幸福の天秤
池田 風太郎
春はまだ遠い。喫茶店の窓から見える街路樹は裸で整列し、道行く人々は逆に肌をぴったりと包み隠した重装で流れていく。
「ふぅ……あ」
まださほど人のいない店内で、遠藤紡は小さくため息をついた。それに気付き、自分の両頬をぺちりと叩く。
「いけないいけない。ため息ひとつで、幸せがひとつ逃げる……」
軽く叩いただけだが、それだけの微振動で掛けている赤ぶち眼鏡がズレた。これは最近になって初めて購入したものだが、サイズをあまり気にせず買ったため、小顔な彼女には少々大きすぎた。
ずれた眼鏡を戻し、カップに僅か残ったコーヒーを一気に飲み干す。喉を通過する冷めかけた黒は、特有の苦味を口内に残し、腹へと吸い込まれていった。
「今日も頑張ろう。そう、頑張らなきゃ」
確かめるように二度呟くと、遠藤は気合を込めて立ち上がった。思いの外勢いがよかったらしく、直前まで座っていた椅子がかなり大きな音を立てる。遠藤は顔を赤らめながら、財布から千円札を取り出し、会計に向かった。
タイムカードを通した遠藤は、憂鬱な表情で自分の席についた。片付けるべき書類は山のように残っている。その量を想像するだけで、気分を落とすのには十分に事足りた。
「ふぅ……」
思わず、ため息が漏れる。それに気付いた彼女は、先ほどのように頬をぺちり――としようとしたところで、頭頂をばしりと叩かれて動作を中断した。
「痛っ……」
「おっはよー、今日も朝から浮かない顔して。?ため息ひとつで幸せがひとつ逃げる?……でしょ?」
突然遠藤をぶっ叩いた犯人は、呑気な声で挨拶をしながら遠藤の隣席に着いた。
短い茶髪に片ピアス、手には人相の悪いオヤジの顔がロゴマークとして大きく描かれた缶コーヒーが握られ、薬指には銀のリングが光る。地味な遠藤と並ぶには、どうにも不釣合なスタイリッシュ美女だ。
「痛いよマキ……あ、おはよ。そっちは逆に随分楽しそうだね」
「むふふぅ、そおー? ま、?さくばんは おたのしみでしたね?ってところかなーっ」
「もー、朝っぱらからやらしいよぉ……」
ニヤリと笑うマキを見て、遠藤は叩かれた衝撃でまたもずり落ちた眼鏡を直しつつ、やれやれと呆れ顔を浮かべた。
彼女の本名は真木真由。マキというのは苗字から取った彼女の愛称だ。遠藤との仲は学生時代から続くもので、内気な遠藤が心を許す、数少ない友達の一人だった。
「いやぁ、ゴメンゴメン。ま、紡も早く幸せを掴み取りなさいよっ!」
「なれるもんならとっくになってますよーだ」
といっても、?マキ?と呼べる期間はもうさほど残されていないのかも知れない。彼女は現在婚約中で、パートナーの男性と同棲中なのだ。結婚して苗字が変わってしまえば?マキ?という愛称はふさわしくないだろう。
「紡だって素材はいいんだから、磨けば光ると思うんだけどなー」
「無理無理、私おっちょこちょいだし不幸体質だし。誰も私になんか近寄りたがらないよぉ……」
「それも男によっては萌えポイントなのだよ遠藤氏。カワユスですなぁー、このこのっ!」
マキは俗にいうオタクと呼ばれる人種だ。それも、かなり重度である。遠藤もややそっち寄りの人間ではあるが、マキはそれ以上である。遠藤は、これほど色々な意味で残念に感じる女性を他に知らなかった。
「手始めに髪型から変えてみるとかどう? ?うちゅうの ほうそくが みだれる!?かも知れないよ?」
「マキ、私だからいいけど……それ、誰にでも通じるわけじゃないからね? 傍目から見たら意味不明の会話だからね?」
無論、ここまでの会話は小声で、それもきちんと手を動かし始めながら続けている。流石に何もせず大声でこのように話し続けていたら、いくら温厚な部長でもいつ暇を叩きつけてくるかわかったものではない。
幸い、お喋りを咎める者は周りにいなかった。それも含め、これは遠藤の日常風景であった。
日没はまだ早く、遠藤が会社を出る頃には既に辺りは夜闇に包まれていた。
途中の駅まで一緒に帰っていたマキとも別れ、独り家路に就く。街灯こそあれ人気はなく、他には漆黒しか存在しない夜道は、女性が一人歩きするには十分不安に足るものだ。
「ふぅー……」
今日の書類整理はハードだったなぁなどと考えつつ、行動としては両頬をぺちり。ずり落ちた眼鏡を直す。一連の動作は、もはや無意識でも条件反射的に行われていた。
