審判の銀貨

池田 風太郎  

 

 灰色の空(グレーキャンバス)はどこまでも。

 空いっぱいに撒き散らされる、鮮やかさが失われた空を見上げる格好で、一人の女性が転がっていた。上下ともジャージ姿で、自由な方向に撥ねた短髪。意味もなくほぅと息を吐くその姿には、気力というものがまるで感じられなかった。

「あー……」

 見上げた先は、まだ昼過ぎだというのに、今にも雨を滴れそうな暗い空。ねずみに例えられた色が、そのまま垂れて落ちてきそうだ。このような空を見上げ、気持ちが盛り上がる人間はそう多くないだろう。

 だが彼女は、この空が嫌いではなかった。むしろ、そう多くない人間の側にある。白にも黒にもなりきれない中間の色は、何をも決め(あぐ)ねた私にどこか似ているようで、親近感のようなものを抱いてしまうのだ。

 湿気を含む空気を胸いっぱいに吸い込む。そしてそれを一気に、声を乗せて吐き出した。

……暇だ!!

 往来に人の姿は見当たらなかったが、突然の大声に驚く者はいたらしい。近くの木から、名も知らぬ小鳥の群れが一斉に飛び立っていった。

 

 

 

 遠くでチャイムの音が鳴る。いつの間にか眠りかけていた女性は、目を擦りながら身を起こそうとした。

――直後、天と地がひっくり返り、後頭部に鈍い痛みが走る。夜でもないのに星が飛ぶ。突然の状況を理解できず、女性は半ばパニック状態になりかける。

「……大丈夫? 何やってんだか……」

 逆さになったまま混乱していると、上方――今は足のある側だ――から、聞き慣れた声が聞こえた。女性はようやく正気を取り戻し、ずるずると地面に全身を下ろすと、胡座(あぐら)の姿勢に移った。

 ようやく自分がどうなったのかを理解した。ベンチ一つを丸々占領して横になっており、起きた時に体重移動を失敗してこうなったのだ。そして、そもそもこんな場所で転がっていたのは……

「やっと来た、ナトくん! 待ちくたびれた!」

「その待った時間の一部は、日乃(ひの)電話出ないから必要になったんだろ。結構探したんだぞ

「なにおーう!?

 女性――杉戸(すぎと)日乃(ひの)は、声を掛けてきた男性――真木(さなぎ)成時(なと)に掴みかかろうとして、ふらついた。頭を打った後遺症だろうか。慌てて手を掴む真木のおかげで、どうにか転ばずには済んだ。

「危ねーなぁ。まだ寝てんの?」

「う、うるさいなぁ! ……でも、ありがと」

 咄嗟に掴んだその手を、しっかりと握り直す。真木の頬に、スポイトで垂らしたような薄い朱色が滲んだことに気付き、杉戸はいささか機嫌を良くする。

「さ、帰ろ帰ろ。帰りにパフェ奢ってくれるんだよね!」

「そんな話は知らん。帰ろうって話に寄り道の要求を混ぜるってのは一体どういうことだ」

 そうして交わされる他愛のない言葉、その連続から成される会話。特筆することもなく普通の日常を繰り広げながら、二人の影は帰路を辿った。

 

*****

 

 杉戸日乃は、美術系の大学に通う三年生だ。専攻は絵画。

 美大生といっても、彼女には特段将来の目標・目的があるわけではない。『勉強するのが面倒だし、絵なら苦手でもないし』という、明確な意志のもとに学ぶ美大生が聞いたら激怒しそうな理由で選んだのだ(そして運が良いのか悪いのか、受かってしまった)。このコースを専攻しているのも、絵が得意であることより、『美術って言ったら絵画でしょ!』という安易な考えの結果である事が大きい。

 美大に来る学生の多くは、将来の夢であったり単純な好みであったりと、何らかの思いを持って励む者が多い。だが彼女にはそれが一切ないのだ。加えて、彼女は普段からいつもジャージ姿であったり、地面に転がって昼寝していたりと、常にマイペースを崩さない。そのため、比較的個性的な人間の集まる美大(ここ)においても変わり者≠ニされ、距離を置かれていた。

 そんな環境にあって、唯一彼女を敬遠しない人物こそが真木成時であった。学部は違うが同期で、共通の授業で何度かペアを組むことがあり、やがて彼女の型破りな性格(と彼には映ったらしい)に惹かれていた。その後は紆余曲折という程の事もなく順調に交際を始め、現在に至る。要は、杉戸の彼氏に当たる人物だ。

 

 杉戸自身は、決して今の生活が嫌いではなかった。目的らしい目的がないとは言え、学生として無意味では有り得ない日々を過ごせているし、そっけないながらも彼氏(ナトくん)は優しい。何も求めない者に与えられるには過ぎた環境だ。不満を漏らすのは失礼だろう。

 だが一方で、大きな目的もなく代わり映えのしない日々に、刺激を求める気持ちがないわけではなかった。なかったが、だからといって具体的に何をしたいのか、何を求めているのか、彼女には分からない。故に、何も変わることなく日々は過ぎていく。その消化に甘んじるだけの自分に嫌気がさしていた。

 

