Day Breaker

                   池田 風太郎

 

 

 闇色の衣が眼前へと迫る。背丈は山のように高く、見上げてもその顔を窺うことが出来ない。そもそも、ゆらりゆらりと不気味にはためく黒は、幽霊のようにその中身の存在を感じさせなかった。

 黒衣と対面する少年・赤羽(あかばね) 明仁(あきひと)、後ずさろうと意識した。意識には上るのだが、体はその意に反して全く行動を起こさない。いわゆる射竦められた状態、である。

 

 ――、――――。

 

 黒衣が何かを言っている、と感じた。言葉の意味は聞き取れず、顔が見えないので口の動きから内容を読むこともできない。いや、そもそもその音声が言語であるかすらも明仁には判別できなかった。

 世界が赤い。夕陽の赤でも紅葉の赤でもない、ただべた塗りの赤が一面に広がる。何故そのような場所にいるのか明仁には理解できていない。とにかく、世界は赤かった。

 初めはゆっくりと、次第に早く、世界が回り始める。地球の自転云々がというのではなく、視覚的に回っているのだ。ミキサーに撹拌されるが如く、回って、回って、世界の赤と衣の黒が混ざり合う。

 混ざり合う色はやがてお互いを一つとし、ムラのない暗褐色、果ては暗黒へと転じていく。やがてそれが完全な黒に包まれて幾時か、ようやく明仁は目を覚ました。

 

 

 

 そこは赤い世界でも黒衣の巨人のいる空間でもなく、見慣れた自分の部屋であった。閉められたカーテン越しの薄明るい光がほのかに差し込んでいる。

「……夢、か」

 目覚めから僅かの時を挟んで動き出した思考が、ようやく現状を理解した。明仁は自室のベッド上で目覚めを迎えた、それが事実である。先ほどまでの奇妙な世界や存在は、現実ではない。

 明仁はのそりとベッドから這い出ると、片手でまだ眠い目をこすりながら、もう片手ですっとカーテンを開けた。既に高い位置で煌々ときらめく太陽が、容赦なく寝ぼけ眼の明仁を貫いた。

「うっ……!」

 ほんの一瞬、強い白光が網膜を焼く。黒に赤に白、なんとも一色を映すのが好きな瞳である。もっとも、前二者は実際の視覚ではなく夢中の感覚であるわけだが。

 明順応によって徐々に視力を取り戻すと、明仁はベッドの傍らにある時計へと目をやった。十二時十五分。その意味するところは考えず、数字だけを記憶に刻むと、明仁は再びベッドに仰向けで転がった。陽は高く天気も良いが、だからといって特段何かすることがあるわけでもない。厳密にはやるべき事がないわけではない、むしろすべきであろう事があるのだが、今の彼にはどうしてもそれが優先事項であると考えられなかったのだ。

「もっかい、寝るか……」

 十分な睡眠を取った後であるにも関わらず、目を瞑ると睡魔はすぐにやってきた。眠りに落ちる直前の浮遊感にも似た心地よい感覚を得ながら、明仁の意識は再び虚無へと溶けていった。

 窓の外では、今日もごく普通の日常が繰り広げられている。明仁の部屋は、そんな日常の流れから切り離され、時を止めているようにも見えた。

 

 

***

 赤羽明仁、十七歳。現在、高校二年生。

 彼の日常は寝ることから始まり、寝ることへと続き、寝ることで終わる。つまるところ、食事など短い覚醒時間を挟む他はずっと寝続けている。もちろん学校はおろか、外出すら殆どしない。いわゆる引きこもりといわれるものだ。

 引きこもらざるを得ない理由は特に見られない。単純な無気力症の一種とも考えられる。しかしながら、夜明け前より特定の反応を示すことから、可能性は極めて高いと思われる。

 これは離れた地点からの観察のみによって得られた情報であるため、本当に奴ら≠ェ関与しているかは定かでない。より積極的な調査により裏付けが必要と考える。

 以上の理由から、明日より接触を試みる。協力要請の必要・不要も含め、以降の報告は追って行う。

 

                                                                                         ――Cord Name. A.

***

 

 

 はためく巨大な黒衣、立ち尽くす自分、一面の赤い世界。混ざり合う黒と赤。目覚めはいつも同じ、暗い夢の後である。

「――……はっ……!!

