天魔が嗤う(中篇)
表紙絵協力:藤村 紫葵 (漫画研究部)
私、明日葉光莉は平凡な中学生。大好きな友達や片思いの先輩と、何気なくも充実した平凡な毎日を過ごしていた。けれど、私の日常は非日常へと、少しずつ変容を遂げていく。あの落日の出逢いを境に、少しずつ。
彼は言った。私には才能があると。私の力が欲しいと。彼と組めば、私の望むものは何でも手に入れられると。
でも、それを受け入れるわけにはいかない。だって、彼の正体は。
――悪魔、だったのだから。
-Days.7-
月曜日。連休明けは週で最も気怠い、私が一番嫌いな曜日だ。天気も朝から生憎の、じっとりとした湿気がなおさらに憂鬱気分を増幅させる。
「ユウちゃん助けてー、チエが私の焼きそばパンをー……」
「何で私に言うのさ、本人に言いなよ……」
「本人には言っても無駄。食欲と筋肉しか頭に詰まってないから」
暴言だが、妥当であろう。楽しみに放課後まで取っておいた私の焼きそばパンは今、咲山千枝里の手中――いや、口中にある。そもそも私が昼ごはんを食べ損なったのは、チエがうっかり廊下のガラスを割ったことに対する説教に巻き込まれたためだ。ところが彼女は空腹の二文字の下に私の食料を奪い、あまつさえ浮かべるどや顔≠ェ無性に腹立たしい。彼女に遠慮とか罪悪感とかいう感情はないのだろうか。
だが、私の怒りにはキレがない。普段なら追い掛け回してでも取り返すところだろうが、今の私には腹を立てる以上のアクションを起こす気力がなかった。
「どうした光莉、今日は朝からずっと悩み顔じゃないか。そんな気分じゃせっかくの焼きそばパンも美味くなかろう。だから私が美味しく頂く」
「謝りなさい」
何故か尊大な態度のチエを、落合由姫が丸めた教科書で叩き、たしなめた。ああ、まるで慈愛の天使だ。至極正当な事を言いつつも結局何もしてくれない清水悠里とは違う。今度焼きそばパンを奢ろう。チエのお金で。
「ありがと、ユキ」
「うん。ところで、今日は本当にどうしたの? 土日で何かあった?」
「んー……ちょっと、ね。あ、先輩のことじゃないよ」
真面目な顔をしているユキの向こう側で、チエが焼きそばパンを食べるのもそこそこに、ユウのメロンパンに手を出しているのが見えた。私は本題と今見えた光景、両方に沈んだ息を吐いた。
「妙な奴に会っちゃってさ。変なもん見せながら俺は悪魔だーだとか純潔よこせーだとか言って、ゆっくり迫ってくるの。何とか無事だったけど、思い出すだけで怖くって」
「ち……痴漢!? 本当に大丈夫だったの!?」
ユキが手にしていたコーヒー牛乳のパックを握り潰し(幸い中身は空だった)、弾かれるように立ち上がって叫んだ。その様子を見たチエとユウが、果てはクラス全体が、一斉に私の方へと視線を集中させるのがわかった。
あらぬ誤解を招いたことに気付き、全身から冷たい汗が吹き出した。私は慌ててユキの後を追うが如く立ち上がると、両手をぶんぶん振って否定し、全力で誤解であることをアピールしようとした。
「ち、違う! 違うんだってば!」
「ご、ゴメン……言いにくい事聞いちゃって……」
「私もゴメン、ちゃんと話聞いてれば……い、いつでも相談乗るからね」
「だぁーかぁーらぁーっ!」
ユキは本気で青ざめ、衝撃を受けた表情のまま固まってしまった。ユウもチエとのメロンパン争奪戦を止め、心配そうな表情で近寄ってくる。根は真面目なのが災いしている。
「災難だったな、光莉……生きてればいいことあるよ、ほらこの焼きそばパンやるから元気出せ」
「だ・か・ら! 違うんだってば、話を聞いて! ってか哀れむ感じで肩に手を置くな! あとその焼きそばパンは元々私のだから! そもそも食べかけのやつ要らないし!」
慰めが明後日の方向を向いているとはいえ、チエまでもがこの様子である。結局、勘違いしたままのユキたちやざわめくクラスの誤解が解けるころには、昼休みが終わってしまっていた。
放課後。昼休みの騒動もようやく完全に終結し、ユキも正気を取り戻した。焼きそばパンは戻ってこなかったが。
窓の外は相変わらずの雨模様である。大振りではないがやむ気配はなく、シトシトと雫を滴れ続けている。一度は口にしかけた相談の方も、結局あの騒動でタイミングを失い、出来ないままであった。
「あ。そろそろ私、帰るね」