(マキ、楽しそうだったなぁ……)
今日に限らず、彼女はここのところいつも上機嫌だ。仕事は忙しいながらも順調、婚約と同棲、充実した日常。何週間か前には、小額(正確な額については聞き出すことができなかった)ながら宝くじにも当選したらしい。まさに幸福の絶頂とでも呼ぶべき状況にある。
それらの要因は全てプラスに働き、彼女の元の美しさをより一層輝かせているようにも見えた。親友としては喜ぶところなのだろう。だが……
(幸せ、か……私も、あんな風に幸せを感じられる日が来るのかな……)
遠藤には、今のマキのように心底の幸福を感じたことはなかった。もちろん何気ない平和な日常を送り、仲間たちと楽しいひと時を過ごせるというのは幸せなことなのだろうが、それは遠藤の求める『幸福』とは少し異なるものだ。
日常そのものに感じる幸福とは、結局目に見えず一過性のものでしかない。彼女の求める幸福とは、淡々とした日常そのものではない。淡々とした日常に張りと輝きを与える、そういうものなのであった。無論、それが具体的に何であるかまでは彼女にはまだ理解し得ないのだったが。
学生時代から、遠藤は?日陰に生きる存在?だった。要領が悪く、肝心な所で必ずミスをする。脚光を浴びることもなく、いつだって地味。それは社会に出てからも、根本から変わることはなかった。何か、目に見える形で『幸福』を『幸福である』と感じられること自体が望みというべきだろうか。
「ふぅ……」
思考が暗い方向に進むにつれ、自然とため息が溢れ出た。?ため息ひとつで、幸せがひとつ逃げる?。これは彼女の好きな曲の歌詞から引っ張ったものであるが、このような言葉にすがるほどに、彼女は幸福を渇望しているのだった。
ばちぃん! 暗い空の下、唐突に打撃音が響いた。自らを戒める遠藤の『頬ぱっちん』が、予想以上に強い力で叩きつけられた結果だった。
「……私、ほんと何やってもダメな子だな……」
じんじんと痛み火照る両頬を凍えた手でさすりながら、遠藤は家を目指す足を早めた。
「……あれ……?」
どれほど経ったのだろうか。気付けば、遠藤は全く見覚えのない場所を歩いていた。
駅から家までの道のりはさほど遠くない。いくら無意識だったとはいえ通い慣れた道、間違えるはずはない。回り道をしたわけでもないのだから、そもそも知らない場所に行くはずもない。だが現に今歩いている場所は明らかに見慣れた近所の風景とは違った。
おまけに、いつの間にか霧が出てきていた。この辺りで霧が出るというのはとても珍しいことで、遠藤も住み始めて以来初めての経験だ。
(なんか変だな……)
街灯に照らされる道だけは仄暗くもうっすら見えているが、頭より上の視界はないに等しい。暗黒の世界に、照らされた霧の白が漂うという、美しくも不気味な光景であった。
迷い込んだ未知の土地。幻想世界を現実に映す妖しき白。それらから与えられた不安は、自然と遠藤の足を止めた。
(引き返そう。とりあえず駅まで)
何はともあれ、それが遠藤には最善の策だと思われた。近所かも知れない場所で迷い、霧に囲まれただけで子どものように怯える情けない姿を誰かに見られるのは、社会人としてのプライドが許さなかった。幸い、来た道は殆ど一本道だ。迷うことはないだろう。
「嬢ちゃん。一本道で迷うような子が、一本道だからと引き返して同じ場所に辿り着いたり出来るもんかい?」
人の気配はなかった。だが遠藤の耳は明らかに、どこかから発せられた人の声を捉えた。あまりの驚きに、遠藤の小柄な肩は小さく鋭い悲鳴と共に跳ね上がった。
「悪いことは言わん、霧が晴れるまで少し待ってけ」
再び同じ声が聞こえ、それが遠藤の幻聴ではないということを証明した。声の方向は背後。遠藤は驚いた拍子にまたもずり落ちてきた眼鏡を上げると、恐る恐る振り返った。
さほど遠くない場所に、大きな全身鏡が置いてある。近づくと、その上部には乱雑な字で『粗大ごみ』と記された紙が貼ってあった。これは処分の際に貼ることを義務付られた市指定のシールではなく、不法投棄であることは明らかだ。だが、そのような事はどうでもいい。
肝心の声の主が見当たらなかった。確かに声はこちらの方向から聞こえたはずなのだが……遠藤は首をかしげた。
「あ……?」
ふと、鏡を覗く。映り込む自分の姿、その肩越しに自分ではない別の姿が確かに映っていた。霧に覆われた景色の中にあっても、それは明らかに人の姿だと認識できた。