 明仁が身を跳ね上げると、外はまだ暗かった。まだ暑いという程の季節ではないのに、その全身は滲む汗でぐっしょりと湿っていた。

「いつもの、夢……だよな?」

 確かめるように、両の手を見つめる。自分は確かにそこに在る、夢世界の住人ではない。見つめた手を握ったり開いたりしても、それは変わるはずもなかった。

 いったい何度目だろうか。もう何か月もの間、明仁はこの夢を見続けている。それも最初は数日に一回ほどの頻度で見ていたものが、ここしばらくでは毎夜のように見るようになった。

 内容は変わらない。いつも巨大な黒衣を前にして動けない自分と、赤一色に塗り潰された世界が見えるだけである。黒衣が襲い掛かってきたりすることはないが、決して楽しい夢ではない。黒衣が発している言葉らしきものが理解できないのも、自らの精神を苛む呪文のように聞こえてならない。必ず決まった内容のそれはどこまでも不気味で、不快な夢であった。

「…………」

 何気なく窓のほうを見る。乱雑に閉められたからかカーテンに隙間があり、そこから星明りが覗いていた。僅かな隙間からでもそれが見えるあたり、天気は良いのだろう。もっとも、外に出ない明仁には天気の良悪など何の意味も為さないのだが。

「……ん?」

 星明りの美しさに、しばらく無心でそれを眺めていた明仁は、やがてある事に気が付いた。カーテンの裏にあたる一部分だけ、微妙に他より暗くなっている所があるように見えたのだ。

 時計の示す時刻は午前三時過ぎ。さすがにまだ外は夜闇の中だ。そのためはっきりとわかるわけではないが、どうもメロン程の大きさの影が出来ているように見える。虫にしては大きい。興味から、明仁はベッドを降り窓辺に向かった。

 おもむろにカーテンへと手をかけ、一気に引く。その向こうには遠くに撒き散らされた広大な星の海が、そしてそれより手前には、自分の目線と丁度変わらない位置に、逆さ吊りになった人間の頭がぶら下がっていた。

「――――……ッ!?

 そのあまりに有り得ない光景に、明仁は悲鳴をあげることすら忘れて全力で後方に飛び退いた。背中を壁に強打したが、他の感情が入り混じりすぎて痛みを感じている余裕は全くない。むしろ、口から悲鳴の代わりに飛び出したのではないかと思うほど、バクバクと激しく動悸する心臓の方が痛かった。

「あ、あが、あ……!?

 何を言おうとしても言葉にならない。意味不明だ。いったいどんな暮らしをしていたら、自室の窓の外に人間の頭がぶら下がっている現場に出くわすというのだろうか。ファンタジーにしてもミステリーにしてもあまりに悪趣味であろう。

 ちなみに、ぶら下がっているのは死体ではない。明仁と目が合うなり、窓をコンコンと叩きながら口を動かして何かを言っている。相手が今にも泡を吹いて倒れそうな様子であるというのに、なんとも呑気なものである。

「に、ににに人間……?」

 ようやく正気を取り戻し始めた明仁は、なんとか回り始めた頭を最大限に動かして状況把握に努めようとした。

 外にぶら下がっているのは、重力に引かれて逆向いた短髪の、おそらく少年だ。向こうも明仁が正常な思考を取り戻し始めたのに気付いたのだろうか、窓を叩くだけでなく、内側にある鍵を指さしてしきりに口を動かしている。

 状況からすると、「開けてくれ」と言いたいのだろうか。だが、この状況で手を掛けるべきは窓の鍵ではなく一一〇番通報するための電話であろう。当然の判断として、明仁は机の上に置いてあったスマートフォンを手に取った。

 窓の外に目を向けると、両手を交叉させてしきりに首を振る少年の姿が見えた。見えなかった振りをして無視してもよかったのだが、少しずつだが落ち着きを取り戻してきた明仁は、その懸命な様子が段々哀れに見えてきた。

「……どうしようか……」

 しばらく迷ったが、少年があのような場所にいた理由は警察でなくとも聞けるだろう。相手は自分より年下くらいの少年だ、もし暴れたらその時こそ取り押さえて通報すればいい。そう考え、明仁は躊躇いながらもスマートフォンを机上に戻した。

「おい、お前泥棒か? だったら他を当たれ、うちには金目のもんなんてねーぞ」

 窓に近づき、少年に声を掛ける。この距離ならきちんと声を聴きとれたらしく、少年は首を横に振った。さらには催促するようにドンドンと窓を叩く。明仁はやれやれと溜息をつきながらも、ロックを外して窓を開けた。

「は、はぁはぁ……し、死ぬかと思った……」

 少年は窓が開くなり部屋の中へ滑り込み、両手をついて粗く呼吸をした。上下とも鮮やかな橙色のジャージを着こんでおり、腰元にはロープが括り付けられ窓の外、上方へと続いていた。何か細工をして引っ掛けたのか、それはどうやら屋根にまで続いている。一昔前の泥棒でも、このような古典的かつ無謀な仕掛けは用いないだろう。

