Over the Ground

池田 風太郎 

 

 夏の強い日差しも徐々に弱まり、穏やかで過ごしやすい季節に変わり始めた。何処からか吹く風が寒くない程度に涼しさを残し、また何処へと駆け抜けていく。

 早朝ということもあり、まだ生き残っている蝉たちの合唱も聞こえない。そもそも、近頃は蝉しぐれと呼べる程の合唱も聞こえなくなった。聞こえるときは五月蝿いとしか感じないのに、聞こえなくなれば少し寂しさを感じるという不思議。俺たちはこんな感情も全てひっくるめて、風物詩というものを見ているのだろうか。そんな柄でもない事を頭の片隅で考えながら、俺は今、先ほど偶然発見した標的≠追跡していた。

 数メートル先を歩く目標≠ヘまだ、後方にある俺の姿に気づいていないようだ。お互いいつもここを通る時間より早いので、まさか俺に狙われているなんて考えもしていないだろう。だが万一に備え、毛一本ほどの油断をすることもしない。ただ獲物を狙う猫のように、足音を消して慎重に少しずつ距離を詰めていく。気づかれそうになれば惜しまず距離を離す。見付からないことが最低条件なのだから当然ではあるが、なかなか距離が詰まらないのはもどかしい。

 やがて、大股で走れば数歩で追いつけるほどの距離まで近づくことに成功した。幾度となく行なった接近と後退、その繰り返しの末に訪れた、ようやく見出したチャンス。これを生かす最高のタイミングはまさに今に違いないと、俺は物陰から飛び出し、無防備な目標≠ヨと迫る。一気に距離は詰まり、叫びを上げることも抵抗を試みることも一切出来ない刹那の内に、俺は標的≠フ背後を奪った。そして―――

「きゃあッ!?

 俺は膝を急に折り曲げて標的≠フ膝裏を捉えると、少しだけ膝を押し出してから即座に飛び退き、間合いを作る。バランスを失った上に寄りかかる場所をも失った標的≠ヘ、俺が用意した絶妙な間合いに崩れこんで大きな尻もちをつく。俗に言う『膝カックン』が見事なまでに完璧に決まった瞬間だった。

 

 

「な……な……?」

 一方、その強烈な一撃で崩れ落ちたままの標的≠スる少女は起き上がることもせず、目を白黒させてこちらを見上げていた。突然の出来事に驚いたのだろうが、その様子がどこか可笑しく、俺は笑いを禁じ得なかった。

「……はっははは! なんて顔してんだよ!」

「な……!」

「どうした、さっきから『な』しか言えてないじゃないか、くくくっ……!」

 笑う俺を見て、正気を取り戻した少女の表情が徐々に呆然から羞恥と怒りを込めたものに変わっていく。そろそろか。日頃から培われた経験と勘がそう告げる。それゆえに、俺は表面では笑い続けながらも、少しの警戒心を持ち始めた。

「よ、よくも……バカ谷ーッ!!

 まさにその直後、怒号の爆発と共に立ち上がった少女が、立ち上がる途上でごく自然に加えていた体の捻りを利用し、回し蹴りを叩き込もうとしてきた。何の警戒もなく笑い続けていたなら決して避けられなかっただろう威力で放たれた蹴りは、足元の砂埃を後塵として纏い、一直線に俺を狙った。

 無論、避けられないだろうというのは警戒をしていなかった場合の話。少女にとっては不運なことに、俺はいつもの少女の行動パターンから次の挙措を完全に先読みしていた。体の力を抜いて後方に体重を移動させ、防御に必要な僅かな間合いを作り上げると、回し蹴りの軌道と交差するように腕を動かす。

 全力の蹴りを繰り出した少女に軌道修正の余地はない。読み通りの軌道で飛んできた蹴りをガッシリ腕で受け止め、腕には鈍い痛みが、少女の表情には驚きが、それぞれ広がった。

「だから清水、いいかげん学習しろって。顔はやめろって言ってんだろ。あと……今日も朝からサービス精神満載だな。薄桃色とはなかなか悪くないチョイスだ」

 驚く少女は、俺の放った言葉を受け取るなり真っ赤になって、俺の顔面手前で受け止められたままの足を引き、軽いステップで距離をとった。スカートを押さえることも忘れていない。まったく、こんな反応が即座にできるなら、何故蹴る前にこうなることが予測できないのだろうか。

「こ……この変態ッ!」

「いやいや、そっちが見せて来たんだろうが。たしかに最初に膝カックンしたのは俺だけどさ、上段回し蹴りはそっちの判断だぜ?」

「うるさい! うるさい!!

