天魔が嗤う(前篇)

池田 風太郎 

 

-Days.1-

 突き抜けるような青い空、輝く白亜の城壁、視界を多彩に染め上げる花吹雪。この世の春を体現したような空間が、一面に広がる。祝福の鐘が遠くに鳴り響く。

光莉(ひかり)!」

 白鳩が飛び交う中、私は自らの名を示す言葉を耳にし、纏ったフリルを揺らしながら振り返った。視線の先にあるものは、白い馬に跨り王冠を帯びた、背の高い男性だった。

 その声を認めるなり、私の表情は嬉々たるものに輝く。無意識が作り出すそれを一瞬遅れて認識した私は、恥ずかしさを感じながらも、そうさせた彼のもとへと駆け寄る。

 隣に立った私に"白馬の王子"は笑顔を向け、色白な掌を広げると、そっと私の頭へ伸ばした。

 

 ごっ。

 

 流れから考えて全くありえない効果音と、予想以上の質量からなる衝撃が頭頂に襲い掛かった。何故、を理解する余裕はない。理解できない状況のまま光莉が倒れると同時に、光莉の見る世界がぐにゃりと歪んで溶けた。

 

 

 

 気が付くと、そこは青い空も白亜の城壁も花吹雪もない、ごく平凡な教室だった。真夏の日差しが窓越しに内部を焼き、高い湿気が気怠い、お世辞にも居心地が良いとは言い難い空間だ。

 そして目の前にいるのももちろん、鳩でも馬でも王子でもない。生徒たちには干し椎茸に例えられる容姿を持つ、無愛想な老英語教師である。そして私は、机に広げた教科書に突っ伏す形で停止していた。

 ずきん。頭には鈍い痛みが残る。まだあまり回らない思考をフルに使い、その原因を探すべく、顔を上げ辺りを見回す。僅かな間視線を迷わせ、やがて行き着いた先には、目の前に立つ英語教師が手にした分厚い英和辞書があった。

「ようやく起きたか。何回叩いたと思ってるんだまったく……」

 しなびた英語教師は、ようやく真実にたどり着きキョトンとした顔をしている私を蔑むように見下し、悪態を突くと、何事もなかったかのように本来在るべき場所・教壇へと戻っていった。

 

 

 

「あっの暴力教師ぃぃぃ……教育委員会に訴えてやるぅぅ……」

 授業が終わり、昼休み。他の生徒もそうしているように、私は仲の良い友達と机を合わせ、昼食をとりながら愚痴をこぼしていた。クラス替えから約一月(ひとつき)が過ぎ、ようやく慣れてきた光景だ。

「いやいや、ここ私学だからあんまり教育委員会は権限が……まぁ、確かにあれは良くないと思うけど。でも私に言わせれば、あの重い辞書でバコバコ叩かれて、それでも熟睡してるひかりんの方がよっぽど不思議だったけどねぇ」

 呆れたといわんばかりに言うのは、一昨年も同じクラスだった親友の一人、天然な一面もあるがしっかり者の落合(おちあい)由姫(ゆき)通称ユキ。所謂?タコさんウインナー?を頬張りつつ、先ほどの英語教師がしていたであろう身振りをして見せている。

「酷いよユキ! 気付いてたならバコバコ叩かれ出した時に先生止めてくれれば良かったのに!」

「だって、ねぇ……あんだけ叩かれてるのに幸せそうな顔して寝てるからさ。私たちも起こしにくくて」

 私の文句に、ユキに代わって答えたのは、今年初めて同じクラスになった清水(しみず)悠里(ゆうり)。通称ユウ。私たち四人の中で、唯一の彼氏持ち(リア充)だ。彼女は苦笑しながら、小さな卵焼きを口に放り込んでいる。