「今日も? ひかりんも健気だねぇー」
ユキはにっこりと笑い、少しだけ悪意のない冷やかしを入れた。ユウとチエも、それを合図にしたかのように笑顔を私に向ける。
「ああ、いつものか。そんじゃね、光莉! ……あ、焼きそばパンごちそうさまな!」
「アンタは謝れってーの。うん、じゃあまた明日ね、光莉ちゃん!」
三者三様の笑顔に見送られ、私は教室を出る。私と新世先輩の事は、基本的にこの三人しか知らない。そしてこの三人は、なんだかんだ言って良い相談役である。最終的に笑顔で送り出してもらえるのは、やはり心強かった。
水滴に叩かれる窓越しに灰色の空を見上げながら、私は廊下を歩く。一人になると、みんなといる時以上に憂鬱は深まった。
遠い空に、陽の光はない。数日前に見た、暗く歪んだ世界が自然と思い出された。
この数日間、憂鬱の元凶たるあの悪魔が再び姿を現すことはなかった。常識的な思考が、あれは夢だと語っている。
(……違う……)
しかし、あの異様なまでの圧迫感、感じた不気味さ。今でもはっきりと思い出せるリアルな感覚が、夢であるという当たり前を真っ向から否定しようとしていた。
(悪魔なんて、いない……と思いたいけど。じゃあ、あれは何……?)
出口のない迷路を彷徨うように、私の思いはぐるぐると旋回を繰り返した。懊悩に答えを与えてくれる者はいない。あまりに非現実すぎて、三人の親友たちにすら相談して良いものかわからなかった。
雨が強い風に乗って、窓を叩く。図書館に向かう私の歩は、常の上機嫌ではなく不安に喘ぐ足取りによって、確実に速められていた。
「やぁ、明日葉さん。少しぶり、かな?」
図書館の戸を開け、早足のままにいつもの席≠ノ向かう。そこには、変わらぬ様子で特等席≠ノ着く、新世亘先輩の姿があった。窓際の特権である日当たりのよさは残念ながら得られなかったが、今日ここに居る辺り、先輩にとってそれはさしたる問題ではないらしい。
私には何故か先輩に会うのが、遙か時を超えての出来事のように思えた。実際は木曜日に会って以来なので一週間の間もないのだが、何がそう思わせているのか私にはわからなかった。
「失礼します」
「うん」
先輩の向かいの席に座り、片肘をついて体重を預ける。先輩は私へにっこり笑顔を向けると、再び読んでいた本へと視線を垂れた。あの『?γγελος.』とかいう分厚い聖書のような本だ。流石の先輩もこれを読むのは骨が折れるのだろうか、前に会った時と残りページの厚さがさほど変わっていないように思えた。
ここは図書室であるが、基本的に私は本を読まない。ただ読書にいそしむ新世先輩を眺めるだけであり、場所本来の目的を考えれば明らかに浮いた存在だ。それを自覚してなお居続けるのは、先輩のいるこの場所が私にとって安らぎの場となるからだ。事実、先ほどまでの不安や懊悩も、先輩の顔を見た瞬間から和らいだように感じた。
しばらく、先輩が聖書をめくる様子を眺めていた。読書の邪魔をすると悪いから、極力話しかけないようにしている。これもいつものことだ。そのため、特に会話もなく静かな時間が流れていった。
(毎日のように押しかけて、何するでもなく見つめてるだけ……私って、もしかしてストーカーっぽいのかな……)
途中、そんな不穏な考えが頭によぎる。私は不都合な想像から目を逸らそうと、慌てて注目の対象を新世先輩から外へと切り替えた。
空調機の稼働音に交じって、窓を隔てた向こう側から微かに雨音が聞こえる。何気なく周りを見回すと、まだ考査中の高等部生徒が勉強している様子がちらほらと見られた。
状況の中身としては、独りでいることと大差ない。だがこの数日、独りでいると必ず蘇ってきた不安な影は、不思議なことに全く想像に上らなかった。
「……ねぇ、明日葉さん」
暫くして、唐突に先輩が声を掛けてきた。『?γγελος.』が開かれたままであることから、読書を終えたわけではないだろう。手帰り際以外で、先輩の側から話しかけてくるというのは非常に珍しいことだった。
「ひゃ、はいゃッ!?」
ここ数日の考え事で、疲労していた頭が睡眠を求め始めたところでの不意打ちである。前置きなくいきなり思考を現世に引っ張り戻された私は、我ながら間抜けな奇声と共に心臓を跳ね上げた。部屋のどこかからクスクス笑う声が複数聞こえ、私は顔が熱くなるのを感じた。