 とりあえず覗き見の容疑だけは晴らそうとしたが、ダメだ、駄々っ子のように言うことを聞かない。こうなったら何を言っても無駄だろう。そう判断し、俺は逃げの姿勢を取る。

「あ、待て! 逃げるな!」

 げっ。いつもなら怒っている隙を突けば逃げられるのに、今日は追いかけて来た……!?

 どうやら怒りのつぼを刺激しすぎたらしい。ここは全力で逃げるしかない。単純な走るスピードは俺のほうが上だから、逃げ切ることは不可能でないはずだ。

「わわわ、追っかけて来るな!」

「今日は絶対に逃がさないんだから! 待ちなさいバカ谷!」

「俺はバカ谷じゃない、中谷だ!」

 追う女と追われる男。そんな字面ほどの詩的ムードを微塵も持たない追いかけっこは、閑静な朝の通学路に似合わない騒々しさを残し、学校に着くまで続いた。

 

 

「ふぅー……」

 数分後、俺は力なく机にへばり込んでいた。少し離れた席では、清水も同じようにへばり込んでいる。朝っぱらから教室まで全力疾走したため、怒る気力もなくしてしまったらしい。これは一応勝利ということにしておこう。

「お、中谷! 今日も朝から痴話喧嘩か?」

 席に着いて間もなく、俺たちのすぐ後に教室に入ってきた一人の男子が、鞄も置かずにこちらへ近寄ってきた。長身と坊主頭が特徴的なこいつはコウジ。見た目のイメージ通り野球一筋な、中学以来の俺の親友だ。

「痴話喧嘩とか言うな、断じて違う」

「バーカ、朝っぱらから大声で叫びながら全力疾走してるのが痴話喧嘩じゃなくて何なんだよ」

「……そ、それは……ってか、見てたのかよ」

 どうやらさっきの様子を見られていたらしい。否定以外にこれといった反論の材料を持たない上、現場まで押さえられてしまったのではどうしようもない。出来るのはただ言葉に窮して閉口することと、恨めしそうに睨むことだけだ。

「ま、いつものことだから俺は別にいいんだけどさ。でも彼女は大事にしてやれよ?」

「か、彼女じゃねえって!」

「へえー、じゃあ俺が貰っちゃってもいいのかなー?」

 どこか気持ち悪いニヤニヤ顔のまま、コウジは言葉で俺に迫る。どうやらこいつ、俺の反応を楽しんでいるらしい。少し不愉快に感じたので、カウンターで一撃ほど言葉の暴力をお見舞いしてやることにした。

「お前、鏡見たことあるか? 清水と並んで歩くお前なんか見ても、傍目からは餌付けされたゴリラの図にしか見えないだろうぜ……ああ、『貰う』ってそもそもバナナか何かの話か」

「なっ……!? やるかお前、表出ろ!」

「それは出来ない相談だな。下手に野獣を檻から出せば、何をしでかすか分からない。危険だってものをわざわざ放つ馬鹿がどこに……おっと失礼、お前のことじゃないぜ? ふふふ……」

「………………」

 コウジは悪い奴ではないが、基本的に性格が単純だ。愚弄すればすぐに食いついてくる。今ももはや言葉すら出さず、拳を固めて俺を睨みつけている。

 そしてこのあと間もなく、俺にとって本日二回目のバトルが、相手を変えて始まったということは言うまでもない。

 

 

 清水とは小学校からずっと同じ学校で、コウジ以上に付き合いが長い幼馴染だ。この十年近い長い付き合いの中、ただの一度もクラスが離れたことがないのは、きっと何かの策略が働いているからだ(と俺は考えている)。

 その性格は至って単純。少し乱暴で素直じゃない面もあるが、明るく快活で、(俺を除いた)誰に対しても友好的なため、友達は多い。クラス行事においても先頭に立って積極的に参加し、常に動いている。そのため、クラスの中心的地位にあった。

 清水が俺に対してどういう感情を抱いているのはわからない。今朝のようにいきなり襲いかかってくることもあれば、夏祭りに誘ってくるような好意的な一面を見せることもある。ただ、他の人と全く異なった対応や扱いをされるため、少なくとも俺に関して何らかの思いを持っているのは間違いないだろうと考えている。その思いが向く正負の方向がどちらなのかは定かではないが。

 ちなみに、今朝のようなやり取りは今日いきなり始まったことではない。俺が清水にちょっかいを出し、清水が怒ってやり返すのは、いつかもわからない昔からずっと続いてきた繰り返し。いわば習慣のようなものになっていた。

 

 

 俺たちの学校では明日から二日間、文化祭が開催される。学業という目的に縛られた学生たちのエネルギーを余すことなく解放する、体育大会と並んで学校生活最大の行事とされたこのイベントため、今日の時間割は二時間で終わる。