「でもさぁ。脚は横に放り出し、その上ヨダレたらして爆睡してるなんて、光莉も随分と女捨ててるねえ」

「あんたにだけは言われたくないよ、チエ!」

 言われると予想以上に酷かったらしい痴態を指摘され、私は赤面し反論した。クククと笑う彼女は、ユキと同じく一昨年のクラスメイト・咲山(さきやま)千枝里(ちえり)。通称チエ。彼女は机の上に足を組んで座り、短髪と巨乳を揺らしながら、購買部で買った大きなクリームパンを豪快に食いちぎっている。とても人に対して偉そうに女を捨てているなどと言える態度ではない。

「それにしても。あんな幸せそうに、いったいどんな夢見てたの?」

「うー……言わなきゃ、ダメ……?」

 夢は、見ている最中は楽しいが、いざ覚めてしまえば内容など人に言えたものではない。今回もまさにその例に漏れないのだが、好奇からズイと詰め寄る三人の迫力は、まったく逃げ場を用意していなかった。

 はぁ。私は観念し、渋々ながら夢の内容を大まかに話し出した。いい年して、白馬の王子様を文字通り夢見るなど、笑われて然りだろう。さらに、自慢ではないがガサツさと女子力の低さに定評のある私だ。結果の分かっている告白を自ら実行せねばならない、極限の羞恥プレイ。こういうのいじめって言うんじゃないかな。

「白馬の王子様ぁ? ……っくく、はっははははは! 何だよソレ、そりゃあ幸せ顔になるわけだ! っはははは!」

「恋愛に夢見すぎだってー、夢だけに……あれ、ウケない?」

「ははーん、なるほどねぇ……」

 予想を(悪い意味で)裏切らない反応を見せるチエ、良く分からない反応を示しているユウ、何かを悟ったかのようなユキ。三者三様の反応を見て、私の顔は火を吹いた。特に最後の、ユキの一言が一番恥ずかしい。彼女には誰が王子様か(・・・・・・)伝わってしまった(・・・・・・・・)のだろう、恐らく。

「だから言いたくなかったのにー……」

「まぁまぁ、落ち込まないで。純情乙女なひかりんに神様からのプレゼントってことでしょー」

「光莉が乙女? 冗談きついよ由姫、このグループに『乙女』なんかお前しかいねーって!」

「どういう意味よっ!」

 やはりユキには伝わったらしい。だが、その含みに気付かず、物凄く失礼な事実(・・)を言い放つチエ。反論するユウ。少しお馬鹿なこのやりとりは、今や私にとって慣れた光景だ。

辱しめ(こんなの)が神様のプレゼントってなら、神様は悪魔だ」

 上体を反らせ椅子の背もたれに力なく寄り掛かり、私は神罰が下りそうな言葉を唸るように絞り出した。

 

 

 

-Days.3-

 学生が一日の(しがらみ)から解き放たれる、放課後。私はユキたちに別れを告げると、独り夕暮れに照らされる廊下を歩き出した。私には日課がある。相変わらずの暑い日々が続くが、鼻歌交じりの上機嫌な足取りが、進む歩を速めていた。

 階段を上り、目的のドア前に立つ。少しづつ高鳴る鼓動を抑えるように大きく深呼吸し、それから目の前の薄板を一気に横に引いた。

 開け放たれた内部から空調機(クーラー)が生み出す柔らかな冷気が漏れ出し、蒸し暑さに慣れてきた私を撫でた。同時に涼風の流れに乗り、紙とインクの混じった、どこか心落ち着く独特の香りが漂う私はその清冽の空気をもう一度胸いっぱいに吸い込むと、部屋に入り、ドアを閉めた。

 目の前には自身も本の世界に浸っている図書委員の座るカウンターが、その奥にはずらりと並ぶ書架が、そしてカウンターの両脇には利用者用の机がいくつか並んでいた。

 意外に思われることが多いが、私の日課はこの図書館に通うこと。目的地はまごう事なくここだ。

 ……いや。正確には?ここ?が目的地なのではない。

(あ、今日はいる……!)

