天魔が嗤う(後篇)

池田 風太郎 


   表紙絵協力:藤村(ふじむら) 紫葵(しき) (漫画研究部)


 私、明日葉(あすのは)光莉(ひかり)は平凡な中学生。大好きな友達や片思いの先輩と、何気なくも充実した平凡な毎日を過ごしていた。

 ある日、私の過ごす当たり前の日々を打ち砕くものが現れる。自らを悪魔と称し、不思議な力を扱う少年・ラウム。彼は私に才能があると言い、契約を迫った。

 結局契約を交わすことなく、悪魔は去った。でも、私の目の前に現れた異常なもの≠ヘ、悪魔だけではなかった。

 私は驚きを隠せなかった。目の前に現れた改革の使者、天使・ミカエル。同じく人在らざるそれと契約を交わしたのは、私が思いを寄せる先輩、新世(にいせ)(わたる)だったのだから。




-Days.8-

 瞼を裏側まで焼き尽くすような白光が、ようやく収まった。目を閉じていたというのに、私の目は陽光に眩んだように視力を低下させている。

「先輩……! いったい何を……」

 ようやく絞り出した私の声は、自分でも驚く程に弱々しかった。まだ慣れ切らない目は現状を映すことができず、私は音声のみの世界で様子を窺う。

「何も怖がることはないよ、明日葉さん。僕は世界をただ世界の在り様を、本来在るべき姿に書き直したいだけなんだ。そろそろ目も慣れてくるだろう? 君にも見て欲しいんだ」

 見なくてもわかる、最高に高揚した声だ。先輩がここまで嬉々とした声を上げるところを、私は見たことがなかった。もっとも、今も見えてはいないのだが。

 先輩の言うように、ようやく視力が回復してきたようだ。うっすら目を開けると、滲んだ涙にぼやけた世界が、少しずつ像を描き始めた。

「…………!」

 目をこすり、さらに鮮明になる像を見る。それを完全に光景として認識したとき、私は喉の奥から声にならない息を漏らし、絶句した。

 空は一面が金色に輝き、そこにある色は他に雲の白しかない。その雲はある一点を中心として波紋状に再配列され、幾重にも層を成して果てない彼方へと続いていた。

 私の目の前には、新世先輩がいる。会話もしていたのだから、これは特に変わったところではない。私たちが今いる通学路の道も、また同様だ。しかし、新世先輩の背後――私から見て先輩を挟んだ向こう側に、有り得ないものが存在していた。

 先輩の頭一つ高くといったところに、金色に輝く大きな球体オブジェがある。球の半ばほどの所から三本の細い脚が伸びており、バネのように螺旋を描いて接地していた。

 その球体部分を椅子にして腰を下ろす者がいる。古代ローマ人が着ていた衣類(トーガ)と天女の羽衣を合わせたような、乳白色の衣を着た中性的な顔たちの男性だ。胸元には朱色の軽鎧を装備し、流れるような金髪を風に遊ばせている。そして何より目を引くのが、背中から生えた大きな二対の翼だ。白い一対と赤い一対、どちらも非常に絶妙な美しさを持っていた。

 この男性こそが、先輩の言う大天使なのだろう。説明をしてもらうまでもなく、一目瞭然だった。

「どうだい? これが僕のパートナー。世界の腐敗に嘆き、新世の輝きを望む者さ」

 私は知らず知らずのうち、片足を引いて警戒を強めていた。確かに神々しく、息を呑むほどに美しい。だがその美しさが何故か、私の背筋に冷たいものを走らせていた。

「先輩は……これで、何を……?」

「酷いな明日葉さん、これ呼ばわりだなんて。まぁ急だし驚いたよね。僕も最初にミカエルが姿を現した時はそうだった……でも大丈夫だよ、君にとって害になることは何もない。むしろ」

 先輩は一歩私に歩み寄り、片手を差し出した。背景にしているもののせいなのか、先輩の表情はいつになく輝いて見えた。

「僕は、明日葉さんの力が借りたい。僕と一緒に来てくれないかな? 君がこの手を取ってくれるなら、僕は喜んで君のための世界を創る。きっと後悔はさせない」

 急な勧誘に、私の戸惑いはさらに色濃さを増した。あの先輩が私を必要としてくれている。私を求めている。その事実が、私の心臓を強く連打していた。

 私は昨日、悪魔(ラウム)に言われたことを思い出した。彼ら悪魔は契約を持ちかけるとき、異常さを叩きつけ、異能への畏怖を与える所から始めると言っていた。神々しい景色も、感じる怖気(おぞけ)も、神性の裏返しであると思えば不思議はないのかも知れない。