「ひ、酷いじゃんか! まさか見つかるとは思ってなかったけどさ、気付いたなら早く開けてよ! びっくりして上に昇る仕掛け落としちゃうし、頭に血は上るし、もう最悪だ! 死ぬかと思ったじゃん!」

 未だ荒い息を整えながら、少年は明仁を睨んで怒鳴った。怒鳴ったといっても時間に配慮してか小声ではあったのだが、声色はまさに怒号のそれである。もっとも、これが彼の完全な逆切れであることは間違いない。だが明仁は恐らく自分が年上であろうことを考慮し、出来うる限り大人の対応をすることにした。

「不満ならホラ、いつでも警察に掛ける準備は出来てるぜ?」

「ごめんなさい。ちゃんと話すから話聞いて」

 

 

 

 午前三時四十五分。明仁の動悸と少年の呼気が完全に元に戻ったところで、二人は向き合って座っていた。向き合ってと言っても、明仁はベッドの側面から足を投げ出す形で座り、少年は床に正座という形だ。さすがに対等条件で話を、というわけにはいかなかった。

「まず……基本的な所から聞くが、泥棒じゃないってならなんであんなとこに居たんだ? 俺のストーカーか?」

「ストーカーだなんて心外だな……まぁここしばらく、兄ちゃんの観察をしてたのは確かだけどさ」

「観察、だぁ!?

 最初の質問から、いきなりとんでもない返答である。勝手に他人の家の軒先まで張り付いて「観察」など、ストーカーと何が変わるというのだろうか。

 明仁の様子に誤解を生んだと気付いた少年は、明仁が二の句を継ぐ前に慌てて言葉を付け足した。

「ま、待って待って! オレが観察してたのは兄ちゃんが寝てから夜明けまで! 日がな一日張り付いてたわけじゃ……ま、待ってってば、話を聞いてくれぇぇ!」

 付け足した言葉が全て言い切られる前に、明仁は少年が身に着けていたロープを利用して手を拘束しに掛かった。奴はただのストーカー、詮索をせずとも警察に引き渡そうと思い直したのだ。少年は手首に掛けられかけたロープを振り払うと、悲鳴のような声で明仁に問いかけた。

「にっ、兄ちゃん! 何で学校……だけじゃない、外にすら出ようとしねーの?」

 急な逆質問に、明仁の動きが止まった。

「……そんなこと、お前には関係ないだろ」

 先程までとは明らかに態度が異なる。その根幹にある感情は、正体不明の侵入者へ抱く不審ではなく、明確な敵意へとシフトしていた。

 通常ならば、説得するにおいて不利な状況である。少年にもそれは理解できる。だが、少年にとってこれは予想通りの反応でもあった。

「それが関係なくないんだよ、場合によってはさ」

 また、これがチャンスであると少年は睨んだ。関係ないだろうという発言に対してこう返せば、大抵の場合はこちらの話に耳を傾けようとする。

 ――どういうことだ、と。

「……どういうことだ?」

 ずばり予想通りの反応に、危うく少年は「ひゃくてん!」と言いかけた。喉まで出かけたその言葉をなんとか腹に戻すと、出来うる限り真面目な口調で本題に取り掛かった。
「少しだけ調べさせてもらったんだ、兄ちゃんのことさ。もともと学校なんてつまらないと思ってたみたいだけど、ある時から急に全く出席しなくなってるよね。その後は段々外出もなくなり、今に至る。理由までは知らないけど、学校で何かあったのは確かだよね」

「……お前、何もんだよ。ただのストーカーにしては随分人の過去をほじくってくれるじゃねえか。まさか、誰かに頼まれて俺の社会復帰促そうとでも言うんじゃねーよな? だとしたらやり方間違ってるぞ」

「んー……半分正解ってとこかな。依頼されてるのも社会復帰させようってのも間違いじゃないんだけどさ、たぶん兄ちゃんが思ってるような所からの依頼じゃないしね」

 明仁は不審に顔をしかめた。少年は当たり前のことを言うように平然と言うが、そもそも明仁より年下にしか見えないこの少年が何故このような情報収集が出来ているのかも理解できなかった。

 一方の少年は、ジャージのポケットから何か手帳のようなものを取り出すと、言葉の続きを紡ぎだした。

「少しだけ、長い話になるよ。非現実的かもしれないけど、落ち着いて聞いて」

 

 

 

