。

 失ったものと、見つけたものと。

 両方を胸に抱え、車輪は未来へと回っている。

 風が、吹いている。

蒼風センチメンタルfin

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