「え……え、え?」
あまりの驚き、その弍。再び、今度は勢い良く振り返ると、そこには声の主と思わしき男が座っているのが見えた。
「あ、あれ……そっちは……?」
そう、それは最初に声を掛けられた時に遠藤が向いていた方向である。声は確かに背後から聞こえたはずだが、その主は正面にいたことになる。気付かなかったことも含め、妙なことばかりだ。
「ああ、言いたいことは大体わかる。だがあまり気にするな、世の中ってのはそういうもんなんだ」
遠藤の口から思わず溢れる疑問を聞いて、後ろの正面に座り込んだ男は手をひらひらさせながら呟いた。その内容も理不尽極まりない。それが果たして答えなのかどうか、遠藤にはわかりかねた。
声の主は、老齢に近いであろう皺の刻まれた顔と、もはや白の方が目立つようになっている白髪交じりの黒髪を持つ、浮浪者然とした男だった。所作なさげな様子ながら、放つ異様な存在感が、只者ならぬ存在であると確信させた。
「まぁそう身構えるな、別に俺はお前さんを襲うつもりだとか、そんなもんじゃない。安心しろ」
「……と言われましても……」
警戒が見抜かれているのは申し訳ない気持ちにもなったが、場所が場所、相手が相手だけに、身構えるなという注文には無理がある。
霧で曇るレンズを服の袖で拭いてから、遠藤は再び男の様子を伺った。折りたたみ式の丸椅子に腰掛け、脇には見るからに重そうな大きいアタッシュケースを置いている。目つきはギラギラとした猛禽のようで、視線を合わせてはいけないと本能に訴えかける凄みを秘めていた。
「――こんな霧の日はな」
ジロジロ見ては失礼だろうかと思いつつも、遠藤はしばらくの間観察を続けていた。この男は何者だろう、何故こんなところにいるのだろう。
そんな思惑を察したのか男は黙って観察され続けていたが、やがて唐突に口を開き語りだした。遠藤の眼鏡がずり落ちた。
「大抵、何か悩みを抱えた人間が訪れる。中には俺の目の前で飛び降り自殺を敢行したヤツまでいたな。未遂に終わったが……まったく、人間ってヤツはどうしてこんなに脆い心を持ってるのかねぇ。人生なんて、きっかけ一つでどうにでも変わるもんなのにな」
重い、雷鳴のような声色で話す。内容も、全てを悟ったような口調も、まるで彼自身人間でないかのような言いぶりも、何もかもが不気味だった。
だが、冷静に考えれば胡散臭いことこの上ない彼の言葉はどこか遠藤の心を惹きつけ、何か引っかかるものを残した。
「人生は、変わらないよ。神様はいじわるだもん、生まれつき人に差をつける。才能とか、幸不幸とか。私だって、節目はいくつもあった……でも、何も変わらなかったよ」
「やれやれ、やっぱお前さんもそういう人間か。霧の日ってのはヤなもんだねぇ」
ため息をつく暇すら与えず、男が侮蔑に満ちた声色で言葉を返してきた。気の強くない遠藤は、雷鳴のように鈍く響くその一言だけで、二の句を失った。
「才能だとか、幸不幸だとかな。そんな曖昧なもののせいにして、勝手に人生諦めてやがるんだろ。いいか? 誰にでもチャンスは平等に存在する、お前さんの言う?差?は、それを掴み取れるかどうかで発生する」
雷鳴の響きが追い打ちをかける。だが遠藤にはそれがどうしても納得いかず、だが面と向かって言い返す力もなく、不満げに頬を膨らませつつ空を仰いだ。
霧は一向に晴れる様子がない。街灯に照らされた暗中の白は、異質な二人を飲み込んで漂い続けている。
「……納得いかないって感じだな。まぁ仕方はない、お前さんもそう感じずにいられない人生を送ってきたんだろうよ」
少しだけ間を開け、男が再び口を開いた。どうやら糾弾するつもりはないようだと感じ、遠藤も視線を戻す。
「よし、証明してやろうか。きっかけ一つで、人生が変わるってことを。お前自身の体験をもって」
男が、遠藤へと笑みを向けた。口元だけが笑い、目元はまったく笑っているようには見えない鋭さのままであったが、遠藤にはそれが笑みであると直感でわかった。
遠藤は何か言おうと思ったが、言葉が出ない。男はそれを見越したのか、「いい、いい」と言って手を振ってから、隣に投げ出していたアタッシュケースを一つ持ち上げた。
「本当は売りもんなんだけどな。特別だ、持って行け。代金は要らねぇ――出世払いってことにしておいてやろう」