*****

 

 無為な日々を嘆く彼女も、今は上機嫌だ。駅で真木と別れた帰り道、今は腹の中に収まっている特大パフェの満足感を思い出しながら独り歩いている。

(あーんしてくれたの嬉しかったなぁー……ぬへへへ……)

 傘を叩く雨音もリズムを刻むようで、妙に心地よい。

 デートとスイーツの記憶。この要素だけを取れば、彼女に欠落していると思われる、所謂『女子力』というものに繋がるかも知れない。だがその実は、思い出しながらニヤニヤする姿に、とても二人で食べるサイズではない文字通りの特大<pフェ、そして『女子力』とはおおよそ無縁な上下ジャージ姿である。要素と実際のコントラストは、見事に後者が前者を上塗りしていた。

(にしても、随分遅くなっちゃったなー……)

 パフェは無事平らげたものの、流石にあの大きさを食べ尽くすのにはそれなりの時間を要した。杉戸は人より食べる量に自信があったが、かといって早食いが得意なわけではない。

 結果として電車に乗る時間も遅くなり、気付けば夜もかなり遅い時間になっている。元々悪天候で暗かった空に星明りはなく、黒ベタの深淵が広がっていた。

 それどころか、今日は妙に視界が悪い。街灯は確かに灯っているのに、少し先になると全く道が見えない。数年も通い続けて慣れた道のはずが、今まで感じたことのない不気味さを放っていた。

(早く帰ろう……)

 目の前に小さな橋が見える。用水路の上にかかった歩行者専用の短い橋だ。ここを渡れば家は目前。杉戸は小走りで道を急いだ。

 

 

 

(変だ……)

 杉戸はすぐに異変に気がついた。普段なら数十秒もあれば通り抜けられるはずの橋が、未だ渡り終わらないのだ。時計を見たわけではないが、もう数分は歩き続けているように感じる。無論、どう考えてもそれだけの時間渡り続けられる長さの橋ではない。

 おかしいのはそれだけではない。橋の端――頓智や冗談ではなく真面目に、終点が見えないのだ。振り返ると始点も見えない。あってないような長さの橋なのに、その中央で杉戸は道を見失っていた。

(何……何、なんなの……?)

 先の幸せ気分は一転、恐怖へと変様していく。降り続く雨ではない、冷たいものが頬を伝った。

 早く帰りたい、帰らなきゃ。でも帰れない。パレットの中へ様々な色をぶち込むように、思考は恐怖によって乱雑にかき混ぜられていく。

 

「嬢ちゃん、ちょっといいか?」

 

「い……っやあああぁぁぁぁぁぁ――――っ!!?

 高まっていた感情は、不意に掛けられた声によって頂点に達した。夜の住宅街であることなどお構いなしに、杉戸は感情を絶叫に乗せて爆発させる。思考は完全に停止し、傘も鞄もその場に投げ捨てると、全速力で走り出した。

 

 

 

 しばらく走り続け、少し落ち着きを取り戻した杉戸は、両手を膝に着きながら、大きく肩で息をした。

「はっ、はっ、はっ……うっ、ゲホッ……」

 大学に入って以来、まともな運動をしていない杉戸にこれは辛い。だが激しい運動がかえって心を落ち着かせた。杉戸は濡れて垂れてきた前髪を無造作に払いのけると、周囲の様子を窺った。

 そして、絶望した。あれだけ走ったというのに、まだ自分は橋の上にいる。絶対に普通じゃない。杉戸は諦めざるを得なかった。

「落ち着いたか? 全く、急に逃げ出すとは随分と失礼な嬢ちゃんだな」

 再び声がする。先ほど杉戸を狂乱に陥れたその声だ。杉戸は再び驚いたが、今度は逃げる気力も起こらず、へたへたと濡れた橋へと尻を着いた。

 恐る恐る、声の方へと目を向ける。そこには老齢に近いと思わしき男性の姿があった。この暗さでもはっきりとわかる、(しわ)のくっきり浮かぶ顔に、白髪交じりのボサボサ髪。浮浪者然とした出で立ちだが、何か凄みのような、強い存在感を放つ男だった。

「よ、妖怪……? ぬらりひょん?」

「馬鹿、そんなんじゃねえ。それも何故ぬらりひょん限定なんだ」

「じゃあ子泣き爺?」

「じゃあ、ってどういうことだ。妖怪から離れな」

 失礼は承知で、本当に妖怪なのではとすら思った杉戸だったが、とりあえず黙ることにした。男はため息をつくと、やれやれとばかりに口を開く。

「単に道を聞きたかっただけなんだがな、この辺りはまだ不慣れなんだ。だが、その様子だと嬢ちゃんにもわかってない感じだな」

「道もなにも……」

 男の言葉が本当なら、この近所に住む杉戸にとって道案内など静物デッサンより簡単なことだ。普段なら。だがいまは普段≠ナはなく、案内したとてたどり着けるかは疑問だ。

「おじさんもこの橋に釘付けにされてる、わけじゃないの?」

「あー、なるほどな。大体の事情はわかった。お前さんもそういう人間≠チてわけだな」

 全く話が噛み合わないように見えるが、男は何か得心したようにそう呟き、どこからか取り出した折りたたみ式の丸椅子に腰掛けた。杉戸には訳が分からず、首を傾げる仕草を自然と誘発する。