「さあ、明日葉さん」

 ゴクリ。生唾を飲む音が、やけに大きく聞こえた。

 心臓が破れるのではないかというほど速く脈打っている。この手を取れば、私は……

「……さあ!」

 私は恐る恐る、右手を上げる。新世先輩の笑顔が、一層輝いた。

「ちょっと待てよ姉ちゃん、そりゃあんまりじゃねーの!?

 ……またこの声だ。私は先輩の手を握るために上げた手を頭頂にまで伸ばし、勢いをつけて背後へ裏拳を繰り出した。

「おわぁぁっ!? 危ねぇっ、何しやがんだよ!」

「さすがに三回目にもなったら驚かないよ! ていうか、なんか気配でわかったし」

「才能をそんな所で無駄遣いすんじゃねぇよ!」

 私が振り返ると、そこには抗議に怒る少年の姿があった。夏場なのに着込んだ厚手のフード付きパーカー、そしてニット帽という有り得ない格好だ。先輩の背後にいる天使(アレ)と比べて、こいつの格好を見て悪魔だと信じる人がいったいどれほどいるというのだろうか。

「とにかくだ……オレとの契約を差し置いて、何どこの馬の骨とも知れねぇ奴と一緒に行こうとしてんだよ!」

「私からすれば、あんたの方がよっぽど馬の骨だってば!」

「明日葉さん……」

 先輩の呼びかける声に、私はハッと振り向いた。流石は悪魔、せっかくのいいムードを見事に台無しにしてくれた。

 しかし、先輩の表情を見た私は、舞い上がっていた気持ちに冷水を掛けられたような気分になった。その表情は苦虫を噛み潰したかのように渋く、明らかな不機嫌が見て取れた。先輩もムードを潰されたことに怒っているのだろうか。

「明日葉さん。そいつ、悪魔……だよね?」

 どうやら違うらしい。だが、むしろこちらに気付かれている方がよっぽどややこしい事になる。天使と組んで世界を変えようという先輩に、悪魔と知り合いだということがプラスに働くはずがない。

「ちっ違うんです先輩! これは馬の骨で、私と契約とかそんな、えーと!」

「誰が馬の骨だ、落ち着け姉ちゃん!」

 違う。私は先輩に落ち着いてもらいたいのであって、ラウム(こいつ)に落ち着けと諭されたいわけではない。しかし、良い言葉も説明も出てこない私を見て、先輩の不審げな表情は一層色濃くなる。

 泣きたくなっていた。どうして私はかえって先輩を敵に回しそうな雰囲気になっていっているのだろうか。先輩の後ろにいるのが本当に天使だというのなら、こんな状況からこそ救い出して欲しい。

「ちっ、混乱してきやがったな……姉ちゃん、今は分が悪い。一旦退くぞ!」

「え? え、えええ、ちょっと!?

 ラウムが最初に痺れを切らしたらしい。誰がアクションを取るより早く私の手を取ると、私には理解できない難しい言葉を短く唱えた。漫画なんかでよく見る、呪文の詠唱だろうか。

 そう思っているうち、目の前にある先輩と金色の像が歪んだ。世界は色を混ぜてうねり、いつの間にか全て黒く塗りつぶされていた。




「……けほ、けほっ……?」

 気付けば、私は薄く埃を被った床の上に横たわっていた。辺りは薄暗く、湿気臭い。舞う埃を吸った私は、軽く咳き込んだ。

「気付いたか。ちょっと転移しただけで気を失うなんて、最近の都会っ子とやらは随分軟弱なんだな」

 頭上から、聞き慣れた声が降る。私が身を起こすと、腕を組んだ姿勢で私を見下ろす悪魔の姿が傍らにあった。

「転移って……?」

「短い距離を一瞬で移動する魔術だ。近くに廃工場があるみたいだったからな、逃げ込ませて貰った」

 魔術。聞き慣れないこともない、しかしなかなか現実味を帯びないその言葉が当たり前に使われることで、彼が異質な存在であるということを私は改めて認識した。

 この不思議な能力について詳しく聞きたくもあったが、その気配を察したのだろうか。ラウムは掌をこちらに向けて静止の意を示し、首を左右に振った。

「聞きたいことがあるのはわかるが、お預けだ。まずはお前から話して貰う必要がある。お前がさっき会ったのは天使だろ。あのガキは何者だ? 何で天使なんかに憑かれてやがる?」