そしてそれを、乱雑な突き方で遠藤へと差し出す。見た目は重そうなアタッシュケースだが、彼は片手でこれを持っている。実際はさほどの重量もないのだろうか。
だが、遠藤は躊躇していた。見知らぬ男、それもこのように胡散臭さが服を着て歩いているような男を信頼してもいいのか。売り物なのに貰ってしまって本当に良いのか。そもそも、人生が変わる体験というのがいったい何だというのか。これら様々な疑念が脳内で複雑に絡まり、多重螺旋を描いていた。
「俺を信じて受け取るか、否を突きつけるかはお前さん次第だ。まぁ信用されるナリじゃねぇってことくらいは自覚しているがな。だがお前は今、差を覆すチャンスを目の前にしている。それを理解した上で、決定するといい」
男はもう一度、アタッシュケースをぐいと差し出す。口元には――口元だけには、あの笑みがまだ浮かんでいた。
ちっ、ちっ、ちっ。
壁に掛けた時計が針を進める、その音だけがダイニングに響き渡っていた。
「ふぅ……」
ぺちり。椅子に腰掛けた遠藤は、テーブルに押し付けていない方の頬を力なく叩いた。愛用の眼鏡は今は外され、傍らで沈黙を守っている。
その眼鏡のさらに傍らには、どかりと存在感のある物体が安置されている。長めの木の棒を『エ』の字に組んだもので、上部の棒にはレールのような溝が掘られ、両端には滑車状の独楽が取り付けられている。そしてその溝に沿わせて糸が張られ、糸は両端に皿を抱く。二枚の皿はお互いの重量によって均衡を保ち、全く同じ高さでぶら下がる。
「私、何やってんだろ……」
天秤。テーブルと掛け時計しか特筆するもののない質素なダイニングに、それはあまりに不自然な存在であった。
ちっ、ちっ、ちっ。
時計が示す時刻は午前一時。いつも以上に疲れきった遠藤は、しかし眠る気にもなれず、ぼーっとテーブルに寄りかかって座り続けていた。
あの後どのようにして戻ったのか、遠藤はよく覚えていない。気がつけば既に家にいて、何事もなかったかのように椅子に腰掛けていた。ただそれだけならば、あの奇妙な場所も怪しげな男も、全て夢だったのかと思ったことだろう。
だが遠藤の目の前には彼女のものではないアタッシュケースが確かに置かれていた。あの男から受け取ったものだ。これが、あの出来事が夢でなく現実の出来事であると証明する確かなものであった。
遠藤はおもむろにアタッシュケースを開け、中身を取り出した。中身が何であるかは、受け取った際に聞いている。
中から出てきたのは、聞いていた通り天秤。だが、予想以上に簡素な造りだ。小学生の工作レベルにも見える。これを『売り物』にしていた辺り、やはりあの男の胡散臭さは拭いきれなかった。
だが、見た目はともかく、この天秤は普通の天秤ではない……と男は言っていた。にわかには信じがたい内容ではあったが、幸せになることを熱望する遠藤にとって、その効果はあまりに魅力あるものだった。
この天秤は『幸福の天秤』。他者の幸福をほんの少しだけ分けてもらい、増幅した上で自分に加算するという摩訶不思議な効果を持つ(らしい)一品だ。決して新興宗教や悪徳商社が高額で売りつける、魔除けの壺や数珠などとは違う。正しい用法を守れば、必ず効果を得ることが出来る――と、男は自信満々に語っていた。
この用法というのが、なかなかに細かく指定されている。第一に、いくつかのものを用意しなければならない。幸せそうに見える人、その人と使用者だけが隣り合わせで写った写真、そして『一握の砂』。この砂はもちろん某有名文学作品ではなく、天秤に付属していたサラサラの砂に付けられた名だ。
(一緒の、写真……か)
遠藤は、この『幸せそうな人』にマキを選んだ。彼女の幸せっぷりはもはや繰り返して語るまでもない。男曰く、正しく使えば本人に影響が出るほどの運気は吸い取らないらしい。また、内気な遠藤には『二人で隣り合って写る写真』も、マキとのものくらいしか持ち合わせがなかった。以上二点から、彼女を選ぶのは道理であり、まさに適任であった。
用法の第二。天秤の片方に写真を、もう片方に『一握の砂』を、それぞれ乗せる。明らかに重さが違うが、天秤はどちらに傾くこともなく静止していた。そういう品なのだろうが、天秤本来の役割としては明らかな欠陥品だ。
?気にするな、世の中ってのはそういうもんなんだ?