 その動作を見て杉戸の困惑に気付いたのだろうか、男は思い出したかのように口を開く。

「なに、俺はしがない行商人だ。このご時世に流行らないビニールシート露天を開く、時代錯誤の酔狂者(すいきょうもん)よ。渡りの最中に立ち寄ったんだが、こんな天気の日はどうにも変な出会いが多くてな」

 猛禽のような鋭い目が、うっすらと笑みを形作る。だが杉戸にはその笑顔がどこか冷たい石膏人形の見え、背筋に寒さを感じた。

「で、嬢ちゃんはどうしたんだ? 釘付けがどうとか言ってたが」

「え? えーと……」

 語りたいのか、聞きたいのか。急な質問に杉戸は戸惑ったが、それでも、いま身に起こっていることを説明し始めた。その最中、傘も差していないのに男の体が全く濡れていないことに、杉戸は気付いた。

 一通り話し終えると、男は誰に向けたものか分からない頷きと共に、しわがれた声を発した。

「なるほどな。つまるところ、帰りたくても帰れない。そういうことか」

 杉戸は男に頷きを返す。男はそうかそうかと呟きながら、やはり杉戸ではない誰かに向けて(いるように見える)頷きを繰り返していた。

「まあ心配には及ばない。こういうもんは、時期が来れば自然と元に戻るもんなのさ。深く気にねぇことだ」

 どういうことだろう。杉戸には男が何を言っているのか全く理解できなかった。それに気にするなと言われても、この状況に突然遭遇して平然としていられるはずがない。最初といい、この男の言うことは全く納得が出来なかった。そしてその思いは態度にも出てしまっているのだろうか、どうも男には伝わっているようだった。

「納得いかないって顔だな。まあ無理もねぇか。心配だってなら、ここはひとつお守り≠ナもやろうか」

 男はおもむろにポケットへ手を突っ込むと、何か光るものを取り出し、杉戸へと投げた。慌ててそれを掴んだ掌を開くと、そこにあったのは銀色に輝く小さなコインだった。表と思わしき面にはどこかで見たことのあるような雄獅子(ライオン)の意匠が彫り込まれていて、裏にはどこかの言葉で何かが書いてある。恐らく表記はアルファベットだが、英語ではなさそうだった。

「そいつを投げてみな――投げ返すんじゃなく、表裏の判定(コイントス)だ」

 指示に従い、訝しげながら杉戸は親指で銀貨を弾いた。

 重力に逆らってくるくると回る銀貨は、一定の高さまで上昇すると運動の向きを反転させる。やがて戻ってきた小さなそれを、杉戸は器の形にした両手で受け止めた。

 刻まれた雄獅子の凛々しい顔と、目が合った気がした。

「オモテ、だな。ほれ」

 男は口元だけでうすら笑いを浮かべながら、杉戸に横を向くよう促した。示された通りの方向――本来杉戸の家がある、向かうべき方向に目を遣ると、そこには何事もなかったかのように橋の終点が見えていた。さらにその先の景色も拓け、街灯の薄明かりに照らされた住宅が軒を連ねている。

「え? え? ど、どゆこと?!

「今お前さんにやったのは『審判の銀貨』ってアイテムだ。今回のコレについては、本来の効果(つかいかた)とは若干異なるが……まあ不安を取り除いた、と考えれば違うってこともねぇか」

 露天商の男は満足そうに、この銀貨についての説明を始める。

「嬢ちゃん、『トレビの泉』って知ってるか?」

 そしてその内容は、にわかにはとても信じがたいものだった。

 

 

 

 『審判の銀貨』。

 露天商の男がイタリア旅行に行ったとき、硬貨を投げ込めば願いが叶うとされるトレビの泉を見て発案・製作した商品らしい。

 元となった場所と同じく、この銀貨には願いを叶える′果がある。用法はとても簡単で、先ほどのようにこの銀貨をコイントスし、表面を出せばいい。たったそれだけのことで、使用者に幸運が舞い込むという。

 信じがたい効果だったが、延々と続く橋に終点をもたらしたのも家に帰りたい≠ニいう杉戸の願いを叶えた結果であるらしい。すぐさま納得できたわけではないが、どれだけ走っても終わりの見えなかった橋がこの通り元に戻ったわけだ。信じないわけにもいかなかった。

 だが当然、コインという物の性質上、避けて通れない疑問が存在する。

「ねえ、表が出たらいいんだけど……裏が出たら、どうなるの?」

「いい質問だな。答えは実に単純明快、逆に不幸になるんだ。といっても、望んだ願いが絶対に叶わなくなる、なんてことはねぇがな。どんな形で不幸が訪れるか、それは俺にもわからない。運転してる車が前に歩行者を感知するたびにクラクションを勝手に鳴らすとか、愉快な不幸かも知れねぇしな、くっくっく」