それも、その様子を先輩にも見られてしまったわけだ。もう最悪。穴を掘って埋まりたい気分だ。
「はは、ごめん。驚かせちゃったかな」
幸い、先輩に呆れたり笑い飛ばしたりする様子は見られなかった。それどころか、むしろ申し訳なさそうな表情ですらある。まさに天使だ。
だが、やはり顔を直視するのはなんとなく気まずい。私は伏し目がちに問い返した。
「なな、なんですか……?」
「うん……ねぇ明日葉さん、君にはこの世界――どんな風に見えてる? 満足できてる?」
声を掛けるタイミング以上に唐突な質問だった。危うく「ほへ?」という恥を上塗りしそうな声を出しかけ、何とか飲み込んだ。
「えっと……世界とか難しいことはよく分からないですけど。私はそれなりに充実した生活を送っていますよ。勿論悩んだり落ち込んだりすることだってありますけど、たぶん、満足してるって、言えるんじゃ……ないかなぁ……」
突然『世界が』などとスケールの大きな話を振られても、急には纏まった言葉が出てこなかった。親友たちとの談笑、先輩と居るこの時間、あの日の不可思議な出来事。断片的に浮かんでは消えるイメージを、私はせっせと言の葉へと紡ぎ上げようとした。
「成程ね……そしたらさ、もしその満足な生活≠ェ、弱者を踏み台にした上にあるものだとしたら。偽りと嘘にまみれ、幾多の思いを踏み潰して君臨する虚構だとしたら、明日葉さんはどう思う?」
「え、えーっと……」
質問といい、言い回しといい、聖書の影響なのだろうか。抽象的な表現に、思考のレベルが追いつかない私の頭は錆び付いた悲鳴を上げていた。
先輩も苦悶する私に気付いたのか、苦笑すると、ごめんごめんと言いながら手をひらひらさせた。どうやら与えられた思考時間はタイムアップを迎えたらしい。少し悔しくも思いつつ、内心では多大な安堵に胸を撫で下ろしていた。
「無理に答えてくれなくても大丈夫だよ。ちょうどそういう話を読んでたから、意見を聞いてみたくてさ」
やはり聖書の影響か。私は軽く本の中身を見てみたが、フランス語で書いてあるらしいその内容を理解することは、ほんの一片すらも適わなかった。
「むー……私にはわからないです。聖書って面白いんですか? 堅苦しいこと書いてあるだけのイメージしか無いんですが」
「読めれば案外面白いものだよ。それに、堅いのは仕方ないよ。こういう本は誰にでも読めるんじゃなく、一部の人間しか読めないからこそ価値があるんだ」
「そうなんですか?」
先輩の表情が苦笑から色を変え、ぱっと輝いた。珍しく私が本の中身に関すること≠ノ食いついたからだろうか。
「うん。例えば神託とか占いとか、お告げ的なものって大抵難しいこと言うだろう? あと、儀式の時唱えるお咒いとかもね。ああいうのは誰にでも分かると神性・神秘性が失われる。知的生命体である人間は理解できないもの≠ノ警戒から畏怖の念を抱き、また神秘性から憧憬の念を抱く。だから特別な言語や表現を用いることで、内容を崇高なものへと昇華させたんだ。それを人々に伝えるための媒体となったのが、神官や巫女と呼ばれた人々だ」
長い説明に、私の頭は少しクラクラした。
何となく言いたいことは分かる。私だって訳のわからないものに遭遇したら怖いと思うし、その一方でその存在を凄いなと認めてしまうのもまた事実だ。
あの、悪魔のように。
「……とりあえず、難しい言葉使ったら凄いんだぞーってことは分かりました」
「あー、えっと……その理解にはちょっと問題があるな……」
新世先輩の表情が再び苦笑のそれへと戻った。その反応が、私にも苦笑を誘発する。苦笑の対面がどうにも可笑しく感じ、気付けば私たちはどちらからともなく笑っていた。間もなく、図書委員の「お静かに」というお叱りを二人揃って受けたのは言うまでもない。
いつしか、窓を叩く雨音が静まっていた。外を見ると、完全に降り止んだわけではないが、霧のような細かい雫が風に乗って僅かに舞っている、そんな雨模様に変わっていた。
「でも凄いですね、先輩。普通の人に読めないものを読んで人に説く、それって神官みたいなものですよね。選ばれた人間ってことですよね!」