出会って早々の、男の理不尽な言葉が不意に脳内再生され、遠藤は少し顔をしかめながら余計な思惑を止めた。
用法の第三。『一握の砂』を文字通りほんの一摘みし、写真の上へと移す。釣り合っていた天秤が、写真の側に、ほんの少しだけ傾いた。重量的には確実に砂が盛られた側が重いはずだ。どうやら、この天秤の均衡は重さに左右されないようだ。
用法は以上だ。他に禁止事項として、
一、必ず一摘みずつ移すこと
二、短期間に使いすぎないこと
三、移した砂は戻さないこと
四、移す砂がなくなった時、この天秤を破棄すること
この四つが挙げられていた。
これといって難しい制約はない。だが、ただこれだけのことで、使用者の下に幸運が舞い込むらしい。にわかには信じがたい……どころか、馬鹿らしくも思える。だが、遠藤はどうしても男のあの自信が気になり、信じずにはいられなかった。
夜が明けた。けたたましく鳴り響く携帯のアラームが、朝の訪れを賑やかに告げる。
「ふ、へ……?」
頓狂な声と共に、遠藤は目を覚ました。いつの間にか寝てしまっていたらしい。一晩中テーブルに押し付け続けられた右頬がじんじん痛む。
脇に放置されたままだった相棒を装着し、寝惚け眼のまま何気なく視線を泳がせる。朝の日差しが薄明るく室内を照らしている。そして目の前には『幸福の天秤』が、昨晩と変わらぬ状態のまま静かに佇んでいる。片方の皿に乗せた写真の上には、ほんの僅か砂が積もっていた。
(夢じゃ、ない……)
昨晩も確かめた事を、改めて実感した。
いつもの店で一杯だけコーヒーを飲み、いつもと同じ時間に出社する。全くの日常で、これといって変わった様子はない。少し気落ちしながらも、遠藤はいつも通り自分の席に着いた。
「ふぅ……」
「ため息一つで、以下略!」
気落ちが動作となったのか、ため息が漏れる。そのタイミングを狙ったかのように、平手の一撃がやかましい声と共に遠藤の頭頂を襲った。かなり痛い。
襲撃の主が誰であるかなど、もはや振り返らずともわかる。遠藤は危うく滑り落ちかけた眼鏡を元の位置に戻すと、恨みを込めて唸った。
「マキぃー……今のは痛かった。かなり痛かった」
「?今のは痛かった、痛かったぞーっ!!?……ごめんごめん、怒った?」
マキの登場である。彼女は今日も出だしからアニメネタを披露しつつ、隣席にどかりと座る。
内心彼女の行動を糾弾したくてたまらないのだが、今日の遠藤には他に聞きたいことがある。痛みと不満を渋々押し込み、遠藤は隣席のマキを睨みつけつつ尋ねた。
「別に。ところで、昨日の晩……なんか変わった事とかあった? 特に私と別れた後とか」
「え、そんなこと……恥ずかしくて言えない……」
「馬鹿」
「うわ、紡に罵られるなんて貴重な体験だなぁ……昨日? 特に何もないよ。買いためてたBL本をまとめ読みしたくらいかな」
その後もいくらか不自然にならない程度の質問を繰り返したが、どうやら本当に何もなかったらしい。昼まで様子を見ても、マキが災難に逢う様子は特にない。朝のこともあり、むしろ自分の方が運気を吸い取られたのではと遠藤は勘ぐるようになった。
やはり騙されていたのか。遠藤はどう見ても信用ならない胡散臭い男を信じたことを、段々と恥ずかしく思い始めた。そもそもが、用法の細かな指定に騙されたが、『幸福の天秤』などという非現実的なものが存在するはずがない。幸い金は取られてはいないので、勉強代としては安い買い物だった――などと遠藤の意識は、昼休みが終わる頃には完全に騙された自分への恥ずかしさと、失意で一杯になっていた。
転機が訪れたのは、昼下がりになってからだった。遠藤は上司に呼び出され、別室へと連れて行かれた。移動中、遠藤は何かまずい事をしただろうかと不安になったが、その予測に反して、出迎えた役員たちは皆優しい表情を遠藤に向けていた。
「君のプロジェクトが、本部役員会で採用された。今後はチームを組んで本格的に当たってもらう」
そう言ったのは、部長だった。いつも穏やかな人ではあるが、今日の部長は格別の喜びが全身から溢れ出しているようだった。
遠藤は最初、何を言われているのか、この集まりが何なのか、全く理解が追いつかなかった。だが時間の経過とともに、その意味が脳内へと浸透する。やがて、遠藤にも部長と同じく歓喜の波が押し寄せた。