 私の目はすぐに?それ?を捉えた。一番窓際に位置する日当たりのいい席、そこに彼はいる。彼が座るのはいつもあの席で、他の場所には座らない。そこは彼にとって特等席なのだ。

新世(にいせ)先輩!」

「ああ、明日(あすの)()さん。こんにちは

 すっと近寄り、背後から覗き込むように声を掛ける。名を呼ばれた彼は、特に動じることもなく私に笑顔を向け、朗らかに挨拶をした。ちなみに、明日葉とは私のこと。私のフルネームは明日葉(あすのは)光莉(ひかり)だ。

 あまり驚かれなかったことに少々の残念さを抱きながらも、私はさっと彼の正面に回り込み、向かいの席へと着いた。彼は笑顔でそれを見届けると、再び読んでいた本へ目を落とした。

 彼、新世(にいせ)(わたる)は、私の二つ先輩に当たる、高等部二年の生徒だ。いつも本を読んでいる、所謂『本の虫』。それ故に普段俯いている事が多く、加えて長い黒髪と眼鏡のせいもあって根暗に思われがちだが、私は知っている。彼はとても優しくて、温かい笑顔の持ち主なのだ

 彼と知り合ったのは、昨年の夏。調べ学習の為に初めて図書室に来て、資料選びから四苦八苦していた私(この時の私は人類最後の日を迎えたかのような顔をしていたらしい)を見かねて、声を掛けてくれたのが出会いである。調べ学習が終わるまで付き合ってくれ、その時もあの笑顔を向けてくれた。

 その不思議な魅力に惹かれ、私は図書室に通うようになった。毎日いるわけではなかったが、彼はよくこの日当たりのいい席に座り、読書や自習に励んでいた。

 私の向かっていた真の目的地は、まさにこの席だった。といっても、ここに来た所で、活字の苦手な私は何をするわけでもない。ただこの席に座って、外で部活に勤しむ生徒や自分の世界に没頭する新世先輩を眺めているだけだ。端から見れば怪しく、先輩から見ても集中力を削ぐ存在であるのは間違いないだろうが、以前彼が「僕は構わないよ」と言ってくれたのをいいことに居座り続けている。

 ここ数日は来ていなかったようなので、彼に会うのは少し久しぶりだ。両肘を立てて顎を預け、足をゆらゆら振りながら、私は小さく鼻歌を奏でた。

「明日葉さん、今日は随分機嫌がいいね。でも、図書室ではお静かに」

「あ、ごめんなさい」

 新世先輩が顔を上げ、笑顔を向けながら私をたしなめた。上機嫌が行動に表れた事で、彼にもそれが伝わってしまったようだ。私は軽く赤面し、恥ずかしさを紛らわせるために別の話題を振ることにした。

「そういえば先輩、今日は何の本を読んでるんですか? 随分古そうな本ですけど」

 彼は読書のジャンルを選ばないが、今日読んでいる本はいつものそれと少し趣が異なった。きちんと装丁された本には見えず、古ぼけた羊皮紙を辞書のような厚さにまでまとめた、中世の聖書を彷彿とさせる書物だった。タイトルも外国語で書かれており、全く理解できない。

「これかい? これは『?γγελος(アンゲロス).』っていう本。タイトルから考えて、たぶんギリシャ語原典の仏訳本だと思う。『?γγελος.』は英語の『Angels』の語源で『使いの者』……つまり、天使を意味するギリシャ語だよ。内容も神による救済を説いたものだった。図書館の隅で埃を被ってたんだけど、興味があってさ。君も読む?」

「い、いえ……遠慮、しときます……」

 雑食にも程がある。訳本とはいえ、フランス語で書かれた、しかも見た目に(たが)わず聖書と大差ない本を読める中高生がいったいどれだけ存在するものか。埃を被るのも納得の代物だった。