 午前四時十分。星が依然として空いっぱいに散らばっている。それを窺うことの出来る窓は今、少年が入ってきた時のまま開け放たれている。

 窓から、涼しく穏やかな風が吹き込んできた。少年の短い髪が僅かになびく。よく見れば、中性的な可愛らしい様相をしている。目付きはあまり良くないが、大きめの目はなかなかに印象的だった。

「この世界には、夢魔(むま)って奴がいる。一般人には見えないからあまり認知されてないけど、それこそ世界中にさ」

「夢魔?」

「そう、夢魔。夢を喰らう者って呼ばれてる。どのくらい昔からいるのかはよくわかってないけど、かなり大昔から存在してるらしい」

 いきなりのファンタジーである。非現実的かも、という言葉に多少なりの覚悟をしたつもりでいたが、それでもいざ言われてみると戸惑いを隠せなかった。

 人は、正体のわからないもの・理解の出来ないものに対し無意識に警戒する。先ほど、明仁が突然現れた少年に警戒したように。

「……で、なんでいきなりそんなお伽噺チックな奴の説明が入るんだ。俺が聞いてるのは、お前がここにいるっていうこの謎の状況に関してだぞ」

「まぁまぁ、聞いて聞いて」

 少年は手帳を開き、パラパラとページをめくる。やがてそのうちの一ページで手を止めると、話を続けた。不慣れなのだろうか、どうも説明するべき内容を手帳のメモから探す作業にも見える。

「夢魔は人の心に取り付いて、負の感情を増大させる。夢魔にも強弱があるから、殆ど害のないレベルの奴から人を死に至らしめるほど影響を与える奴もいる。最も、死にって言っても夢魔が直接人間を襲うんじゃなく、心を病ませて自殺に追い込んだりって形になるけどね」

 まだ明仁には意味が分からない。少年には話が通じていないのだろうか。明仁が求めているのは、夢魔なるものの追加説明ではない。

 そんな明仁の様子に気づいたのだろう。少年は手帳を閉じてポケットに戻すと、少々呆れたという様子を見せた。

「あれぇ……前の人はここまで言ったら何となく理解してくれたんだけどな……まぁわかんないなら仕方ないな。はっきり言うよ、兄ちゃんは夢魔に憑かれてる。オレはそれを確認するために今日来てたんだ」

 窓から吹き込んだ夜風が、二人の髪を大きく揺らした。

 

 

 

 午前六時。日が昇り始め、鳥のさえずりが彼方から聞こえ始める。起きだす世界と対象に、世界を占めていた暗闇は眠りに就いていく。

 明仁は、その様子をベッドに転がりながら薄目で見ていた。明仁の部屋で唯一外界の風景を映す窓は、数時間前から変わらず今も開け放たれていた。

「怠惰心、か……」

 変わる事と言えば、あの侵入者が既に部屋を退出していること。それ以外に、変わったものは何もなかった。

 何も。

 

 

 

 遡ること数刻。まだ暗い世界の中で、人工的に作られた明りに照らされた部屋に在る明仁は、衝撃を隠せずにいた。

「俺が、夢魔に……?」

「うん、間違いないよ。今こうして会って、確信した。ここしばらく兄ちゃんの生活を観察してたけど、やっぱり遠くから見てるだけじゃわからない事ってあるよね」

 少年はにっこり笑いながら言った。さらっととんでもない事を言ってのけたわけだが、彼にとって幸いなことに、明仁にとって最大の関心事はそこではなかった。

「だって……え? 別に異常は感じないのに、っていうか死ぬのか、俺……!?

「大丈夫だよ兄ちゃん。兄ちゃんに憑いてるのはそんなに強い夢魔じゃないから、オレで十分何とか出来る」

 動揺する明仁に、少年は変わらずの笑顔を見せる。少年が余裕である理由はまさにここ、夢魔が弱いという点にあった。その様子に幾何(いくばく)かの安心を抱き、明仁は次第に落ち着きを取り戻した。

「異常を感じないのは、たぶんこの夢魔、かなり長い間兄ちゃんに憑いてるからだと思うな。憑いてて当たり前の生活をしてきてるんだから、そりゃ慣れてるよな」

 そういうものなのかと、思うほかなかった。微妙な納得のいかなさは拭えないが、明仁にその真偽を確かめる術はない。

「負の感情って言っても色々あってね。恨みとか悲しみとかだけじゃなく、怠惰心なんてのもその一つ。引きこもりの原因は大体これなんだけど、兄ちゃんもそうじゃねーかなと睨んでる」