以前行われた社員研修、それにおける意見交換会に、遠藤は部長やマキたちと共に参加していた。どうやらその時に出した意見が本社役員の耳に入ったらしく、本部で協議される運びとなった。それが正式に採択された――つまりはこういう話であったようだ。
自分を取り囲む人々の賞賛と拍手の中、遠藤は初めて
味わう成功の味を噛み締めていた。
夜。帰宅した遠藤は『幸福の天秤』を眺めながら、ゆったりと椅子に腰掛けていた。傍らに置かれたコーヒーカップからは、美味しそうな香りと共に湯気が立ち上っている。
「これのお陰、なのかな……?」
呟いてから、コーヒーをゆっくりと啜る。一瞬だけ、その立ち上る湯気が眼鏡のレンズを曇らせた。
一人暮らしを始めて以来、家に帰ってくるとき遠藤はいつも疲れ切っていた。このように穏やかな気持ちで夜を迎えるのは、ここ数年で初めての事かもしれない。それほどに、この日の遠藤は上機嫌だった。
「いや、マグレかも。過信は禁物……でも」
遠藤は『一握の砂』を一摘み手に取ると、写真の上へと移動させた。遠藤とマキ、二人揃った笑顔が、また少し砂に埋もれる。
「少量なら、マキは不幸にならない。そして、私は幸運になる」
にっこりとそう呟き、またコーヒーを口に含む。まだ完全にこの天秤を信じたわけではないが、?もしかすると?の考えが、今の彼女を明るい気持ちへと導いていた。
「それって、とっても素晴らしいことじゃない」
もう一摘み、砂を移動させる。一摘みでは全く影響がなかったのだから、もう一摘みくらいなら大丈夫との考えだ。まるで禁断の果実を得たイヴのように、遠藤は背徳の甘美に酔いしれた。
その後は、まさに順風満帆であった。本部から任されたプロジェクトは順調に進み、遠藤はプロジェクトリーダーとしてその地位を高めていった。初めて人前に立ち、部下を従え、大勢の人間に頼られる。仕事中は休む間もないほどの多忙を強いられたが、その充実感は遠藤にとってとても心地の良いものであった。
懸賞にも立て続けに当たり、車やテレビ、最新型ノートパソコンなど、高額の景品を立て続けに当てていった。地味だったダイニングは高級家電で埋め尽くされ、リビングには所狭しと雑多な品々が並ぶ。高い服で着飾り、眼鏡もサイズを合わせて新調した。かつての目立たない自分に別れを告げるかのように、遠藤は幸福を貪り続けた。
「結婚を前提に、お付き合いしていただきたい」
そして遂に、彼女はパートナーとなる男性までも手に入れた。優しく明朗で、容姿端麗の敏腕若手弁護士。誰もが羨む完璧超人ですら、今の遠藤にとって得ることは容易い事なのだ。
新規プロジェクトを立ち上げる時、懸賞に応募するとき、出掛ける時。何かある毎に、遠藤は『一握の砂』を動かし続けた。一度に多くの量を動かすと、それだけの強運が。多くの回数動かすと、それだけの成功が、彼女を待っていた。砂が足りなくなれば、写真の上に積もった砂を『一握の砂』の皿に戻す。これらは全て禁止事項にあった事柄だが、何かが起こることもなかったため、次第に遠藤はそれらを全く気にしないようになっていった。
ただ一つ、気になることがあった。寿退社したマキと、接点が殆どなくなってしまったのだ。何度か会おうというメールは来たが、恋に仕事に大忙しの遠藤に、そのような余裕はなかった。詳しい近況はわからなかったが、年賀状では夫と共に幸せそうな表情で写っていたことは記憶している。きっと楽しくやっているだろう。その程度にしか思うことはなかった。
彼女にとっての『幸福の天秤』は、今や無尽蔵に幸福を生み出す成功装置でしかなかった。また、この時の彼女は既に『幸福中毒』とでもいうべき状態に陥っていた。
そんなある日、マキからのメールが届いた。内容は、たまに送られてくる「一緒に飲もう」といった旨。普段なら適当な理由をつけて断るところだったが、今回のメールはどうにも様子が異なった。今までのメールは絵文字・顔文字を満載に詰め込む煌びやかなものだったが、今回は「飲みにいかない?」と本文に書いてあるのみで、一切の装飾がない。断りすぎて怒っているのだろうか。さすがに悪い気がしたので、遠藤はたまにはと誘いを承諾した。
「あ、マキ! 久しぶり!」
指定された居酒屋に着くと、すぐに懐かしい後ろ姿を見つけた。見間違う事はない、マキのそれである。どうやら彼女の方が先に着いていたようで、独り席に座って飲み始めていた。遠藤はそこに駆け寄って、声をかけつつぽんと肩を叩いた。