「……先輩と、喧嘩するつもりなの? だったら、私……」

光莉、お前は何もわかってねぇ!」

「…………っ!」

 悪魔に手なんて貸すものか。半ば意地になっていた私は、その相手が出した突然の大声に、思わず怯んだ。

「……いや、大声出して悪い。確かに何も教えてないんだから、わかってるはずもないんだけどな」

「…………」

 怒ったかと思えば、反省を始める。彼の中でどういう感情の葛藤が起こっているのかは分からなかったが、その様子は人間(わたしたち)と殆ど違いがないように見えた。

 そういえば。彼が私を名前で呼ぶとき、それは真面目な話をする時だ。少なくとも過去二回はそうだった。ならば、聞くだけ聞いたほうが良いのだろうか。

「光莉、こっからは騙しも嘘もなしだ。だから、代わりにオレが悪魔だっていう先入観を捨ててくれないか。あの兄ちゃんのことを思うならな」

……新世、先輩……

 その表情にはいつも浮かべていた憎らしい笑顔はなく、ひたすら、どこまでも真剣だった。

 先輩の笑顔と不審の顔が、交互に脳裏に浮かぶ。本当にラウムとの話が先輩のためになるのかはわからなかったが、これだけ真面目に頼まれて邪険にしたのでは、それこそ悪魔的だ。

「……わかった。私の知ってることなら、教える。代わりに、もっと詳しく教えて。あんたたちのこと」

 ラウムの口の端が少し引き上がった。だがそれは邪悪なものではなく、見た目相応の子どもらしいものに見えた。




 それから、私は新世先輩について知っていることを掻い摘んで伝えた。私たちの出会い、図書室での奇妙な日常。先輩が本の虫であることも、お父さんが医者であるらしいことも、恥ずかしいけれど私が先輩に抱く思いも、全て説明した。

「なるほど、古い西洋の聖書か。(てんし)が憑いたのは、まず間違いなくソイツが原因だな

 ラウムの呟きに、私も頷いてみせた。先輩の様子が変になったのも、天使という存在との接点も、一番自然だと思うのはそこだ。というより、他に接点になりそうなものを私は知らない。

「天使ってやつは大抵そう、おカタい本に憑きたがるもんだからな」

「ねぇ、今度はあんたの話を聞かせてよ。天使って……それから、悪魔ってなんなの? 神様の使いとか、人間たぶらかして悪さばっかりしてるとか、そんなんじゃないの?」

「……なるほどな、そんな風に思ってるからオレのこともなかなか信じてくれねぇわけか。現代人の解釈ってのはみんなこんなもんなのかな。すっかり天使の奴らの掌で踊ってやがる……」

 私はただ質問しただけのつもりだったのだが、何故か落ち込まれてしまった。はぐらかしているわけではなさそうだが、私の解釈はそんなに間違っているのだろうか。

「そもそも、悪魔イコール悪って考えが悪いんだ。オレたちは何も好き好んで害を及ぼしてるわけじゃねーのよ」

 ラウムは人差し指をぴっと立てると、背後の空中に何かを描き始めた。指が通ったところは白い光が浮かんで残り、薄暗い空間に軌跡を記す。見えない黒板があるようだ。

 『悪魔』。最初にそう日本語で書くと、ラウムはそれを丸で囲った。

「オレたち……悪魔と呼ばれる存在は、古くからお前ら人間と関わってきた。オレたちは契約という儀式で結ばれ、悪魔はその主に不思議な力を与えた。魔術とか、所謂『人知を超えた力』ってやつだ。そうすることで、人間は一般には扱えない力を持つことができ、様々な事を成すことが出来た。見返りに、人間はオレたちに『代償』を差し出し、力を蓄えさせる。悪魔と人間はお互いがお互いを高め合う、隣人のような存在だった」