興奮に任せて声が大きくならないよう注意しながら、私は言った。そういえば、こんなに楽しい気分になったのは今日初めてかもしれない。大好きな先輩と一緒に居られるからか、それとも珍しく会話があるからか。どちらでも別によかったのだが、とにかく私は興奮していた。
「選ばれた、人間……か。そうだと嬉しいね」
対する新世先輩も、まんざらではない様子だった。少し頬を赤らめて照れる様は、いつもの笑顔とはまた違う魅力を醸し出している。
「この本のおかげで、僕は天使に愛されたのかも知れないね」
天使に愛された者――先輩にはぴったりだと私は思った。
このとき窓の外には陽光がないにも関わらず、私は先輩の笑顔が差し込む光に照らされているように見えた。
ばたん。
ドアを閉める音が、さほど広くない私の部屋に響いた。私は通学鞄を胸元に抱えたまま、閉めたばかりのドアに背を預け、上喜した息を吐いた。
「……もうこんな時間か。遅くなっちゃったね。もう暗いし、送っていくよ」
時はほんの三十分前。新世先輩が本をしまいながらそう言ったのだ。いつもはあまり遅くならない内に私が先に帰るのだが、話し込んでいてすっかり時間を忘れていた。
先輩と帰るのは、これが初めてである。というよりも、図書室以外で先輩と一緒に過ごすこと自体が初めての出来事だ。驚きと喜びから激しく打ち続ける心臓に痛みすら感じつつ、私は間抜けなほど首を縦に大きく振り続けていた。
暗い帰り道、二つの傘が揺れながら並んで歩く。その道中、私は照れから俯いて黙り込みがちだったが、先輩はそんな私に気を遣ってか、色々な話をしてくれた。面白かった本のこと、好きなもの、将来の夢。どれもが今までに聞いたことのない先輩についての§bであり、私の興味を惹いた。
「僕は将来、父さんの後を継いで医者になる。弱った人を助ける、希望のような存在になりたいんだ」
特に将来について話すとき、先輩の目はキラキラと輝いていた。この年齢で明確な将来像を抱き、そこに向かって努力する先輩が、私にはとても格好良く見えた。
先輩の背中が見えなくなるまで見届けると、遅かったじゃないと話しかけてくるお母さんへの返事もそこそこに部屋へと篭もった。壁に掛けた鏡には、にやにやとした怪しい表情が映る。今更ながらに恥ずかしくなって、私は両膝に顔を埋めた。
「はぁー……」
我ながら単純だなとは思うが、私の脳内は今、幸せに支配されている。まるでここ数日の悩みが全て吹っ飛んだようだった。
未だ続く幸福の余韻から、私はどうも落ち着きを失っていた。突然立ち上がって鞄を投げ捨てると、愛用のベッドへ勢い良くダイブ。さらに枕を引き寄せ、顔を押し付けるように埋める。ふかふかの布団に自らの身が沈みゆく感覚が、今の気分とも相まってなんとも心地よかった。
「沈み込んだり飛び跳ねたり、忙しいな。姉ちゃん」
枕に顔を沈めたまま、私は目を見開いた。今、この部屋には私以外に誰もいないはずだ。声が聞こえるはずがない。
そうだ、これは気のせいだ。私はそう思うことにして、緊張に強ばる体を敢えて起こしはしなかった。きっと気苦労で疲れているのだろう、ぐっすり眠れば何事もなく――
「おーい姉ちゃん、聞こえてるかー? 起きてるのは知ってるからなー」
……残念ながら、空耳ではないらしい。数分前までとは全く違う原因から、私の鼓動は再び早打ちを始めた。
こうなってしまっては幸せ気分も台無しだ。私は動きたくない欲求と内心で熾烈な戦いを繰り広げながらも、ゆっくりと身を起こした。
「よう、姉ちゃん。少しぶりだな」
ほとんど同じ台詞を先程も聞いたが、奴の発するそれを受け入れる私が抱いた感情は、新世先輩に言われた時のそれとは真逆だった。
ほんの僅か前まで誰もいなかった私の部屋。見回すと、その中央に、当たり前のように胡座をかいて座る少年がいた。夏場にはありえない橙色の厚手パーカーとニット帽を装備した、浅黒い肌の少年である。
忘れるはずもない。三日前、私が帰り道に遭遇したヒト在らざる者。以来ずっと私を悩ませ続けた根源たる存在。
悪魔ラウムの姿が、そこにはあった。
「……なんで、あんたがここにいるの。ここ私の部屋だよ」
「お邪魔してるぜ。お前あるところにオレもあり、だ。言ったろ、お前みたいな逸材、絶対に逃さないって!」
前に会った時と寸分も違わぬ、喜悦に歪んだ邪悪な笑みがそこにはあった。
(…………?)