「それ、絶対に人間関係で二次的な不幸起こるよ」

 実際、願いを叶えるという凄まじい効果を持ちながらこの商品が売れなかったのは、この性質が理由であるところが大きいらしい。確かに魅力的な効果ではあるが、デメリットを考えれば安易に使えるものでもない。

 だが、デメリットの存在はこの手の商品に必要、というのがこの男の言い分だった。目に見えるリスクがなければ、商品への依存が思わぬ不幸を呼び起こすこともあるらしい。現に最近、用法を誤った使用者が親友をも巻き込んで破滅へと突き進んだ事例もあるらしい。

「まあ、リスクのない賭けなんて面白くもねぇしな。ほら、最近やってたアニメでも『何かを変えられるのは何かを捨てることの出来る者だけ』だとか何とか言ってたぜ」

 この男、アニメとか見るんだ。杉戸はとても意外に思ったが、口には出さないでおいた。

 とにかく、この商品で幸せを得るためにはリスクを知る他にも、幾つか守らなければならないことがある。その一つが、力加減で回転数を調節するなどして故意に特定の面を出さないこと。ズルしてはいけないらしい。
 また、必ず裏表をはっきり確認すること。受け止め損ねた時やどこかに転がっていった時も、投げた際は必ず結果を確認しなければならないらしい。使用者の結果確認が願いと繋がっているらしく、起こりうる幸も不幸も不安定になる、ということだった。

「まぁ前にプレイしたゲームでは『投げたコインが落ちてこないこともあるだろ』なんて言うキャラも居たが、そりゃよっぽど特殊な場合だろう。お前さん自身の運気を賭けるんだ、そんなことにならないよう、意識して使いな」

 この男、ゲームもやるんだ。杉戸は思ったが、やはり口には出さなかった。

 他には、この銀貨の効果を他の人間に教えないこと、というものがあった。銀貨に込められた力が散ってしまうらしい。そんなものを作ったというのが本当なら、やはりこの男が人間であるか非常に怪しく感じられるが、もはやそんな事は些細な問題になってしまっていた。

 この銀貨の使用は一日一回のみ、という制限も加えられた。これも同様に、銀貨に力が足りなくなってしまうかららしい。多用するとガス欠を起こすというのは、何となく納得できた。

「まあ賭けとは言ったが、正しく使えばそうそう不幸になることはない。迷った時や困った時に使ってみな、きっと道を拓いてくれるだろう。今みたいにな」

 そんな言葉で説明を締めると、男は橋の終点方向を指差した。行けという事だろう。杉戸がそちらを見ると、先ほどよりもさらにはっきりと道が見えている。よく見ると、橋と道路の接続部辺りに、投げ捨てたはずの鞄が転がっているのが見えた。

「さて、それも一応商品だからお代を貰うぞ……ん、この傘なんかいいな。こいつを貰おう」

 杉戸が振り返ると、すぐそこに座っていたはずの露天商はもうどこにもいなくなっていた。投げ捨てたもう片方、傘の姿も見えない。

「…………」

 気付けば、雨はすっかり上がっている。そして杉戸は気付く、先ほどの男だけでなく自身にも濡れた場所はどこもないことに。地面に座り込んだ時に出来た、ジャージの尻の染みを除いて。

 夢のようにも思える出来事。握りしめている硬い感触だけが、今の出来事を現実だと証明していた。

 

*****

 

「…………」

 ようやく家に着いた杉戸だったが、玄関扉の前でその足を止めたまま動けなかった。時計を見ると、既に日付が変わっている。両親に怒られることは避けられないだろう。そう思うと気が重く、とても中に入れないのであった。

(どうしよう……)

 上手い言い訳も思いつかない。流石に大学だけでここまで遅くなることはないし、まさか彼氏と一緒に居たからなどと言うわけにもいかない。新たな火種が生まれてしまうだろう。だが、あった事をそのまま話した所で信じては貰えるはずがない。

(これは……早速、出番来ちゃったかなぁ)

 杉戸はポケットに入れた硬いものを握りしめた。一日一回の制限が更新されるのは午前零時、日付が変わるタイミングらしいので、使用しても問題はないはずだ。もし仮にこの銀貨が本物≠ナ、願いを叶えてくれるのならば、怒られずに済むかもしれない。この場合に考えられる不幸(リスク)といっても、せいぜいより激しく怒られる程度のものだろう。試してみる価値は十分にあった。

 取り出した銀貨を目の前にかざしてみる。それは門灯の光を照り返し、雄獅子の眼を煌めかせていた。

「お願い……表。表!」

 き――……ん。

 爪弾きが甲高い金属音を生み出し、煌く銀貨は回転しながら宙を舞う。それが上昇し落下するまでの時間は、一瞬にも永遠にも感じられた。

 長く短い時間の果て、杉戸は右手の平と左手の甲で、回るコインを受け止める。そのままゆっくりと右手を動かしていくと。

「……あ……!」

 銀色の雄獅子が、凛々しい双眸で杉戸を見ていた。

 

 

 

 出来るだけ音を立てないように鍵を明け、玄関扉をゆっくり開ける。確かに銀貨は幸運を呼ぶ表面(ライオン)を出したが、まだその効果を信用しきったわけではない。用心に越したことはなかった。

「ただい――――ッ!?