「結構面白いんだけどね。明日葉さんもどうだい、いま読んでる救済と革命の章なんてなかなか――」

「ひぃぃ……せ、先輩ぃ、図書館では、お静かに……」

 こと、本の話になると怖いほどに饒舌になる。そんな真剣な表情も彼の魅力ではあったが、時々それは牙を剥く驚異ともなり得た。もちろん、ただでさえ本の苦手な私にとって、という条件付きではあったが。

 全く図書に関わらない常連と、こんな私と先輩のおかしな関係は、ユキ・ユウ・チエの仲良しグループと過ごすこと同様、私の何気ない日常の一部だった。

 まだ、私は知らない。この何気ない日常の光景が、変容を始めていたことに。私がそれを知るのは、もう少し先のことになる。

 

 

 

 -Days.4-

 今日は新世先輩を見かけなかったので、私は独り、少し早めの帰路に着いていた。夏の長い陽は未だ落ち切らず、暑さも衰えを見せない。かえって暑苦しく不快に思える鮮やかな夕陽が、私の右手側の空にぼんやりと浮かんでいる。それは残り火のように地上を照らし、なおも焦がしていた。

「はぁー……最近、あんまり先輩を見かけないなー……」

 高等部は伝統的に中等部より少し遅く、この時期に期末考査が行われる。図書館では勉強する高等部の生徒を見かける機会が多くなるが、反比例して新世先輩の出現率は悪くなった。元々彼は普段から勉強しているので、わざわざこの時期に図書館で勉強しなくても問題ない(はずだ)。恐らく、生徒の増加で?特等席?が埋まり、図書室を利用しない日が増えたのだろう。

 中等部の生徒は逆に考査から解放され、夏休みを目前に控えた気の緩む時期に入っている。要は暇なのである。図書室に行く私と別れたいつもの三人組は、帰りにカラオケに行くと言っていた。単体行動をとる私は、目的を果たせなければすることがないのだ。?特等席?にしか座らない、先輩の謎のポリシーを、私は少し恨めしく感じた。

 湿気を含んだ風が、私の髪を撫でて過ぎ去った。高い湿気と気温のせいで、こんな風でも心地よい涼しさを感じる。

「うあーっ、暇だぁぁーっ!!

 私は遣りようのない寂寥を、実際に声の爆発を起こして、みることで発散しようと試みた。もちろん、それを受け止める人物はいない。というより、周りに人がいれば、そもそもこのような恥ずかしい行動は選択できない。叫ぶ前に、ちゃんとこの通りに人がいないことは確認した。

 

「暇か? だったら、オレとイイ事して遊ぼうぜ!」

 

 いないことを確認した、はずだった。

 だが、何処からともなく発せられた声は、しっかりと私の鼓膜を叩いた。男の声にしては少し高く、女の声にしては低い、少年のような声だ。

「え……? 誰……?」

 声を掛けられたという事実よりも、先程の恥ずかしい行動を見られたのではという焦りから、私は周囲を見回した。だが、正面にも背後にも左右にも、その主の姿は確認できない。

「どっち見てんの。こっちこっち。姉ちゃん、オレのこと見えるだろ?」

 もう一度、同じ声が聞こえた。方向は足元だ。ゆっくり視線を下げると、今度はあっさりとその姿が確認できた。

 私の爪先のほんの僅か先に、小学生くらいの少年が胡座をかいて座っていた。ただでさえ小さいのに、これでは見つけ難いわけだ。

「よう、やっぱ見えるよな。才能あるよ姉ちゃん」

「は、はぁ……」

 初対面の、しかも明らかに年下の少年にいきなり才能を褒められ、私は当惑した。もちろん、それが何の才能であるかは不明だ。そもそも、いつの間にこんな場所に座り込んだのだろうか。

「君、いつからいたの? あ、私、蹴ってないよね?」

「ずっといたよ。まぁ?(あらわ)した?のはまさに今だから、気付かなくても仕方ないけどさ。あと、蹴られてねーから安心して」

 少年はよっこらせと立ち上がり、少し距離を取ると、腕組みをして私と向かい合った。一見すれば、態度の大きいごく普通の少年である。しかし私は次第に、この少年の言動だけでなく格好までもが明らかに不自然なことに気付いた。