確かに変わらないはずなのだが、どこか前とは雰囲気が違うように感じる。見た目も態度も変わらないのに、だ。
「んー、思ったより落ち着いてんじゃん。ちょっとばかし悔しいが、それも才能の賜物ってもんだ」
私の心を見透かしたかのように、少年は私の胸元を指差しながら言った。何かあるのかと思って見たが、特に胸元に何かが現れているわけではない。単純にこちらを指しただけなのだろう。
「その顔を見てりゃわかるぜ。オレの雰囲気が変わったとか思ってんだろ。だがオレは最初に会ったときと何一つとして」変わっていない」
「……つまり。変わったのはあんたじゃなく、私……?」
「ご名答」
結論に至るのに、さほどの時間は要さなかった。
思えば、初めて出会ったとき大きな恐怖を抱き、その後数日不安に苛ませた当の存在がいるというのに、私の心は思っていたほど乱れてはいなかったのだ。最初こそ身構えもしたが、こうして観察しているうちに、身体の強張りはすっかり落ち着いている。恐れも不安も、今は殆ど感じなかった。
「オレら悪魔は、契約者の望みを叶える手助けをし、対価として俺たちの望む代償を得ることで力を得る。その為には契約を取り付けなきゃならんからな、ファーストコンタクトで色々工夫すんだよ。多くの場合はまず相手を恐れの世界≠ヨ引き込む。心の弱い人間や魔力が乏しい人間は、それだけでイチコロだからな。助けを乞い、容易に代償を差し出す」
私はあの歪んだ光景を思い出した。二つ浮かぶ夕陽、歪んだ黒の世界。不気味なコントラストが彩る空間は、確かに恐れを抱かせるものだった。現に私もその記憶に苛まれてきたのだから。
「だが、オレたちが欲しいのはそんなちっぽけなヤツとの契約じゃない。人にはそれぞれ潜在的な適性があってな、悪魔との適性が強ぇヤツがいる。そんなヤツと契約すれば、人間は望むがままのことを出来る。そしてオレら悪魔は代償から強大な力を得られる上、うまく付き合えば独りでいる時よりも大きな力を発揮できる場合もある。お互いハッピーな相助関係ってわけだ。わかるか?」
私は首を縦に振った。ちゃんと聞いていれば何となく納得は出来る内容だ。これがギブアンドテイクという概念なのだろう。だが相手は仮にも悪魔を名乗る相手だ、どこまで信用していいものなのだろうか。
それに、まだ彼――ラウムに恐れを抱かなくなった理由がわからない。もし私が彼の言う恐れの世界≠断ち切ったことが原因なら、あんなに悩み怯えることもなかっただろう。
「……あ? オレの雰囲気が変わったように感じる理由? 簡単だ。姉ちゃん、お前は悪魔憑きとして類稀な適性を持ってるからさ。俺の恐れの世界≠ノすぐ順応できたようだし、悪魔の魔力へ耐性を持つスピードが異常に早い。名前まで手に入れたってのにこのザマだ。並以上程度の適正じゃ、前回も今も、身動き一つ取れないままのはずだぜ」
なるほど。そういえば恐れの世界≠ノ囚われた時、最初は蛇に睨まれた蛙のように硬直していた体が次第に動くようになっていた。彼の言うことが本当ならば、今平気でいられるのも彼に対しての耐性が出来たからなのであろう。
「私って、そんなに、凄いの……?」
「ああ。適性だけで言えば、かのソロモンにだって全く引けをとらないレベルだ」
「……そろもん?」
「ああ。かつて存在した、史上最強の悪魔憑きだ」
ラウムによれば、ソロモンとは紀元前に君臨した、古代イスラエル王国最盛期の君主。豊富な知識と野心的な統治から強大な力を誇っていたという。通常だと人間が契約する悪魔の数は多くても数体だが、彼は指輪や壺を用いた特殊かつ複雑な方法で多くの悪魔と契約を結び、七十以上もの悪魔を使役したという。ラウムもソロモンと契約した悪魔の一柱であるという。
「まぁとにかく凄ぇヤツだったな、あいつといると体中の血が沸騰したみたいに熱くなって、力が無尽蔵に漲ってやがった」
「ふぅん……でも、その話じゃ私が敵いそうなとこなんて全くありそうにないんですけど」
「まあヤツは適正だけじゃなく、頭も完璧だったからな。お前ももう少し脳みそが詰まってりゃ、それこそソロモンの再来だっただろうな」
まったくもって大きなお世話である。私は彼の言い草に些か以上の苛立ちを感じたが、所詮悪魔のいう事だと自身に言い聞かせ、無理やり気持ちを落ち着けた。