 恐る恐る口にしかけた言葉は、目に入った光景の衝撃で中断され、末尾を拝むことがなかった。ピカソの絵よりも衝撃的だったそれは、扉を開けた先、玄関で仁王立ちして存在する父親の姿だった。

「……日乃。こんな時間まで連絡も寄越さないで、どこに居た?」

 先ほど遭遇した橋での無限空間とは異なる恐怖が、杉戸の全身、そして心をも支配する。

(ううう、嘘つき! オッサンの嘘つき!!

 かかかかかか。

 体が震え、歯が音を立てる。予想を越えた父の登場、銀貨への期待が打ち砕かれたこと、言い訳の無策、露天商への憤り。騙された自分への後悔。様々な感情が入り混じり、杉戸の心中は混沌を極めた。

 何歳になっても、怒れる父ほど怖いものはない。少なくとも杉戸はそう思っていた。

「…………」

「…………」

 しばらくお互い無言のままに見つめ合う。次はどんな言葉が飛んでくるのか。固まったままの杉戸は気が気でない。

「……まあいい」

 だが、やがて発された父の言葉は、杉戸の予想と反して穏やかなものだった。おもわず「へ?」という間抜けな声が漏れる。

 頓狂な様子の娘に、父親は呆れを隠さない表情で続けて言った。

「お前ももう成人だ、とやかくは言わん。だが、遅くなるなら連絡はしなさい。母さんも心配してたんだぞ」

 それだけ言うと踵を返し、廊下の向こうへと消えていった。杉戸はしばらくその様子を呆然と見送る事しかできなかった。

 杉戸の知る父は、規律や決め事にとても厳しい人間だ。無断でこれほど遅くなれば、尋常ならざる怒りが襲う。そう思っていただけに、このあっさりとした幕切れはなんとも予想外だった。

「……効果、あり。かな……」

 ともなれば、考えられることはただ一つ。『審判の銀貨』による影響だろう。少しの間とは言え疑ってしまったことを後悔しつつ、ポケットの中の銀貨を優しく握りしめた。

 

*****

 

 それからは、度々『審判の銀貨』の不思議な力に頼ることになった。油絵の学校課題を出すとき、雑誌の懸賞に応募するとき、当たり付き自動販売機で商品を購入するとき。些細な事から彼女にとって重大なことまで、事あるごとに銀貨を弾いた。

 そして、銀貨はついぞ雄獅子の勇壮な顔以外の面を見せることがなかった。狙ったわけでもないのに杉戸の期待に応え続け、良い結果を与え続けた。成績はどの科目でも伸び続け、狙った懸賞商品は高確率で当選する(さすがに高価なものでは落選することもあった)。実力ではないかもと心中思いつつ、成功の味はやはり心地よい。ここまで幸運が続くと、銀貨の力を信じないわけにはいかなかった。

 もちろん、事あるごとにとはいっても、あの露天商の男に示された条件は守っている。似たような道具を乱用して破滅した人間がいたと聞いては、禁を破ってまで叶えたい願いも杉戸にはない。

 成功は自信を与える。周囲と同調せず我が道を進んでいた杉戸にも余裕が生まれ、人付き合いや女性らしさの追求といった、これまで縁のなかったことにも手を伸ばし始めていた。

 

*****

 

 数週間経ったある日。今日も近くの公園で真木を待った後、連れ立って帰路に就いている。基本的に毎日の講義数は杉戸よりも真木の方が多い。これは杉戸が卒業に必要な単位だけを取っているのに対し、真木は資格のための単位や興味から講義を入れているためだ。この辺りは本来の志の差から来るものである。早く手が空くからといって、特に杉戸にはやることがない。そのため、雨が降っているとき以外は公園で日光浴をするのが日課のようなものなのだ。先日のように、居眠りをしていることも少なくない。

「ナトくん、日曜日って予定空いてる? どっか遊びに行こうよ」

「あー、ごめん。日曜日はバイトなんだわ」

「そっかー」

 杉戸に比べると大分に多忙な真木だが、その間を縫って建築関係のバイトにも勤しんでいる。少し前に両親の会社が倒産したり祖父母や社会人の姉が亡くなったりしたらしく、学費の為に働かざるを得ないらしい。暗い背景ではあるが、建築学科である真木にとっては現場も勉強になるため、前向きに取り組んでいる。

 怠惰な毎日を貪る杉戸と違い、苦労は多いだろう。それでも苦しみを表に見せず何気ない振る舞いを見せる健気な姿が、杉戸は好きだった。

「一週間が十日くらいあれば、もっと遊ぶ時間もあるんだろうけどなー」

「たぶん、そうなったら平日が三日増える事になるんじゃないか」

「え!? 意味ないじゃん!」

「世の中そんなに甘くないってこと」

 まさに彼の言う通り。世界は何でもそう簡単になるように回っていない。『審判の銀貨』という反則技で人生の難易度を大幅に下げている杉戸のような人間の方が稀有なのだ。もっとも、『審判の銀貨』の力を以てしても一週間を十日にすることは恐らく出来ないだろうが。