 今日は一日中晴天で、日暮れが近付いた今も気温はまだ高い。私も半袖のブラウスを更に腕まくりし、スカートも限界まで短くしているほどだ。なのにこの少年はといえば、鮮やかな橙色の厚手パーカーを着用し、フードもきっちり被っている。更にそのフードの下には、毛糸のニット帽らしきものまで見えた。

 真夏にはありえない、真冬の重装。だが肌は健康的な浅黒い褐色に焼けている。一人で我慢大会でもしているのだろうかと疑いたくなる様相だった。

「んと……暑くない?」

 思わず、考えたことをそのまま口に出してしまった。しかし少年はそれに答えず、ギラギラした瞳を愉しそうに歪めた。恐らく笑顔を形作ったのであろうが、目付きは非常に悪い。

「姉ちゃん、名前は?」

 答え代わりに少年から返されたものは、質問である。名前を聞くタイミングが明らかにおかしい。何を考えているのかまるでわからない、不気味な少年だった。

「え……私? 明日葉、光莉……」

 だが一応、半ば条件反射的に私は名前を伝える。こちらの質問に回答がなかったのはいささか以上に不満ではあったが、子ども相手だしと軽く考えることにした。

 だが、そのような軽い考えの産物でありながら、少年には十分以上の回答であったらしい。表情は鋭い目元だけでなく全体が、確実にそれが笑顔であると認識できる形に嬉々として輝いた。剥き出しの歯は意外と綺麗に整列している。中でも、犬歯が妙に鋭く尖っているのが印象的だった。

 

 

 

「そうか。姉ちゃんの名は、明日葉光莉――間違いないな?」

 笑顔を崩さず訊く少年に、私は肯定の意味を込めて首を振った。十年以上も使っている自分の名前だ。間違えるはずもない。

「そうか、そうか……ふふふ、あんがとな。ふふふ……」

 少年の様子がおかしい。先程からおかしな点の多い少年だが、今度のそれは明らかに性質の違うおかしさだった。

「えーと……君、大丈夫……?」

 この場合の『大丈夫?』には、『頭が』というニュアンスが含まれている。失礼は承知だ。馬鹿にしているわけではなく、この暑さでついに正気を失ったのではないかと、本気で心配し始めたのだ。

 しかし、やはりというか、私の側からの質問に答える様子はない。それどころか、独り言を呟き出すに至った。

「明日葉、光莉――HiKari Asunoha――第七と第一の音。性質は……死神の逆位置か。凄い。見込み通りの才だな」

 本当に大丈夫なのか?

 勿論、これも『頭が』だ。だが、それを実際に私が問いかける事はなかった。代わりに、私は背筋を凍らせる。歪んだ悦喜を浮かべる表情とは裏腹に、発せられた声はまるで異質、かつ無機質なものだったのだ。先ほどまでの、少し高い少年の声は面影もなく、淡々と発せられる呟きには感情が全く欠落してしまっている。勿論、その内容も私には理解できない。

 夏の暑さを原因としない汗が、私の額を伝っていることに気付いた。ここまで来ると、不気味などという感覚で済ませられるレベルではない。

(関わるべきじゃ、なかったかな……!?

