おとうさんといっしょ

池田 風太郎   

 

 ただいまー、と玄関の扉を開け、おかえりー、という妻と息子の声を聞く。声の方向からすると、息子はリビング、妻は風呂場にいるのだろう。今日もいつもと何も変わりはない。

 戸を開いてリビングに入ると、やはり息子はそこにいた。だが、いつものように転がって最近買い与えたゲームに夢中になっているのではなく、普段は隣の和室に置いてある折りたたみ式簡易机の上に何か紙を広げ、それと向き合う形で座っていた。

 珍しいなとは思ったが、息子が何をしているのかはすぐに分かった。この机をわざわざ出しているとき、それは息子が宿題をしている時だ。また、彼は鉛筆をくるくると器用に回しながら体をゆっくり前後に揺らしている。これは息子が考え事をしている時の癖なのだ。

「お、随分と悩んでるじゃないか。何してるんだ?」

「さくぶーん」

 隣に立って問いかけると、息子は向き合っていた枡目が規則的に振られた白紙――つまりは何も書かれていない状態の原稿用紙から目を離し、こちらを見上げた。疲れと飽きを滲ませる、退屈極まりないといった表情だった。

「でも何も書いてないじゃないか。一体何について考えてるんだ?」

「『将来の夢』だってさ」

 息子は心底面倒くさそうに、ぶっきらぼうな口調で言い放った。だが、将来の夢だなんて子どもなら目を輝かせるような題目ではないだろうか。

「なんだ、将来なりたいものとかないのか? 宇宙飛行士とかプロ野球選手とかさ」

「そんなの全然ゲンジツテキじゃないよ……んー、なりたいものがないとか、そんなんじゃないけどさぁ」

 息子は少しだけ考えるそぶりを見せて、それから若干ためらうように言葉を続けた。

「ねぇパパ、なんで『将来の夢』なんて書かなきゃいけないのかなぁ。書いたって、そんなの本当になれるかどうかなんてわかんないのに」

 ……うわ。こいつ、子どものくせになんてシビアな考え方してやがるんだ。私は一瞬、返す言葉を詰まらせた。

「ねんきんせーどのハタン? とか、しょーしこーれーか? とか、しゅーしょくヒョーガキ? とかさ。いろいろテレビで見たけど、ゲンジツは厳しいんだよ。パパのお給料だって厳しいみたいだし」

 ……妻だ、妻の影響に違いない。いつも録画して夕方に見てるらしいワイドショーと、それを見ながらぼやく妻が息子を歪めてしまったに違いない。安月給で悪かったな、くそっ。

 内心の不満はあったが、このままでは息子が夢を抱けなくなってしまう。父として少しでもそれを阻止しようと、私は息子と目線を合わせ、肩に手を置きながら諭すように語りかけた。

大希(たいき)、お前たち子どもはこれから何にでもなれる可能性を秘めている。諦めさえしなければな。世の中を暗くしているのは今の大人だ。お前たちが大人になったとき、お前たちが世の中を明るくしていけばいいんだ。子どもの頃は大きな夢を抱かないと。夢は自分の道を選択する、もっとも明確な道標(みちしるべ)なんだよ」

「夢は、道しるべ……」

「そう。お前に与えた『大希』の名前の通り、お前には大きな希望を持って生きていって欲しい。お父さんはそう願っているよ」

 今の話がどれくらい息子に伝わったのかはわからなかった。実際、息子は不思議そうな表情で私を見上げていた。

 少し難しかったかな。ごほんと咳払いをすると、もう一度向き直って一言。

「まぁあれだ、夢はスゲーぞってことだ」

「…………ふっ……」

 我ながらなんと稚拙な総括だろうか。幼い息子も、大真面目でこんなことをいう私に思わず吹き出した。

「……うん、ありがと。ぼく、頑張るよ」

 だが効果はあったようだ。息子は表情に可憐な花を咲かし、再び鉛筆を握りなおした。そしてくるくると鉛筆を回しながら真っ白い原稿用紙に向き直り、思考の海へ沈んでいった。

 シビアな考えを抱いても、難しい言葉を並べても、こういう単純さを見るとやはり子どもらしいと感じる。単純というよりは純粋か。何でも受け入れてしまう純粋さが、明るさだけでなく暗さまでも取り入れて悩んでしまうのだろう。

 とにかく、息子がどんな夢を書くのか楽しみだ。私は頑張れよという念を込めて息子に微笑みかけると、思考の邪魔をしないように、着替えをすべく隣室へと移動した。

 

 

 

 後日のこと。

「パパ、見て見てーっ!」

 息子が、どうやら返却されたらしいあの作文を、私に見せようとして持ってきた。私はそれを受け取ると、どれどれと本文に目を通してみた。子どもらしい乱雑で可愛い文字が並んでいた。

 

  ぼくは、おおきくなったら えらいひとになって、

  せんえんさつに かおを かいてもらえる ような

  ひとに なりたいです。

 

 ……確かに凄い事ではあるが。何故ピンポイントに千円札なのだろうか。五千円とか壱萬円とか、もっと上はあるのに。

 しかも隅には先生の添削と思わしき赤字で『とても面白い夢ですね。大希くんが千円札に載ったら、私はそれを額に飾りますね』と書いてある。先生、千円札を額に飾るのはあまりお勧めしない。というより、先生……いや、息子が生きている間にすら、お札に載ることが出来るとは思えない。

 私は心中苦笑しながらも、息子の頭を撫でながら作文を返してやった。息子は笑顔を満開に咲かせると、次はママに見せるんだといって向こうへ駆けて行った。

 果ては医者か文芸作家か。微妙に小さく、微妙に壮大な夢。それでも、何か大物を夢見ることができた息子の、走り行く後ろ姿に無限の可能性を幻視しながら、私は気付かずして微笑みを浮かべていた。

 

おとうさんといっしょ…fin

 

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