 『悪魔』の隣に『人間』という文字を書き、同様に丸で囲む。その間に、説明の抜粋らしき言葉が徐々に連ねられていった。

「悪魔が何を代償に求めるかは、個々で違う。また、悪魔を使役する人の才能も個体ごとにまちまちだ。ソロモンの話は昨日したよな? だが、人間の欲はしばしば、才能に比例しない。力なき者が高すぎるものを望み、多すぎるものを掴もうとすれば、器は壊れる。オレたちは代償さえ手に入れられればそれ以外はあまり気にしないからな、身を破滅させた者も過去数多くいる。悪魔が憑くと不幸になるとか、その辺りの謂われは恐らくこれが原因の一つだろう」

 『身を滅ぼすのは悪魔ではなく、不釣合いな人間の欲』――そんな言葉が書き加えられた。行書体のような、無駄に流麗で美しい筆跡だ。どうやら意図してやっているらしいが、ここに拘る意味があるのだろうか。

「じゃあさ、私たちが思ってるような悪事を働いたりするイメージは……」

「まぁ百パーセント間違いだとは言わない。オレもそうだが、悪魔は大抵いたずら好きで天邪鬼な性格だからな。だが、好んで人間に悪事を働くというのは誤りだ。そこはわかってくれよ、姉ちゃん」

「うん……ごめん。勘違いしてたんだね、私」

 何だか、とても悪いことをしていた気分になった。彼を邪険に扱ってきたのは、正しいことではなかったのではないか。

「わかってくれたなら、早速契約しようぜ! いい感じに人気(ひとけ)もないわけだしな、ぐふふ……」

 訂正。急に気持ち悪い笑みで迫ってくるエロガキには、とりあえず蹴りを入れておくのが正しい判断であると再認識した。




「……それで。悪魔のことはだいたいわかったけど、じゃあ天使は? まさか、神様の使いっていう良いイメージも誤りだ、とか言わないよね?」

「おー、いてて……凄ぇ蹴りだな、誰に教わったんだこんなの……あー、天使のことか?」

 ラウムは、ほんの僅か前に鋭い蹴りを受けた左腰をさすりながら、苦々しい声をあげた。ちなみに、この蹴りを見舞ったのは私ではない。この廃工場にいるのは私とラウムだけだが、それでも私ではない。断じて。こんなにお淑やかな少女が、まさかこんな短いスカートで咲山千枝里(チエ)直伝のミドルキックを放つわけがない。

「結論から言うと、残念ながらそのイメージも誤りだ。オレたちに言わせれば、天使(あいつら)は胡散臭い詐欺師ってところだな。冗談とかじゃなく、マジでさ」

 詐欺師。

 サギシ。

 さぎし。

 私の中で、何かが崩れ落ちていくような気がした。何ということだろう。こんな事実を知ってしまっては、もう赤ちゃんに天使のような寝顔だなんて言えないし、素敵なランドセルに『ら・ら・ら・天使の○根♪』なんてことも言えない。私は愕然と膝をついた。

「……天使が天使じゃなかったら、引きこもりの救済に来るのはただの特撮オタクじゃん……」

「何を言ってるのか全く分かんねぇけど、事実は事実だから。諦めてくれ」

 ラウムは肩をすくめて見せたあと、後ろのエア黒板に『天使』という単語を書き足した。ほかの文章は行書体のように流麗なのに、何故かこの単語だけミミズの這ったような、辛うじて読めるという程に雑な文字だ。よっぽど嫌いなのだろう。

「天使も、元々はオレらと同族なんだ。契約によって力を与え、対価を糧とする。大昔は天使も悪魔も、全く区別する必要すらなかった」

 だが。ラウムはそう言って、言葉を続ける。私もようやくショックから立ち直り、彼の話に再び耳を傾けていた。

「いつ頃だったかな。もう忘れちまうくらい前だが、現在天使と呼ばれる思想の連中が、契約を簡略化しようと考え始めたんだ。元々、何の異能を持たない人間を下等種扱いする連中は少なくなかったが、その中の急進派が中心だな」