「ああ、紡。久しぶり、随分明るくなったね」
「へへ、おかげさまで!」
マキはそれに反応して振り返り、笑顔を向けた。相変わらずの美人だが、プライベートだからだろうか。今日は控えめの服装で、片ピアスも着けていなかった。だが、メイクだけはやけに濃い。面倒がりな彼女にしては、珍しいことだった。
その後しばらくは、酒を飲み交わしながら昔話と、遠藤の忙しい近況についての話に花を咲かせた。だがその光景は、あの頃の二人とは同じようで違う。遠藤はよく喋るようになり、逆にマキは大人の落ち着きを身につけたようだった。
「なんだか懐かしいね、後ろからぽんって叩いて、隣に座って。昔の私たちが入れ替わったみたい!」
「……そうだね、本当にそうかも」
飲み始めてしばらく経った頃。何気なく言う遠藤に、マキは変わらずのしんみり口調で返した。遠藤は、先ほどからマキがあまり笑っていないことに、ようやく気付いた。
一度それに気付くと、今度は逆にマキの応対内容に興味が向く。誘っておいて、楽しんでいないということもないだろう。だとすれば、疲れているだけだろうか。遠藤にはその真意が気になった。
「……どういう、こと?」
「紡はさ、前の赤ぶちメガネの方が似合ってたよ」
マキは、遠藤の質問に答えなかった。代わりにズレた返答を投げると、そのまま手にしたグラスに残った酒を一気に飲み干す。遠藤はわけがわからず、ちゃんとサイズを合わせて買い直した白ぶちの眼鏡に、意味もなく触れた。
「ありがと、久々に紡の顔が見れて良かったよ」
マキは財布から一万円札を取り出すと、それを机の上に置いて席を立った。そしてお釣りは取っておいてと言い残し、そのままその場を立ち去ろうとする。遠藤は慌ててマキを引き止め、福沢諭吉をマキの着ているジャケットのポケットに押し込んだ。
「お金ならいいよ、私が出す。最近儲かってるしね。ごちそうするよ!」
「……そう」
遠藤はガッツポーズを作り、にこやかに笑いかけた。だが、マキはそれに対して恐ろしい程の無表情だった。
「やっぱり、そう。そうだよね」
それどころか、冷たく光る眼差しを向ける。飲み屋の上気した空気にそぐわない氷結の視線に射抜かれ、遠藤は初めてマキに恐怖を感じた。
マキは遠藤を置いて店を出、待つことなくどんどんと先へ進む。遠藤は慌てて会計を終わらせると、マキの後ろ姿を大急ぎで追いかけた。柵を挟んで線路に面した小路に、他の人気は見当たらない。
「ま、マキ! どうしたの? 何か変じゃない?」
叫びが、夜風に乗ってマキへと届く。その直後、眩い光と轟音が駆け抜け、柵の向こう側に敷かれた線路を特急電車が通過していった。
声が届いたのか、先行していたマキはようやく歩を止めた。遠藤はその背後に追いつき、手を握ろうとする。
――ぱしん。握ろうと差し出したその手を、勢いよく弾かれた。遠藤の華奢な手は受けた威力のままに飛ばされ、逆再生のようにマキから遠ざかった。
「な……マキ――!?」
遠藤の瞳が、驚愕に見開かれる。そしてその目は、振り返ったマキの表情を余さず映した。
マキは、泣いていた。歯をギリギリと食いしばり、あらん限りの意思を込めて遠藤を睨みつける。涙を拭わず垂れ流したままの目には、怒り・悲しみ・憎しみ、そのどれとも取れる、強い敵意が渦巻いているのがわかった。
「なんで変わっちゃったの……紡。昔のあんたはそんなんじゃなかった!!」
今まで遠藤が聞いたことのない、心からの絶叫。見えない力に打ちのめされ、遠藤は動くことが出来なくなった。
反対に、一度溢れ出したマキの激情は止まらない。怯んだ遠藤に、これでもかと言葉をぶつける。
「あんた、私をいじめてるの? 幸せな自分を見せびらかして、不幸な私を嘲笑いたいんでしょ!」
「ま、マキ……? 私は……」
「黙って!!」
激情の呪縛から逃れようと必死の遠藤は弁解を唱えようとするが、激昂のマキはそれすらも許さない。遠藤の胸を両手の平で突き、押し飛ばす。そしてよろけた遠藤が次の行動を起こすより早く、さらなる口撃の追い打ちを浴びせた。
「あんたが成功し始めた頃から、私はだんだん何をしてもうまくいかなくなり始めた。ねぇ、あんた知ってる? 私、離婚したの。退社のあと少しして、旦那は他の女と出てった。そのあとも、親の会社が倒産したり、家が放火されて全焼したり、祖母が体の不自由な祖父と無理心中したり。いいことなんか一つもなかった」