「……ま、世の中はそう変わらないけど、一個人は変わるよな。珍しいじゃん、スカート穿いてるなんて」

「あ、気付いてくれてた? やりーい!」

 少しずつ『女子力』を伸ばしていく(と感じている)杉戸を、真木は普通に受け入れた。女らしくない面に惚れたのだと思っていた杉戸にとって、これは嬉しい事実であった。

 銀貨のことは真木にも話していない。正直、大した苦労もない自分より真木が使う方がよっぽど役に立つだろうと杉戸は思っていた。だが銀貨のことを真木に話したところで、あの露天商が言っていたように効力を失ってしまえば意味がない。

 世界はとても不条理だ。

「よし、次はスク水で登学してみようぜ?」

「さすがに無理、それ女子力じゃなくてただの変態だから。ってかナトくん、スク水好きだったのか……」

 他愛のない会話が続いていく。それは銀貨があってもなくても何ら変わらない、日常の幸福だった。

 

*****

 

 日曜日。真木はバイトに行っているので、杉戸は一日フリーだ。特にすることもないので、最近興味の出始めた服選びのため、街へと繰り出していた。

「へっへっへ、可愛いの選んでナト君を驚かせるぞぉ」

 怪しい独り言を口走りながら、杉戸は色とりどりの服の森を縫って歩く。途中、数人の客が怪訝な顔でその様子を見ていたことに、杉戸は気づく由もない。

 動機はともかく、つい先日まで上下ジャージ姿がデフォルトであった無頓着な娘が、自ら楽しんで服を選んでいるというのは、これまでの彼女を知る者からは考えられない変化だろう。

 新たな一面の発見は、自身にとっても楽しい。それを感じることができるのも、ずっと裏向きだったコインが表に返ったような変化と捉えられた。

(まあ、焦らなくてもいいか)

 今度は口に出さず心中のみで呟き、手にしていたブラウスを元の場所に戻した。迷彩柄と花柄を組み合わせたような特徴的な柄であったが、似合わないとの判断だった。

 そう、焦らずとも今日どこかで良い服に巡り合える事は、出掛ける前にほぼ確定している。具体的な希望がない日は、こうして一日を通した願いを掛けるのだ。むしろ、これから起こりうる幸運がどのタイミングで訪れるのか、今やそれを待つ事すらも杉戸の楽しみとなっている。

 これ程までに希望を持って日々を過ごしたことがあっただろうか。充足感を胸に、杉戸は店々を巡る。当てはなく、ただ好奇心の赴くままに。

 

 

 

 日が落ち始めた。なかなか理想の服に巡り会えず、杉戸は街歩きを続ける。現在は駅前通りをぶらぶらと回遊中だ。途中で本屋に寄ったりクレープを買ったりと、徐々に目的が服選びから脱線し始めている。どこかのタイミングで服は見つかるので、どこに寄り道をしようと問題ないと言ってしまえばそれまでだが。

(今日はあちこち行ったなー。これがデートだったらなぁー)

 今日は隣にいない青年の姿と、もしもの光景を思い浮かべ、杉戸の表情はまたも緩む。再び、などというものではない。今日一日だけで両手でも数えられないほど繰り返された光景だ。もちろん自覚はない。ところが杉戸のにやけ顔≠ヘモナ=リザの微笑の如く、笑みと無表情の中間のような表情を形作るので、周囲の好奇を集めるには十分だった。見られている事すら杉戸は気づいていないのだが。

 

 ぎゅ。

 

「……?」

 人ごみの中で、ふと右手に慣れない感触があった。僅かに温もりを感じる。妄想を切り上げた杉戸は何気なく右手を上げようとするが、正体不明の抗力がそれを許さない。

 手が動かないので目を向ける。すると、そこには杉戸の右手を両の掌で握りしめる、年の頃まだ幼稚園に通っている程と思わしき子どもの姿があった。

「……誰?」

 円らな双眸から視線を一心に注ぎ続ける子どもの姿に、杉戸は戸惑いを隠せない。知り合いではないはずだ。近所にも親戚にも、このくらいの年齢の子どもはいない。

「……う……」

 どうすべきか決めかねていると、困惑する杉戸の掌を握るままに、子どもの表情が徐々に崩れ始めた。

「う、わあああああああ!」

「え、ちょ、何? ちょっとちょっと!」

 そして群衆の中、突然の大泣きを始めた。普段人目を気にしない杉戸も、さすがに堪らない。離してくれない子どもを半ば引っ張るようにして、杉戸は人の少ない方へと走り出した。

 

 

 

 暫くして、杉戸はようやく落ち着いた子どもから事情を聞いた。この辺りになると杉戸自身も冷静さを取り戻しており、大方の予想を付けて聞いていたが、子どもがたどたどしく説明するその事情はまさに予想の通りだった。

 要は、迷子である。母親と買い物に来ていたが、どうやらいつの間にかはぐれてしまったらしい。後姿を見て母親を捕まえたと思いきや、それは雰囲気が似ていたらしい杉戸であった――ということらしい。突然泣き出したのも、人違いの驚きと狼狽によるものだったようだ。