「でも、契約って面倒なのも多いんでしょ? 簡略化できるなら、すればいいじゃん」

「違うんだな。簡略化といっても、省くのは儀式そのものじゃない。人間の意志だ」

 ラウムは『天使』という言葉を乱暴に指でつついた。ミミズのような文字が一瞬砕けて光の粒となり、すぐに元の形に戻る。

「人間の意思を、省略?」

「そう。オレら悪魔は、迫りはするがお前らの意思を最優先してるだろ? 一応は。無理矢理に契約することもないし、聞かれればリスクも代償の内容も全て答えている。だが、天使の奴らは違う。こいつと決めた相手に憑いたら、あの手この手で言いくるめて、相手に自分を信用させる。そして、一方的に力を与え、代償を毟り取る。しかもその代償が何であるか教えないから、契約者は無償で力を得たと思い込み、自らを選ばれた者だと信じてしまうんだ」

 力を、手に入れた――新世先輩の言葉が、頭の内に響いた気がした。突いたままにの膝が、小刻みに震え始める。

「宗教じみた思想が、代償を取られている自覚を更に鈍らせている。だから天使は聖書のような思想本に取り憑き、獲物を狙っているんだ。自らを神だと語る奴にろくな奴はいない。せいぜい独裁者や狂った教祖様が成れの果てだ」

 僕は、世界を変える。そして、新世界の神になる。

 先輩の言葉、一つ一つを思い出す。その度、鼓動が早まっていくのが分かる。ラウムの言葉一つ一つが、いちいち合致していくことに、私が感じているこの気持ちはいったい何なのだろうか。

「マハトマ・ガンディー……だったか。お前ら人間の故人も、こんな言葉を遺している。『歴史上の大罪は、全て宗教の名のもとに行われている』ってな」

 大罪。ずしりと思いその言葉が、私の精神にさらなる負荷を掛ける。私でも知っている歴史人物の発言とあって、その説得力は並々ならぬものだった。

「……じゃあさ。そんな天使と組んでる先輩って、やっぱり、悪者……なの?」

 ようやく、私はこの重い気持ちの正体に行き着いた。ずっと信頼していた、好きだった先輩が、悪である。そう思うことが辛かったのだ。認めたくなかったのだ。

 おずおずと尋ねる私にラウムは最初、きょとんとした表情を向けた。だがそれはすぐに崩れ、ぶっと吹き出す。

「ふっはははは! なぁに大丈夫、お前の心配してるようなことはないさ! はっははは!」

「な、何さ! 私は真剣だよぉ!」

 腹を抱えて笑い始めるラウム。向けられた眼差しが、何故かとても小憎たらしいものに見えた。

「ははは――いいか。さっきも言ったが、天使は人の心の隙間につけ込んで、いいように言いくるめちまうんだ。天使が悪どいっても、人間まで悪い奴だとは限らない。むしろ天使に騙されるような奴は、今でも正義に燃えてるだろうさ。お前のすべきことは、外れちまったレールに正しく戻してやることさ。いくらあの兄ちゃんが正義に燃えてても、憑かれたままじゃ先は細いぜ」

 どうやら見透かされたらしい。私は段々顔が熱くなっていくのを感じた。くっ、こんなことなら先輩への想いは話すんじゃなかった。

 でも。私の心は徐々に縛られた鎖を打ち砕き、温かさを取り戻していった。よくわかる、これが安堵という感覚なのだろう。

「……もう。でも、ありがと。私、頑張るよ」

 足に力を込め、ひんやりとした床をしっかり踏みしめる。膝はもう震えない。

 私はまくった袖と、裾を上げたスカートを元の位置にまで戻した。夏の暑さに合わせたこの服装は、ここでは少し肌寒かったのだ。

「うん……ラウム。どうやら、時間切れっぽいよ」

「は?」

 ラウムの頓狂な声を聞くのもそこそこに、私はラウム越し、部屋の入口の方をじっと見つめた。三……二……一。

 ……ゼロ。

「ラウム、伏せて!」

 私の声が部屋に響くのと、部屋の入口が周りの壁ごと爆発して吹き飛んだのは、殆ど同時だった。

 ただでさえ埃っぽいというのに、爆発によって生じた爆風は、未だ堆積したままの埃を一気に巻き上げた。幸いにも手で顔を覆っていた私は、煙たい埃の襲撃に耐えきることが出来た。