この悪魔が意外と聞けば答えてくれる奴であることはわかったが、だからといって心を乱し、隙を見せれば何をしてくるかわかったものではない。だって悪魔だもの。
そんな私の苛立ちや自制との葛藤を知ってか知らずか、少年の姿をした悪魔は立ち上がり、ズイと私に顔を近付けてきた。私はベッドからごろりと降りると、近付くラウムから一定の距離を取れるように移動し、床に立った。
「どうだ、これだけの資質があるんだ! お前は必要とされてる。オレと契約、結ぶ気になっただろ!?」
「…………」
史上最強の悪魔憑き、それと同等の適性を持っていると言われれば、確かに魅力的でないはずがなかった。
自分の力を必要とする物と組み、世界を思うがままに出来る力――私の思いは、固まっていた。
「お断りします」
「何でだぁぁぁぁ!!」
出来うる限りの笑顔で返答してやると、ラウムは狂ったような叫びをあげた。危ない危ない、騙されるものか。確かに魅力的ではある話だが、別に私は世界をどうこうしたいとかいう野望を持ってはいない。それに、結局は悪魔の言うことだ。嘘が混じってないとは言い切れない。安易に信用し切るなど以ての外だった。
「姉ちゃん、正気か? この知恵と名声の大悪魔ラウムさまが、直々に契約のメリットを説きつつお前を求めてるんだぜ!? オレと組めば全て思いのままだ、勉強も運動も恋愛も!」
「……っ!」
恋愛もと言われて一瞬反応しかけたが、なんとか踏みとどまった。
「魔法で人の気持ちを変えてまで付き合うくらいなら、自分で当たって砕けたほうがマシだっての!」
よくぞ言った私。まだまだ堕ちたもんじゃない……と、自画自賛する。新世先輩、褒めてください。
フンと鼻を鳴らし、得意げにラウムの方を見る。偉そうな腕組みのポーズも忘れない。これはどや顔≠浮かべているチエをイメージしたものだ。
「ありえねぇ……ただ服脱いでそこのベットで横になってれば、それだけで明るい未来が待ってるってのに……」
「この淫魔が。いつか司法の場に引きずり出してやる」
ラウムは納得いかない様子で何かブツブツ呟いている。どこの世界でも契約を取るのは大変なんだなと、意図せぬタイミングで私は社会勉強の経験を積んでしまった。
その後しばらく、ラウムは何か私を落とす方法がないものか考えているらしく、部屋の隅で何かウンウン唸っていた。正直、他でやってほしい。いつまでも退去しない侵入者を、私はため息をつきながら見ていた。
「あーあ……先輩は天使に愛された者≠セっていうのに、なんで私はよりによって悪魔なのかなぁ……」
何気なく呟きながら、私はごろりと仰向けに転がった。目を閉じると、新世先輩の笑顔が浮かんでくるようだ。
……ぎしっ。何かの重みを受け、ベッドが軋むのがわかった。何かと目を開けると、目の前に浅黒い少年の顔がある。部屋の端にいたはずの悪魔ラウムは、いつの間にか私に覆い被さるようにしてベッドの上に上ってきていた。
「ちょ、ちょっと……!? 契約はしないって言ったじゃん、無理矢理とか酷いよ!!」
「……なんつった?」
「だ、だから無理やりこんなこと……! どきなさいって!」
「違う」
私はハッとして、ラウムの瞳を覗き込んだ。切れ長の瞳は、真剣な眼差しで私の目をじっと覗き込んでいる。今までの態度とは何かが違うと、直感が告げていた。
「『天使に愛された者』……お前、そう言ったか」
「い、言ったけど……あんたには関係ないでしょ! とりあえずそこ降りてよ!」
ラウムは舌打ちをすると、するりとベッドから降りた。傍らに立つとニット帽越しに髪を掻き、それから振り返って再び私を見た。
「まさかとは思うが……明日葉光莉、お前の周りに天使憑き≠ネんていたりしねーよな?」
今日この部屋に現れてから、名前で呼ばれたのは初めてだ。それだけ真剣なのだということだろうか。私は少し戸惑ったが、少なくともただ事ではなさそうだ。仰向けのままだった体を起こし、ラウムに向き直る。
「天使、憑き……?」
「読んで字の如く。天使が憑いてるヤツの事だ」
「そりゃあわかるけど……天使でしょ。何か問題あるの?」
少なくとも、悪魔が憑いているよりよっぽどマトモではなかろうか。善良な、神の使い。問題視すること自体理解できない。