「んー……どうしたもんかなあ……」

 幸い時間はある。一緒に探してやってもいいのだが、どこで母親とはぐれたのかが定かではない。母親も探して歩き回っていると考えれば、巡り合う可能性と同じくらいすれ違う可能性もある。群衆から離れるように走ってきてしまったので、駅前を出たのではと考えたと仮定すると、むしろ巡り合う可能性の方が低く感じられた。

(えーと……私のせいでもあるのかなぁ……)

 ここまで移動させたのは杉戸だ。両者が落ち着いて、という意図もあるにはあったが、多くはパニックが理由だ。誤った判断が巡り合う確率を下げてしまったのならば、責任を感じずにはいられなかった。

(……私に出来ることといえば)

 ポケットへと入れた手が、固く冷たいものに触れた。

 確率の話になるのであれば、方法はある。今の杉戸にとっては最も確実で信頼の置ける方法だ。

 ただ、今日は既に『審判の銀貨』を使用してしまっている。一日に複数回使用することが禁じられている事を、杉戸は忘れていなかった。本来の力が発揮されなければ、無事この子を母親の元に返せる保証はない。

「…………」

 悩みに悩み、困り果てた杉戸は幼い子どもへと目を向ける。不安を隠せない表情は、何かしら起こされるであろう杉戸の行動を待っている。この子の気持ちがわかる訳ではないが、それを察するのは難しくなかった。

 そう思うと同時に、杉戸の胸に決意が生まれる。

(今までもずっと、私を助けてくれたんだ。それに、今回は私利私欲じゃなく人助けの為。お願い、力を貸して……!)

 ポケットに入れた手を握り、杉戸は『審判の銀貨』を取り出した。現れた雄獅子の顔は、これまでも幾度となくそうしてきたように、杉戸に勇気を与える。

「キミ、ちょっとだけ目を瞑ってて」

「? ……うん」

 もう一つの禁止事項、この銀貨の存在を知られてはならない。見たところで理解できるとは思わないが、それでも問題点は減らしたかった。ただでさえ、禁を破るのだから。

「約束を破る私を許してください。お願い、この子をお母さんの所へ。お願い――お願い……っ!」

 大きく深呼吸すると、意を決し、銀貨を親指に掛けた。

 不安に染まったこの子の笑顔を思い浮かべて。

 いつにないほど強く、はっきりと願いを込めて。

 弾かれた銀貨は澄んだ音と共に、ゆっくりと回る。上昇を極めたそれはやがて落下し、杉戸の手の中へと吸い込まれる。

「…………!」

 恐る恐る開く、その手の中で輝く銀色の光。

 

 そこに、期待した顔は。

 すっかり見慣れた勇壮な顔は、なかった。

 

*****

 

 杉戸は幼い子どもを駅の交番まで送り届けると、説明も程々に交番を飛び出した。もう一秒でも一緒に居ると、二度と母親に会えない――そんな気がしたのだ。

 空模様が不安定になり始めている。どこまでも広がる鈍色の空。ハケで乱暴に塗りつけたようにぼやけた色は、安定しない杉戸の心を大いにかき乱した。

(甘かった。私が、甘かった……!)

 これまでの審判(コイントス)でただの一度も見たことのない、『審判の銀貨』の裏面。それは楽観的な予測で勝手に禁を破った、杉戸への罰。そう思えてならなかった。

 以前、真木と話したことを思い出す。世界は甘くない。勝手な理想や思い込みは、現実と大きく差異を生むのだ。無限に成功を生み出す幸福装置のように思い始めていた『審判の銀貨』も、結局はその世界≠フ一部。杉戸が得ていた成功は、不条理でシンプルなその一面でしかなかったのだ。

(ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……!)

 裏が出た。それは単に願いを叶えられないだけではない。

 露天商の男は言っていた。不幸が訪れると。それも、どんな形で訪れるかわからないと。

 男は『愉快な不幸かもしれない』などとおどけていたが、『審判の銀貨』の力を考えれば、そんなはずはないだろう。杉戸に訪れるのか、それとも迷子だったあの子に訪れるのか。近い未来に約束された災厄は、吐き気を催すほどの恐怖を与えるに難くなかった。

 

*****

 

 ばたん!

 災厄の侵入を妨げようとばかりに、玄関扉を強く閉める。結局駅前から家までを全力で走り続け、玄関口でようやく息をついた。

「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」

 道中の記憶はほとんどないが、これまで不幸らしい不幸はなかったように思える。時間差はどれほどのものだろうか。何が起こるかわからない、それも起こるのが悪いことだと確定しているというのは、幸運を待つ期待感以上に強く恐怖を抱かせた。

 そのまま息が整うまで立ち尽くす。不安は消えないが、疲労が消えて体が楽になれば、心も穏やかになれるような気がした。

「……日乃!! 携帯も持たずにあんた一体どこほっつき回ってたの!!

 だが息が整いきる前に、突如響く大声が杉戸の心臓を横殴りにした。帰宅に気付き、母親がリビングから飛び出してきたのだ。

 確かに今日、携帯は持ち忘れた。だが真木がバイトで出ないだろうと考えられる今、杉戸に携帯を持ち忘れて困ることはほとんどない。基本的に連絡を取る相手がいないし、そもそも忘れたのは今日が初めてのことではない。そんな彼女を一番よく知る母親に責められるというのが、杉戸には納得できなかった。

 大声のショックもあり、某叫ぶ絵画のような表情で呆けていると、母親は杉戸に駆け寄って両肩を鷲掴みにした。

「あんたが連絡しても出ないからって、うちに、連絡が来たわ! 真木くんが……事故に遭ったって!!