 現状引きこもりではあるが、それを面と向かって指摘されるのはどうにも良い気分ではなかった。

 もっとも少年は明仁の苦い表情に特段気を払う様子もなく、説明を続けようとしていた。

「でもさ、人間の側もただ夢魔にやられっぱなしってわけじゃない。色々なシグナルで、本人や周りに夢魔の存在を知らせようとするんだ」

 再び手帳を取り出してめくると、ある一ページを開いて見せた。仰向けに横たわる人間が、両手両足を天に伸ばす様子が描かれた簡素な絵がそこにはあった。

「ほら、例えばこれ。兄ちゃん気付いてるかどうか知らないけど、このポーズ毎晩必ずやってたんだよ。こんな風に、就寝中に決まってあり得ないような動きをする」

 確かにこれは怪しい。だがそれ以上に、そのありえないポーズを絵にして書き残されているというのがこの上なく恥ずかしく感じた。

「他にも、決まって同じ悪夢を見るとか、四六時中眠くてたまらないとか」

 自然と、あの赤と黒の交じり合う光景が脳裏を過った。あれは悪夢という程のものではないが、不気味なことに変わりはない。

「やっぱり心当たりあるみたいだな。まぁ一般に夢魔は見えない存在だから、その存在を周りに知らせたところで、どうにもできない。だからこうやってオレら専門家が回ってるってわけなんだ」

「専門家……?」

「そう!」

 待ってましたと言わんばかりに、少年の顔がぱぁっと輝いた。そして俺の座るベッドの空いたスペースに飛び乗ると、

「オレたちは『暁の使者』! 夢魔を祓う者さ!」

 自信満々にそう言い放ち、間違いなく不要だろう大ぶりなモーションから決めポーズらしき体勢へと移り、そして動きを止めた。

「…………」

「……あれ、カッコ良くなかった?」

 自らを暁の使者≠ニ称した少年は、絶句した明仁を何故そうなったかわからないという様子で、不思議そうに見つめる。少年らしいあどけなさではあるが、あまりにも寒い。今までが真面目な雰囲気だっただけに、その奇行はあまりに意味不明だった。

「……やっぱり警察呼んでいいか?」

「えぇ、なんでなんで!?

 直前までの自信もかなぐり捨てて頓狂な声で慌てる少年は、やはりカッコ良くは見えなかった。

 

 

 

 暁の使者≠ヘ、少年の言ったように夢魔を祓うという目的の下に動く組織の名称であるという。

 夢魔は普段人間の心の中に住んでおり、彼ら『専門家』でも干渉することが出来ない。だが夢魔は、理由は解明されていないが夜明けごろに力が弱まる性質があるらしく、そこを突けば人の心からひきずり出すことが出来るという。

 そうした異能の持ち主もまた、かつて強力な夢魔に憑かれた経験を持つ者たちである。彼らは『暁の使者』の中でも特にキャリア≠ニ呼ばれており、かつての自身と同じく夢魔の蝕みに苦しむ人々を解放して回っている、という。

 少年は観察の一環として、明仁が夢魔に憑かれているか、憑いた夢魔がどれ程のものかを実際に近場で見ることで確認するのが目的であったという。寝ている状態で気付かれずに観察するはずが、運悪く明仁に発見されてしまったらしい。

 今回の接触で夢魔の存在と力量を把握したという彼は、後日改めて訪れると言い残し、去って行った。入ってきたときと同じく、窓から。

(そういえば、いくら観察ってもなんであんな来方しようとしたのか結局聞かなかったな……)

 午前六時、ベッドに転がる明仁を睡魔が襲い始める。思えば、これほどの時間を起きていたのは久方ぶりである。これも夢魔の影響なのだろうか――そんなことを思いつつ、明仁の意識は深い眠りの中に溶けていった。

 

 

 

 少年が再び現れたのは、数日後の真夜中であった。今度も彼は屋根から降りてきたようで、窓を叩く音で明仁は目を覚ます。

「……何時だと思ってるんだ……」

 普通に玄関から入ってこようという選択肢はないのだろうか。確かに呼び鈴を鳴らすには非常識な時間帯ではあるが、どこぞやの蜘蛛のヒーローよろしく窓から訪問することに比べれば遥かに常識的である。

 もっとも、一応彼は明仁を助けに来ているというわけなので、あまり邪険にするのもよくない。のそりとベッドから這い出ると、今回はすぐに窓を開けた。

「やっほー! お助けマン参上だよ!」

 軽快な声と共に少年が部屋へと降り立ったが、明仁の側から言わせれば惨状≠ナある。窓の外へ伸びたロープに繋がったジャージ姿のお助けマンなど、世界広しといえどそうは居まい。いや、居るべきではない。

「じゃ、早速始めよっか! 夜明け頃に!」

 早速でも何でもない、夜明けまでまだ数時間はある。

「……数時間後に出直して来いよ。窓の外に吊るしといてやるから」

「恩人に対して、それ酷くない!?