「……ああ。もしかして、あんたたち悪魔だから、敵対してるとか? そりゃ確かに問題だよね」
「ま、確かにヤツらとオレらは敵対してる。それで、お前の知り合いに天使憑き、いんのか?」
私は頭を捻った。天使といえばやはり新世先輩を思い出すが、だからといって本当に天使が憑いているかと聞かれれば、必ずしもイエスと答えることは出来ない。先輩は『天使に愛された』という表現を用いただけであるし、そもそも私が本物の天使を見たことがないのだから、答えようがなかった。
答えが出せずにいると、ラウムはもういいと言って私の思考を遮った。タイムアップも今日二回目だ。新世先輩との思い出が徐々に塗りつぶされていくように感じ、何だかあまり快く思えなかった。
「思い当たることがないなら構わない。単なる偶然の言い回しかも知れないからな。だが強い魔力を持つ人間の周りには、それを求めた天使や悪魔が群がることもある。気を付けるんだな」
「き、気を付けろって言われても……」
私の思いをよそに、ラウムは私に背を向けた。今は被っていないパーカーのフードが、僅か左右に揺れる。
「俺は情報を集めてくる。また来るからな」
フードが揺れている、と思った瞬間。最後に一言だけを残し、少年の姿はその場から掻き消えていた。ドアも窓も空いていない。まさにワープしたかのようだった。
部屋には独り、私だけが取り残される。本来あるべき光景なのに、私は何故か釈然としないものを感じていた。
「また来るって言ってたな……もう、来なくていいよォッ!」
私が叫ぶのと、お母さんが下階から「ご飯できたよ」と呼び声を飛ばすのは同時だった。
-Days.8-
翌日。朝は昨日の悪天候が後を引いてか曇り空であったが、午後からは夏の眩しい太陽が顔を覗かせていた。
風もあり、気持ちのいい気候である。図書室も今日は空調機の電源を入れず、窓を開けて自然の風を取り込んでいた。
「…………」
両肘を机に預けた私は、いつもと変わらず本を広げ新世先輩を眺めていた。今日の本はあの分厚い聖書ではなく、『魔法皇女プリンセス?サリア』という、ポップな文字のタイトルが付いたライトノベルだ。雑食とはいえ、いつも難しい本を読んでいることの多い先輩にしては珍しい選書だった。
しかし趣の異なる本を読んでいる以外に、特段先輩の様子に変わりはみられない。特等席*Tの窓から吹き込む心地良い夏風に髪を揺らし、楽しそうにページを読み進めていた。
(天使、か……)
今日の私は、ただ先輩を見つめているだけではない。先輩に天使が憑いているのかどうかを知る手掛かりがないか、観察する目的もあった。あの悪魔の言うことを信じていいのかはわからなかったが、天使というものが実際どんなものなのか確かめてみたい気持ちはあった。
「? 明日葉さん?」
新世先輩が、不思議そうな表情を向けた。そこでようやく、真剣になりすぎたせいか睨むような目で先輩を凝視していたことに気付いた。
「どうしたの、機嫌悪い?」
「あ、い、いえ。ちょっと考え事してて……!」
慌てて取り繕うが、なんとも下手な嘘だ。だが先輩は疑うこともせず、良かったと言ってにっこり笑顔になった。
悪いものが憑いている人に、こんな笑顔ができるものなのだろうか。考えるほどに疑問は増えるばかりである。こんなことなら昨晩ラウムを引き止めてでも、天使について詳しく聞いておけばよかったと私は今更ながらに後悔した。
「あのー、先輩……」
「どうかした?」
悩んでいても仕方ない。観察してもわからないものはわからない。だから私は、思い切って直接聞いてみることにした。
もし全く関係がないのなら、冗談と思われて終わりだろう。駆け引きは苦手だが、精一杯の計算の下、私は口を開いた。
「天使に会ったこと、あります?」
突風が吹く。それは開け放たれた窓から図書室内にも吹き込み、私たちを巻き込んで駆け抜けていった。
揺らされた髪が目に入りそうになり、一瞬目を閉じる。再び目を開くと、その先には変わらぬ笑顔を浮かべる先輩の姿があった。
「ミカエルの言ったとおりだったね」
だが、口にした答えは私が想定していたようなものではなかった。それどころか、この発言が果たして私に対してのものなのかすらも怪しい。
何より、ミカエル。詳細についての知識はないにせよ、この名前くらいは、私でも知っている。