遠藤は衝撃を隠せなかった。しばらく会わないうちに、マキがこのような事になっていようとは思ってもみなかったのだ。自分の記憶の中のマキに何も起こらなかったため、『幸福の天秤』の影響は皆無だと信じ込んでいた。
「それを、何? 久々に会ったっていうのに、あんたは口を開けば自分の自慢話ばっかり。私のことなんてちっとも聞いてくれやしない。いいよね、あんたは今絶好調だもんね……ああ、もしかして、あの頃私ばかり幸せだったからって当て付けのつもり?」
「ち……違うよ! それに、そんなことになってるならどうして――」
冷徹なまでに、糾弾は続く。遠藤の方も必死で自分の話を聞かせようと割り込むが、もはやマキは聞く耳を持たなかった。
閑静な夜の空気が、たった一人の叫びによって割れる。
「まさか、どうして話してくれなかったの? ……とか言わないよね? 何度も何度も、私はあんたに相談しようとしたよ。でも、ことごとく断られた。昔のあんたなら、私から言わなくても気づいてくれたよ。成功し始めて、あんたは変わっちゃった」
「マキ……」
「親友のあんたにだけは相談に乗ってもらいたかったのに。私は色々なものをなくしたけどね、一番なくしたくないものだけは守りたかったんだ。味方だって信じてたんだ。信じたかったんだ」
溢れる涙を拭いもせず、マキは踵を返す。遠藤には、もはや引き止めるだけの気力も残っていなかった。
電車が彼女らの横を猛スピードで駆け抜ける。過ぎ去った電車が引き返すことは、ない。
「でも、今日はっきりとわかったよ。私は今日――いや、もうずっと前からなのかな。一番大事なものなんて、とっくになくしてたみたい。これで、全部なくしちゃった。そしたら、何だかもうどうでもよくなっちゃった」
少し歩いて、マキが一度だけ振り返った。興奮状態は収まりつつあるのか、動作はゆっくりだ。だが、周りにある僅かな光だけでは、その表情までは窺えなかった。
「ごめんね、紡。あんたの幸せが眩しくて、妬ましくなっちゃったの。あんたも、昔の私に対してそうだったの? だったら、私も人のこと言えないのにね」
脇を通過する電車のライトが二人を照らし、遠ざかる。光が闇に飲まれる頃、マキは再び遠藤に背を向け、歩き出していた。
「今までありがとう、紡。掴み取った幸せ、大事にね」
闇に紛れていくマキを、遠藤はただ見送ることしか出来なかった。去り際のマキの言葉が、いつまでも遠藤の胸の中で反響し続けていた。
数日後、ある知らせが新聞に小さく載った。
割とよくある、自殺の報道だった。
とある社ビルの屋上から飛び降り、即死だったらしい。
飛び降りたのは女性で、記事には真木真由という名が載せられていた。
ちっ、ちっ、ちっ。
「掴み取った幸せ……違うよ。私の幸せは、奪い取った幸せだったよ」
ちっ、ちっ、ちっ。
規則的なリズムで、小さな音が部屋に響いていた。
「何気ない日常が『幸福』の形じゃ気に食わなかった」
その音を生んでいるのは、壁に掛けられた一つの時計だ。
「何気ない日常と、刺激だらけの毎日。両方を天秤にかけた結果、刺激だらけの日々が秤を振り切っちゃったんだね」
時計が刻む音に重なり、小さな呟きが聞こえてくる。
「欲しかったものと引き換えに、一番なくしちゃいけなかったものをなくしちゃった。『幸福の天秤』はちゃんと、何かを与える代わりに何かを奪う仕組みになってたんだ」
声の主は、ぶかぶかの赤ぶち眼鏡を掛けていた。
「釣り合ってるね、馬鹿な私に」
その手には、表面に残る無数の擦り傷で、もはや白紙に近くなった何かが握られている。傷の合間合間から写る色合いから、それが写真であることが辛うじてわかった。
「私が手に入れたものは、みんなマキが手に入れるはずのものだったのに。私、全部取っちゃった。だから、マキには何もなくなっちゃったんだね」
写真の残骸に向け、声の主は語りかけ続ける。
「ごめんね、マキ。ごめんね……」
ちっ、ちっ、ちっ。
壁掛け時計の音が、白壁の部屋にいつまでも響いている。
「遠藤さん、また一人で何か呟いてるよ……」
「いつものことじゃない。昔、色々あったらしいからね」
部屋の外、冷たい廊下を歩く白衣の二人組が何を言っているか、彼女は知る由もない。
赤ぶち眼鏡の老婆は今日も、夢の中で『幸福』を追い求め続けていた。
幸福の天秤...fin