 文化祭には文化系クラブの活動や社会科の学習内容発表の場という側面(学校側は建前としてこれを主な出し物としている)もあるが、そんなものは俺たち学生にとって本来の楽しみに付属するおまけ∴ネ外の何物でもない。翌日から始まる一大イベントを目前にして、生徒たちは誰もが浮かれきっていた。

「えー、じゃあ各自割り当てられた分をこなすように。終わった者から帰って構わないぞ」

 時間割変更で担任の授業になっていた二時間目が終わると、先生は教卓の前で荷物をまとめながらクラス全体に呼びかけた。担任が少し観念したような表情をしているのは、みんな文化祭のことで頭が一杯になっていて、まともに授業を聞いている者がほとんどいなかったからだろう。

 担任の呼びかけに反応してちらほらと聞こえた、気合が入っているのかいないのか分からない微妙な返事を皮切りに、常の休み時間よりも幾回りか上気した喧騒が始まる。ある生徒は嬉しそうに、ある生徒は気だるそうに、またある生徒は生真面目に、自分の成すべきことをする為に移動を始めた。俺たちのクラスは焼き鳥の模擬店を開くので、冷蔵庫のレンタルや鶏肉の確保、店舗設営など、事前に準備する役割が振り分けられていた。

「さあバカ谷、気合入れてやるよ!」

「よし、やるか」

 そんなクラスメイト達の間から、珍しく清水が普通の調子で誘いをかけてきた。相変わらず二人称は間違っているが、これからを考えるとせっかくのやる気を削いでも得がないので、あえて突っ込まないでおく。

 俺の隣にはコウジと学級委員の小林、清水の隣には清水と仲の良い女子二人がいて、俺たちも含めたそれぞれが色ペンや画用紙、段ボール、カッターなど様々なものを持っている。既に小林は段ボールを手にし、ペンで縁取りした個所にカッターの刃を走らせている。さすがは学級委員というべき手際だ。

「今朝の恨み、今こそ晴らしてやるんだから」

 一方、清水のやる気はどうやら別の方向へと向いていたらしい。薄い画用紙を丸めて右手に持ち、俺のほうに向けながらジリジリと迫ってくる。ニヤリと不気味に歪む表情と場違いな動作が、背筋に妖鬼を前にしているかのような怖気を誘った。

「ちょ、清水! 今は準備が先決だろ!」

「うるさい、成敗!!

 物があちこちに散乱したこの状況では、満足に攻撃を避けられない。俺は慌てて制止をかけるが、清水はそんなことお構いなしに丸めた画用紙を振るった。ヒュッという軽い空裂音を伴って繰り出された一撃は防御姿勢が整いきらなかった俺の額を捉え、痛くない程度の衝撃を響かせた。ついでに、バランスを崩してしまった俺はそのまま後ろにつんのめり、勢いよく尻もちをついてしまう。ちくしょう、今朝の勝ち分はこれでパァになった。

「ふふふ、いい格好だねバカ谷くん! まぁ今日はこの程度で勘弁しといてあげるけど、せいぜい暗い夜道には気をつけなさい。さもないと怖い目に逢うよ!」

 俺に尻を着かせたことで、今朝の復讐は完遂したと判断したのだろうか。清水は丸めた画用紙を元に戻すと、少しご機嫌な様子で色ペンを手に持った。どうやら私物ではない画用紙に丸みが残ったことなど微塵も気にしていないようだ。

 それに、いや……わざわざ夜道なんかで警戒しなくても、いま黒い笑いを浮かべながら目の前に立っているお前の様子だけで十分に怖いから。夏は終わったんだから恐怖体験に需要はないぞ。俺はそう念じて恨めしい目線を飛ばしたが、結局清水が気付くことはなかった。

 

 

 夏が終わると、陽が沈むのは日に日に早くなってくる。夕方くらいになると薄ら明るく空が赤らむ程度で、教室も廊下も校庭も、みんな黒紅色に染まっていた。

 俺は今、便所から教室へと歩いているところだ。何気なく視線を送った校庭側の窓からは下校する生徒たちの姿が、校外側の窓からは小さな子どもと手を繋いで歩く主婦らしき姿が見えた。理由は別種のものながら、どちらも楽しさが全身から溢れていて、見ていて和む光景だった。

「そろそろ散髪行かなきゃな……」

 開いている窓から吹き込んだ少し冷たい風が、長くなってきた俺の前髪を軽く揺らした。廊下には誰もいないので、誰かが開けっ放しで帰ったのだろう。

「さて、早く帰らないと。清水にサボってるって言われかねないな……」

 小林とコウジと清水の女友達は足りないものの買い出しに出ていて、他のグループの生徒たちは先に仕事を終えて帰った。そして俺は便所に行っていた。よって、いま教室にいるのは清水一人だけなのである。あまりゆっくり帰ると、制止役がいないだけにまた荒れるかもしれない。そこで、俺は少しオーバーなアクションで教室に入り、そちらに興味を逸らさせる手段を取ることにした。中にいるのも清水一人となれば恥じらいはない。