 恩人になるとすればそれはこれからだ……という突っ込みを、明仁は敢えて入れなかった。代わりに、少年が入ってきた後の窓から空を見上げる。

 今日は、あまり星が見えなかった。

 

 

 

「……はっ!」

 いつの間に寝てしまったらしい。明仁が赤と黒の世界から脱却して飛び起きると、少年は窓枠に手を掛け、乗り出すようにして空を見上げていた。

「起きた? ちょうどよかった」

 明仁の目覚めに気付き、少年が振り返った。少年の表情は今までにないほど真剣で、その(まなこ)はまさに仕事人のそれを思わせた。

「まもなく夜明けが来る。お願いだ、一緒に戦って欲しい」

 声色も、先ほどのいい加減な振る舞いが嘘のように真剣である。俺はその変貌ぶりに若干の戸惑いを覚えながらも、ゆっくり首を縦に振った。

「うん。それじゃ、始めよう」

 少年はポケットからあの手帳を取り出すと、そこに挟んであったカードらしきものを数枚引き抜き、手に取った。

 

 

 

 刹那。明仁の部屋、暗い夜空、腰かけていたベッド、周り全てのものが、眩い炎に包まれ、溶けるように燃え落ちた。

 

 

 

 明仁は目を見開いた。炎の赤だけが背景の真紅の世界に、あり得ないものが浮いている。明仁の何十倍にも見える大きさの、ひらひらと揺らめく暗色の衣。マントのようにもローブのようにも見えるその衣には、しかし着る者が存在せず、虚ろな布地だけが宙に浮かんで揺れていた。

 夢の中で幾度となく見続けた、あの黒衣の姿がまさに目の前にある。

「恐れないで。ここは君の精神世界、心を具現化したものだよ。夢魔の心に入り込む力を逆に利用してるんだ」

 声がした方に振り向くと、背景となった炎に照らされ鮮やかな朱色となった、ジャージ姿の少年がそこに在った。

「あれが夢魔、夢を喰らうものだよ。正確には心を喰らうんだけどね」

「あ、あんなのどうやって追い出すんだよ! 明らかに勝てっこないだろ!!

 明仁の指さす黒衣の巨人は、僅かずつ、ほんの僅かずつ距離を詰めてきていた。これも夢と同じ。ならば、やがて明仁の目の前にまで迫るはずだ。

「大丈夫だよ。言ったでしょ、そんなに強くないって。よく思い出して、夢の中で奴は兄ちゃんに『何かをしてきた』か?」

 そういえば。明仁ははっとなり、天蓋のような黒衣に向き直った。夢の中でこの黒衣は目前まで迫っては来たが、実際には何かをされるわけでもなく、ただ目の前でヒラヒラとしているだけであった。

「夢魔の祓い方はね、憑かれた者が強い意志を持って追い出すしかないんだ。特に『怠惰』を増幅しているなら、追い出そうって思念を送りつけるのはかなり堪えるはずだ」

 分かったような、分からないような。とりあえずと、明仁は黒衣をありったけの眼力で睨みつけつつ、俺から出て行けと強く念じてみた。

「出てけ、幽霊野郎! 出てけ、出てけ……!」

 

 

 

――――ひゅっ。

 

 

 

 明仁の頬を、上から降った何かが掠めた。足元を見ると、サーベルのようなものが自分の真横に突き刺さっているのが見えた。

「え……?」

 かち。

 かち。

 かちかち。

 かちかちかちかち――

 追って、聞こえ出した連続音の正体が何であるのかに気付いた。自分の歯と歯がぶつかり奏でる、衝突音。

 明仁は、震えていた。

「兄ちゃん、気を確かに! 思念を送り続けるんだ!」

 少年の声は確かに聞こえたが、明仁の頭は指示された通りの行動を遂行することが出来なかった。

 そうしている間に、黒衣と明仁の距離は迫ってきている。おまけに黒衣はその腕があるべき場所に巨大なサーベルを現出させ、まるで見えない手がそれを握っているかのように携えていた。

「は、話が違う……」

 サーベルの刃渡りは、やはり明仁の何倍もの長さである。あのようなものを振り下ろされれば、明仁の体はたちまち真っ二つどころかただの肉片に変えられてしまうだろう。

「話が違うじゃないか! 夢の中では攻撃なんてしてこなかったぞ! 無理だ、勝てっこない!」

「兄ちゃん、落ち着いて! 兄ちゃん!」

 少年の叫びにも似た声が、燃える真紅の世界に響き渡る。だがそれは明仁に届かず、虚しい木霊となるだけであった。

 揺らめく黒衣が、鈍く光る刃が、明仁へと近づいてくる。

「兄ちゃん……兄ちゃん!」

 明仁は目を閉じ、やがて訪れるであろう最後を覚悟した。

 

「……赤羽、明仁ォォ!!