「え……真木くんが、なん……だって……?」

 聞き返すまでもなく、理解はしていた。したくなかっただけだ。それを知ってか知らずか、母親は震える大声で説明を続ける。

「現場でのバイト中、事故で資材が降ってきたんだって。同僚を庇って、その人は無事だったらしいんだけど、真木くんが! ……意識不明の重体だって」

 真木との交際はお互いの両親公認であり、母親も真木とは面識がある。信じられないという思いと、不安で一杯だろう。

 杉戸も、母親と思いは同じだ。だが杉戸にはそれ以外に、激しく波打つ感覚があった。

(私のせいだ……!)

 真木を襲った事故が起こる、このタイミング。聞けば、ちょうど杉戸が迷子の子どもと一緒にいた頃だ。だとすれば、原因として考えられるのはただ一つ。『審判の銀貨』だ。

 ちらりと母親が飛び出してきたリビングの方に目を走らせると、大きな紙袋があるのが見えた。女性ものの服を扱う店の名がプリントしてある。杉戸はその存在から、改めて銀貨の力を実感し、身震いをした。

 杉戸は裏面を出した状況から、自身やあの子どもに危害が及ぶと考えていた。だがそれも思い込み。不幸は的確に、杉戸が最も大事にしている他人を襲った。これまで得た数々の成功から考えれば、たった一回で受けるには相応なしっぺ返しだ。

 杉戸は震える拳を固めた。握られた銀貨が食い込み、鈍い痛みが染みて広がる。

「……日乃、日乃! 何ぼーっとしてんの、早く行ってあげなさい!」

 母親が、掴んだ肩を大きく揺すった。わかっている。杉戸自身も、今すぐに駆け出していきたいと思っている。

 だが、どんな顔をして真木に会えばいいのか。本人は知り得ないとはいえ、杉戸は大事故の元凶そのものなのである。罪悪感が杉戸の足を縛り、ポージングされたデッサン人形のように全身を固めていた。

 

「……早く! あんた、このまま真木くんと二度と会えなくなってもいいの!?

「……!」

 

 母親の声は今や悲鳴交じりの絶叫になっていた。その様子が、言葉が、ようやく杉戸の拘束を破壊する。

 そうだ。大切な人との思い出を、こんな形で終わらせるわけにはいかない。傍にいたい。蘇った思いがポケットに入れた手を飛び出させ、固まった足に反転の力を与えた。玄関扉に体当たりをせんとばかりに押し開けると、杉戸は全速力で走り出す。

(ナトくん、ごめん! 努力もせずに道具の力ばかりに頼ろうとした私が間違ってた。逆境を努力で跳ね除けようとする、ナトくんの姿を見てたのに……!)

 駅前から逃げ帰った際の疲労を感じるが、腕を、足を、意識して動かし続ける。強い目的が、疲れ切った体を限界を越えて動かしていく。これだけ明確に目的を持って行動を起こしたことが杉戸には全くない。銀貨を転する前も、後も。

(もう作り物の幸せなんて要らない。私、変わる。道具に頼らず、自力で。だからお願い、もっと小さな幸せを……私のナトくんを、奪わないで……!!

 思いを込めて踏み出す足が、地面を蹴って推力を生む。その過程で起きた身体の上下に伴い、ポケットから小さな銀色の光が零れ落ちる。

 

 き――――……ん。

 

 アスファルトとの衝突が、長く甲高い金属音を生み出す。

 杉戸は振り向かない。大切な者の為、前だけを向き走り続ける。

地に堕ちた雄獅子の眼光は、子の独り立ちを見送るように、持ち主の後ろ姿をただ静かに見送っていた。

 

*****

 

「こいつの出番も終わり、か」

 薄い銀色を見下ろしながら、一人の男が呟く。すっと摘みあげて空にかざすと、それは弱り切った日差しを僅かに受け、硬貨は鈍く光を返す。

「しかし、あの嬢ちゃんも不運だな。こんなに便利な物を落としちまうとは

 男は口元だけでにやりと笑みを作ると、役目を終えた商品を自身のポケットの中に戻した。手を入れると感じる、ひんやりとした感触が懐かしい。

「こいつは商品としてはダメだな、どうも良心的なバランスにし過ぎた。これじゃあ平等な賭けにはなんねぇな、くくく」

 今度は銀貨をかざすことなく、ただ虚空を見上げる。明るさを失った空は、巌の露肌を思わせる。どこまでも静かな空の色。男はこの落ち着いた色が好きだった。

「……ま、幸せになんな。お前さんが思うカタチの、な」

 湿気を含んだ風が、一瞬強く吹き抜ける。その一迅が過ぎ去ったとき、そこにはもう誰の姿も、痕跡も、存在しなかった。

 

 

審判の銀貨…fin

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