 ようやく私はこの結論にたどり着いた。だが既に遅すぎる。目の前で高らかに嗤う少年は、見た目の大きさとまるで釣り合わない存在感をもってそこに在り、相対する私の脚は蛇を前にした蛙の如く硬直してしまっていた。

 人間にとって、理解を遥かに越えるものは何であれ恐怖の対象へと昇華する。それは例え、見た目が自分より遥かに小さい少年相手でも同じこと。得も知れぬ恐怖から、私は思わず少年から目を逸らした。

「……え?」

 少年の両肩越しに、真っ赤な夕陽が二つ見える(・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・)

 ほんの僅か前まで、夕陽は私の右手側にあったはずである。二つとあるはずもない。だというのに今、私の視界は、鏡に映したかのように少年を挟んで浮かぶ、双子の夕陽を確かに認識していた。

「よお、姉ちゃん。失敗だったな! 知ってるか知らないかわかんねーが――悪魔に真名を知られるってなぁ、一番やっちゃいけないことなんだぜ!!

 少年が吠えた。それに呼応するかのように、双子の夕陽がゆっくりと落下する。

 地平線でなく地面にぶつかり、真紅の真円は水滴が弾けるように簡単に砕け散った。紅い破片は肥大して漆黒の泥となり、景色そのものを塗りつぶしていく。

 黒ペンキをぶちまけたかのようだ。道も、家々も、道も、空までも、見慣れた通学路の景色が暗色に喰われていく。

 私に唖の音を吐かせる頃には、全てを上書きする色は景色を全て平らげ、見渡す限りを黒一色に染め上げた。

 いま周りで起こっていることも、少年の言葉も、私には到底理解できなかった。ただ状況に追いつこうと必死に稼動する私の脳を置いて、状況は劇的に移行していく。

 気付けば、黒以外何も存在しない空間に、私と少年だけが取り残されている。目の前も足元も、私と少年だけを取り残して全て黒一色。ほんの僅かな間が、こんなありえない状況を目の前に作り出して見せていた。

「これは、何……? 君は、何者なの……?」

「言ったろ、俺は悪魔だ」

 瞬きも忘れて立ち尽くす私は、硬直する全身のうち、口だけをようやく動かして言葉を発した。

 他に、発するべき言葉が見つからなかった。頭も回っていないのかもしれない。少年はそんな私の質問になりきらない質問に限って、律儀に答えを投げかける。

「あ、悪魔って……」

 私は絶句し、それ以上の句が継げなくなった。常の私なら、悪魔など存在するはずがないと笑い飛ばすところだっただろう。だが、いま周りに起きている?原理の説明できない現象?が、悪魔という非現実的なものへの受容度を引き上げていた。

 少年が、腕組みはそのままに一歩、私に近付いた。

「そう、オレは悪魔だ。名はラウム。姉ちゃん――いや、明日葉光莉。お前は、オレのモノになった。血の契りを交わさせてもらうぜ」

「私が、君のモノ……? 血の契り……? なんなのそれ、ふざけないでよ!」

 もう一歩、少年――悪魔ラウムが近付く。私はようやく脚以外は体の自由が利くようになっていることに気付き、立ち尽くすその場から身を乗り出して叫んだ。

「ふざけてなんかいないさ。オレはお前のように、オレの力を受け入れられる存在が必要だった。お前は暇を持て余している上、契約の第一段階『名を差し出す』事を行なった。おまけに――オレが保証しよう。お前は素晴らしい才能を秘めた()だ。素晴らしい悪魔憑きになれるぜ!

「ちょっと待ってよ、契約とか私知らないし! しかもなんで勝手に段階進んでんの!?

「何故名前を差し出すか、か? 名前は特定存在の過去・現在・未来を繋ぐ、存在そのものの代理だからだ。言霊って知ってるか? 語にはすげぇ力があるんだぜ」

「いや、聞いてんのそんなことじゃないし! 第一、名前なんてあんたが聞いたんじゃん! 不当契約だ! 契約の破棄を要求する!!