 

「……ッ!!

 明仁が目を見開く。何かが明仁の頭の中で弾け、眩くスパークした。

 

 

 

「明仁!」

 かつて、心底楽しそうな声で、その名を呼ぶ者がいた。

 何がそんなに楽しいのか、明仁には理解できなかった。

「ねぇ明仁!」

 誰と関わることもなく、教室でいつも一人だった明仁。そんな彼の名を呼ぶ、唯一の声があった。

 

 

 

 一瞬の呆けから覚めると、明仁の体は尻餅をついた形で停止していた。そして目の前には巨大な黒衣の姿がある。だがその姿は先ほどのように正面にはなく、垂直に落下したらしい巨大サーベルは明仁の前方数メートルのところで燃える大地に穴を穿っていた。

 夢の中ではなかった、しかし絶望的ではあり得ない光景がそこにはあった。

「兄ちゃん、大丈夫……?」

 真横から声がしたので振り向くと、少年が明仁を抱きかかえるようにして転がっていた。位置関係から推するに、どうやら夢魔の刃から守ってくれたらしい。

「あ、ああ……」

「良かった――なぁ、少しだけ、オレにも見えたよ。兄ちゃんの心の中、だからかな……」

 少年が何を言ってるのか一瞬わからなかったが、心、と言われたのでそれはすぐに思い当った。

「見たのか……」

「うん、ごめん」

 明仁は身を起こして立ち上がるが、少年は起き上がろうとしない。怪訝に思ってよく見ると、少年の片足は一部が大きく抉られ、大量の朱に染まっていた。

「お、お前それ……!?

「大丈夫、だよ……ここは心の世界、現実の肉体には傷いってないからさ。それにしても、あんな低級夢魔にやられるなんて不覚だなぁ……」

 どうやら一応大丈夫らしいということに、明仁はほっと息を吐いた。夢魔の方を見てみるが、何故か夢魔はサーベルを突き付けた姿勢のまま動かない。

「『怠惰』と、違ったんだな。だから思念が効かなかったんだ。ごめん、オレのミスだ」

 少年が負傷した足を庇いつつ、姿勢を三角座りのような格好に変えた。夢魔はまだ動かない。

「なぁ、少しだけ……聞かせてくれないかな」

 明仁は少しだけ躊躇(ためら)ったが、やがて首を縦に振った。

 

 

 

 学校はつまらないと思っていた。人付き合いも疎ましかった。そのような性格ゆえに、明仁はいつも教室で一人だった。

 だがいつ頃からか、明仁に一人のクラスメイトが近寄ってきた。金木(かねき)という、小柄で、パッとしない男子生徒だった。彼はいつも一人でいる明仁に興味を示し、近寄ってきたのだ。

 最初は殆ど無視という形だった。しかしあまりに金木がしつこく付き纏うので、無視して一方的に話しかけられ続けるのも面倒になってきたと、次第に適当な反応程度は返すようになった。

 何が楽しいのか、わざわざ反応の薄い明仁に近寄って来ては、大して面白くもない話を繰り返す。それが彼らの日常になっていた。

 だが、しばらくして金木が他のクラスメイトからいじめを受けるようになった。いじめっ子たちに呼び出され、明仁と過ごす時間は格段に少なくなった。それでも、隙を見つけては明仁の元へとやってきた。

 明仁は金木がいじめを受けていることに気付いていたし、それが非常に熾烈なレベルで行われていることも知っていた。だが明仁といるときの金木はいじめなど存在しないかのように明るく振舞い、変わらずの笑顔であった。故に、知っていて何もしなかった。

 それはどれだけの時だっただろうか。その期間は長くも短くも感じられる。

 いつしか、金木は学校に来なくなった。最後に聞いた話が何であったかも、今は覚えていない。

 

 

 