 教室の扉の前で一拍分ほど深く息を吸うと、俺は勢いよく扉を開けながら声を張り上げた。

「やっほー、みんな大好き中谷くんがただいま無事に帰ったよーっ! 元気―っ?」

 しまった、やりすぎたか。教室の中は『しーん』という音がないことを示す音≠ェしそうなくらいに静まり返っている。この静けさは滑ったどころの話ではない。教室内の空気は凍り付くを通り越し、絶対零度の領域に達しているようにさえ思えた。

「あー、清水……さん?」

 教室の入り口から一瞬見当たらなかった清水を探し、俺は教室を見回した。纏められた机は飾りつけられ、教室の脇には使わなかった机が積み上げられている。その机の山に立てかけるようにして店の名前を書いた看板が立てかけてある。そのどれもが窓から射し込む斜陽の輝きを受け、深い紅色の輝きを灯していた。

「……あ」

 そしてその陰になるところ、教室の隅っこの辺りに、捜していた少女の姿を見つけた。壁に対して平行な向きで三角座りの姿勢を取り、全身を壁に預けるようにして座っている。俺のギャグが聞いて静かになったのではなく、どうやら眠っているらしかった。

 俺はそっと扉を閉めると、そっと清水の傍に近づいた。近くに立つと、スースーという穏やかな寝息が聞こえる。表情にはいつも突っかかってくるときのような険はなく、ただ安らかさのみを感じさせた。

「いつもこんな感じなら、もう少し可愛い気もあるのにな……」

 誰にでもなく一人呟いてから、俺はあることに気がついて驚いた。その対象は清水ではない。全く意図しないながら、自然と『可愛い』という言葉を用いた自分だ。

 そう、俺はいま清水の寝顔を可愛いと感じた。今までずっと男友達のように接してきた清水に、こんな感情を抱く自分がいるというのは、とても新鮮な気分だった。

 そうか、こいつも一応女の子だもんな……考えてみれば今さらなことではあるが、それでも思わずにはいられなかった。

「あ、そうだ」

 俺はすっと教室の反対側に置いてある自分の鞄のところに行き、中から丸めた制服のセーターを取り出した。一旦広げて汚れがないか確認すると、また元の位置に戻り、それを寝ている清水を覆うように被せる。毛布なんていいものは持ってないけど、とりあえず何もないよりマシだろう。

「……ん……?」

 あ、起こしちゃったか。セーターを被せた途端、眠っていた清水がうっすら目を開き、寝ぼけ眼でこちらを見つめてきた。不覚にもまた可愛いと思ってしまい、顔が熱くなるのを感じた。

「おはよう、よく眠れた? さすがのお前も、だいぶ働いたし疲れてたみたいだな」

 もちろん、そんな内心の揺れを表に出して見せてやるほど俺は甘くない。口調はいつもと全く変えず、ただ気遣う男として振る舞う。

 対して、清水はまだ完全に頭が回り始めていないようだった。周りを一通り見回し、俺の顔を見て、それから被せられたセーターに気付く。

「これ、あんたの……?」

「ああ。なんか起こすのも悪い気がしたし、文化祭前日に風邪なんかひいたら面白くないだろ」

 俺の答えにふぅん、と返事をし、清水は少し黙りこむ。よく見ると自分を覆うセーターの端を軽く握り、なんとなく微笑んでいるようにも見えた。

 やがて清水は唐突に窓の方を指差した。俺がそちらの方を向くと、清水はゆったりと話し出す。

「さっきさ、ここに座って空を見上げたら、すごく綺麗な夕焼けが見えたんだ。中谷も見れたらよかったのにね」

「ああ、俺も廊下から見れたよ。それとさぁ、俺は中谷じゃなくてバカた……に?」

 ……あ。普段と違う呼び方に思わず条件反射で反応してしまい、俺たちは顔を見合わせた。やがてどちらからともなくクスリと笑い、俺は笑いながら複雑な気分になった。

「じゃあバカ谷でいいや……ねえ、こっち座らない?」

 俺が不満を述べる前に、清水は自分の隣を指し示した。俺は言い返すのをやめ、せっかくなので従ってやることにする。腰を降ろして窓から空を見上げると、空のキャンパスいっぱいに紅色と夜の紫が混じり合い、全く異なる色ながらお互いを引き立て合っていた。

 

 すっかり暗くなった教室から、遠い夕闇を窓越しに。

 空の紅色が消えるまで、二人並んでずっと見ていた。

 

 

Over the Ground…fin.

 

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