 一歩ずつ近付く悪魔の姿は、しかし私との距離が詰まらない。またおかしな幻視をしているのかと思ったが、やがて私は自らの脚が無意識に後ずさりをしているのだと気付いた。

「とんでもない。お前みたいな逸材、絶対に逃してたまるもんか。代わりといっては何だが、オレと契りを交わしてくれれば、どんな望みも叶えてやるぜ」

 まるでどこぞやのアニメのような誘惑だ。望み多き中学生の私にその言葉は非常な魅力を持ったが、私は首を振り、一瞬揺らいだ自分を恥じる。

「あ、あんた悪魔じゃん! 悪魔の力を借りて叶える願いなんて、ろくなもんにならないに決まってる!」

「あー……確かに、その可能性は否定しねーけどな。悪魔は通常、何らかの代償(いけにえ)と引き換えに不思議を起こす。その代償が大きいものであれば、自ずと不幸を感じることもあるかもな。現に、それで自身を破滅に追い込んだやつも存在する」

「ほら、やっぱり!」

 私はまた一歩退きながら叫んだ。黒の空間に波紋が沸き立つ。少年はほうと息を吐き、しかしながら変わらぬ余裕の表情で、開いた間合いを緩やかに詰める。

「まあ、それはあくまで身の丈に合わない代償を差し出した野郎に限ったことさ。明日葉光莉、お前なら大丈夫だ。お前には才能があるし、何よりオレは紳士的だからな。大した代償は要求しねーよ」

「代償って……一体、何を?」

 おずおずと尋ねると、ラウムと名乗る少年は待ってましたとばかりに邪悪な笑顔を満面に咲かせる。これまで見せた中で最高の笑顔だ。邪笑だが。

 それを認識するまでの刹那に、ラウムは私との距離を一気に詰めていた。まさに、飛ぶようにという形容が相応しいスピードで、私の目はまるでその動きに対応していなかった。

「オレがお前から貰いたいもの、もう一つの契約――」

 小柄なはずなのに、ラウムの双眸は私のそれと全く同じ高さにあった。少年は戸惑うばかりの私の顎に指を当て、クイと引き上げながら、最後の言葉……本題を言い放った。

 

「オレが欲しいのは、お前の純潔だ」

 

 ―――ごがっ!!!

 所謂『どや顔』で言い放った彼の脳天に、組み合わされた両の拳からなる全力の鉄槌が振り下ろされた。油断したのだろう、彼はその直撃をモロに受け、鈍く重い効果音と共に堕ちていった。

「"血の契り"なんていうからどんな恐ろしいもんかと思ったら……とんでもないマセガキじゃん! バカ、死ね!」

 思い付く限りの罵詈雑言を、気絶してしまったのか起き上がらない少年に向けて浴びせかける。恐怖で固まっていたのが嘘のように、今の少年からは何の脅威も感じられなかった。

 一帯に広がる黒の空間が、ぐにゃりと歪む。真っ黒なので見た目には変わらないが、感覚が確かにそんな変化を感じ取った。

 

 

 

「……はっ……?」

 気が付くと、私は道の真ん中に呆然と立ち尽くしていた。視界が捉えるのは黒に食い尽くされた空間ではなく、茜色に染め上げられた、通い慣れたいつもの帰り道である。

 周りには、特に誰の姿も見当たらない。足元を見ても、あの厚着の少年の姿はなかった。

「夢、オチ……?」

 これは白昼夢(デイ・ドリーム)というやつだろうか。確か新世先輩が以前そんなタイトルの本を読んでいた。

 立ったまま夢オチを経験した女の子ってかなりレアなんじゃないか。そう感じてしまう私はどこかズレているのだろう。

「……ま、そうだよね。あんな悪魔が、いるわけないか」

 はははと力なく笑いながら、私はいつの間にか落としていたらしい通学カバンを拾い上げ、軽く叩いて埃を落とす。

 ふと右手側の空を見る。周りの空域も鮮やかに巻き込んで染め上げる夕陽は、何事もなかったかのように絶対唯一の存在としてそこに在った。

「……ふふっ」

 私は少し自嘲気味に笑うと、再び帰路へと歩みを戻していく。靴の音が、人気のない帰り道に寂しく響いていた。

 

 

 

天魔が嗤う …To be continued.

inserted by FC2 system