「あの頃は、助ける義理も理由もないと思ってたんだ。でも、金木のいなくなった学校には行く意味すら感じられなくなった。変な話だろ」

 少年は、最後まで口を挟むことなく明仁の話を聞いていた。

「今思えば、無様だよな。人を避けて、人を見捨てた俺が、今まさに人に助けられてるなんてさ。俺なんかより、あいつが助けられるべきだった」

 ざわわわわ……木々がさざめくような音がした。明仁はこの音を知っている。夢魔が発する言葉ならぬ言葉だ。

 夢の中で聞いたときは不気味以外の何物でもなかった。だが、今は不思議と不気味さを感じない。

 それどころか、あれほど恐ろしかった黒衣に対しての恐怖も、ほとんど感じなかった。

「今からでも、助けられる」

 少年がようやく口を開いた。明仁はいつ動き出すかわからない夢魔から目を離し、再び少年を見る。

「すぐにとはいかないかもしれないけど、兄ちゃんが強く意識を持てばね。諦めずに、助けたいって気持ちを持ち続ければ、絶対に助けられる。どんなに暗くても、明けない夜はない。目覚めと共に、生まれ変わるんだ」

 少年が、笑顔を向ける。その顔が、かつて唯一の友人であった誰かの笑顔と、何故か重なって見えた。

「さぁ、一歩踏み出そう。その為に!」

「……消えろ、夢魔。俺の、引きこもる心ごと!」

 炎に包まれた赤い世界が、強く輝きを増す。炎はやがて白い炎へと変わり、黒い衣の夢魔を、世界を、光の爆発に飲み込んだ。

 

 

 

 気が付くと、そこはいつもと変わらない明仁の部屋だった。カーテンが揺れ、窓の外から夜明けの涼風を運んでいる。

「……なんだか、生まれ変わった気分だな」

 ベッドの上に大の字に寝そべり、明仁は呟いた。転がるといつも即座に押し寄せてきた睡魔は、やってこない。それどころか、頭は春の晴天のように澄み渡っていた。

「これで、オレの役目は終わった。兄ちゃん、お別れだな」

 首だけを捻って視線を天井から移すと、ジャージの少年がベッドのすぐ脇に立っていた。足の怪我は完全に治っている。どうやら、実際の肉体にダメージがないというのは本当らしい。

「ありがとう、って言っとくべきなのかな。とりあえず警察に通報するのはやめといてやるよ」

「……それは、ありがとうとは言い難いかな」

 明仁と少年は、顔を見合わせてクスリと笑った。穏やかな風が、二人の髪を僅かに揺らした。

 

 

 

「なぁ、最後に一つだけ聞いていいか」

 窓枠に足を掛けた少年に、大の字のままの明仁が尋ねる。少年は首を後ろに捻って振り向いた。

「お前たち『キャリア』の話のとき、かつて夢魔に憑かれた者って言ってたじゃん。お前も、立ち直った者ってことかなのか?」

 少年は少し困ったような顔をした。窓枠から足を下ろすと、再び部屋の中央に戻り、明仁と向き直る。

「オレも、昔いじめられてたんだ。ほら、こんな性格だからさ。女のくせに生意気だ……って。オレ自身はいじめになんて屈しなかったんだけどな、信じてた親友がいじめの首謀者だったって発覚した時、誰も信じられなくなった。そこを取り憑かれて、あとは兄ちゃんと同じ。最後は『暁の使者』であるオレの師匠に助けられたんだ」

 明るく笑顔の似合うこのような子が、抱えていた闇はとても大きかった。いや、闇を乗り越えたからこそ、輝く今の姿があるのだろうか。

 闇があるからこそ、夜明けは美しいように。

 だが、明仁の最大の興味は、そこにあるわけではなかった。

「お前……女だったのか……」

 この発言の直後、凄まじい打撃音が朝もやのかかる街に響き渡った。

 

 

 

 数日後、学生服に身を包んだ明仁が一軒の家の前に立っていた。

 インターホンに指を伸ばし、引っ込める。この作業を何度も繰り返して、既に十分だ。

「……ふぅ。よし……」

 深呼吸をして、再度インターホンへと手を伸ばす。彼の新たな戦いが始まっていた。

 

 その様子を、遠くから見ている少女がいた。春の風に遊ばれて、その短髪が揺らめいていた。

 

 

 

***

 追加報告。赤羽明仁に憑いていたものが夢魔であると判明。下級夢魔であることも判明したため、単独撃破を試み、成功した。

 現在、赤羽明仁周辺に一体の新たなる夢魔を確認。発見現場にて赤羽の接触が確認されため、彼のキャリア≠ニしてのパフォーマンスを計測しつつ、観察の続行を希望する。

 

                                            ――Cord Name. A.

 

 

                                                                                                                                     Day Breaker...fin.

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