「先、輩……?」
「明日葉さん、場所を変えないかい?」
読んでいたライトノベルを閉じつつ、先輩は言った。その言葉には、口調には、今まで聞いたことのないような不穏な響きが込められていた。
快晴、風ありという心地よい気候ながら、不快な湿気が纏わり付いてくる。じりじりと燃える太陽に責められながら、私は新世先輩に連れられるようにして通学路を歩いていた。
先輩と一緒に歩く道。二日も連続で一緒に帰るなど、普段の私ならば両手を挙げて喜んだであろう出来事である。だが今の状況はいつもの、ひいては昨日のものとも全く異なる。
私は今、初めて先輩の挙動に警戒している。突然場所を変えようと言ったこと、図書室が閉まるまで読書をしている先輩が、こんな日中に帰路についていること。常と異なる事のオンパレードである。表情こそいつもの笑顔だが、今の私にはそれすらも張り付けた仮面のように見えて仕方なかった。
「あの、先輩……」
「うん。この辺りならいいかな」
私より数歩分ほど前を歩いていた先輩が、足を止めて振り返った。
この場所には覚えがある。先週、私が初めて悪魔と遭遇した場所――住宅街に面した、人気のない大通りである。
「ねぇ、明日葉さん。昨日、この世界をどう思うって聞いたよね?」
「はい……」
よく覚えている。私には難しくて理解できなかったが、理解できないことにこそ意味がある――そんな話をしてもらったはずだ。
「明日葉さんはこの世界に満足してる、そう言ってたよね。でも、僕はそう思わない」
先輩は確かに笑顔だった。だがその笑顔には明らかに陰が差している。いつも私が見てきた、好きな表情とは、異質のものだった。
新世先輩は肩に掛けていた通学鞄から分厚い書物を取り出すと、用済みだとでも言わんばかりに鞄を放り投げた。取り出された書物は、何度も目にしたあの『?γγελος.』である。
「この世界は弱者に優しくない。力を持つ者は弱者を踏みつけ、利権という名の蜜を啜り合う」
先輩はパラパラといくつかのページをめくり、同時に私には理解できない言語で何かを呟き始めた。その合間合間を縫うように、私への語りかけも継続する。
「世の中、腐ってる。医界も、政界も、経済界も。一握りの金持ちと権力者のために、奴らが救うべき多くの民衆が犠牲になっている。悲鳴を上げている」
先輩の詠唱と思わしき行動が進むたび、人智を超えた現象が起こり始めていることに私は気づいた。明らかに自然のものではない渦巻く風が私たちを中心に吹き始めている。また、先輩の持つ聖書が淡く光を帯び、次第にその明度を増していることにも気づいた。
「なまじ父さんが名の知れた医者だった分、政界にも少しはパイプがあってね。僕は幼い頃から色々な社会の暗部を目にしてきた。やがて、立派な医者になって腐った医界を内側から変えていこうと志すようになった」
聖書の輝きに照らされ、先輩の瞳に妖しい輝きが灯る。私は思わず、よろよろと数歩後退した。
先輩は語り続ける。普段あまり話さない先輩が饒舌に熱のこもった理想を語るのは、珍しい光景というよりもむしろ異様な光景ですらあった。
「でも、いずれじゃダメなんだ。今こうしている間にも、多くの弱者が苦しんでいる。それに、医界だけ変えても仕方ない。腐りきった、どうしようもないこの社会全てを作り直す必要がある」
聖書の輝きがさらに強くなる。もはや眩しくて直視することすら辛くなってきた。
「僕は、一度すべてを壊す。そして新たに創造する。弱者を虐げず、本当の平等を遵守する社会を。世界を。そのための力を、僕は手に入れたんだ」
聖書。咒い。天使。不可思議な怪現象。
――選ばれし者。
先輩の言葉と、目の前で繰り広げられる光景。私の中で、何かが繋がった気がした。
「先輩、まさか――!」
聖書の放つ輝きが、辺りを白で塗り潰す。目を開けていることはもはや不可能となり、私は両腕で目を覆った。
「紹介するよ、明日葉さん」
目を瞑っていても瞼の裏を白く染め上げる光の向こうから、渦巻く風の音に憚られることもなく、清々とした先輩の声が聞こえてきた。
「僕の新たなパートナー。改革の使者、その名を大天使ミカエル=B僕は彼と共に、新世界の神になる」
天魔が嗤う …To be continued.