 悪魔使いの適正、というものだろうか。どうやらラウムより早く、それの来襲に私は気付いていた。

 もうもうと上がる埃の霧、その向こうから人影が。そして、金色の光が、徐々に覗いてくる。私の勘が間違っていなかったことが、望まずして証明されてしまった。

「やあ、明日葉さん。こんな所にいたんだね。だいぶ探したんだよ」

「先輩……」

 天使ミカエルを背後に従え、現れたのは私の思い人。だがこの場において、彼は私の乗り越えねばならない壁だった。

 新世亘は別れる前の不審げな表情とは一転し、いつもの素敵な笑顔に戻っていた。心が揺れそうになるが、私はそれをじっと堪えた。

「その様子だと、だいぶその悪魔に色々と吹き込まれたようだね。騙されないで、そいつは悪魔なんだよ。さあ、早くこっちへ! あとはミカエルが何とかしてくれるから」

 先輩はあの天使を、心の底から信頼しているらしい。説得は不可能だろう。何を説明しても「悪魔に騙されている」と返されるのは、馬鹿な私にも容易に想像できた。

 私は一度、大きく深呼吸をした。気持ちを落ち着け、状況の打破に集中する。

「先輩。ひとつだけ、質問があります」

 先輩は反応を返さない。ただ笑顔でそこに在るだけだ。私が問いを投げるのを待っているのだろう。

「先輩は、世界を作り直して弱者を救うと言っていました。具体的にどうするんですか?」

「……あまり汚いやり方を、君に教えたくはないんだけどね。手始めに、悪い官僚や腐った上層の人間、腐敗の大本を消す。僕とミカエルなら、それができる」

「ひと握りの人間が特をして、他を虐げる世界……先輩が嫌ったのは、そんな世界じゃないんですか?」

「必要悪って、知ってるかい? 革命は痛みを伴うんだ」

「違う! そんなの、先輩のやり方じゃない!!

 必死に抑えていた感情が、堰を切って飛び出した。やっぱり、無理。冷静に淡々と語るのも、私には向いていない。

「先輩、言ってたじゃないですか。内側から変えていくって。そのために目標を持って努力していたことも、私知ってます……なのに! そんな急ごしらえの武力で、無理やりだなんて! 先輩がやろうとしてるのは、革命なんかじゃない! ただのエゴです!」

 ふぅ……一気に言い切って、私は一息をつく。言いたいことは言った。あとは、彼の反応次第である。

 その先輩はと言えば、笑顔が消え、怖いほどの無表情になっている。さすがに、私の糾弾は堪えたのだろうか。

「……ミカエル。残念だね」

 だが、私の期待は打ち砕かれた。呼んで欲しい名前は、呼ばれなかった。

「明日葉さん。君は天使の力を扱う、類稀な才能を持っている。無論、悪魔もだ。僕とミカエルは君のそんな力が悪魔に利用されないよう、早く手を打とうと話していたんだ。でも遅かったようだ」

 天使がゆっくりと高度を上げている。二対の翼が、工場の高い天井に届きそうだった。

「君ほどの才能が悪魔に呑まれてしまえば、悪魔祓い程度では元に戻せない。すると逆に、僕たちの目的を果たす上で非常に厄介だ」

 ふぅ……言い切った時と別の息が、私の口から漏れ出た。

「残念だ。僕も、悲しい……でも。僕の理想を達成するため、そして明日葉さんの魂がこれ以上穢れないようにするため」

 交渉決裂。現実とは非情だ。私は段々溢れそうになる涙を必死で堪えつつ、先輩を睨みつけた。

「明日葉さん。悪いけど、ここで消えてもらうよ」

 先輩の言葉と同時に、先輩の背後から溢れていた金色が爆発するように明度を増した。突風が起こり、廃工場内の各設備をガタガタとけたたましく狂騒させる。

 私は思わず顔を腕で覆う。左右で何かが砕ける音がした。

「光莉、俺と契約しろ!!

 どこからか、少し高い少年の声がした。よかった、ラウムは無事らしい。さすがは悪魔、殺しても死ななそうだ。

「馬鹿、契約はイヤって言ったでしょ! ていうか、こんな状況で出来るわけないでしょ!!

「馬鹿はどっちだ! 見ろ、相手は天使憑きだ。生身のまま戦えるわけねーだろ! さっさと転移で逃げて、準備整えるぞ!」

「イヤだ! 私は逃げない。ここで先輩を助けて、武力革命(あんなの)は間違ってるって教えるの!!

 ラウムの言うことが正しいのはわかっている。私なんかが、革命の力を手にした先輩に敵うところなんて何一つないということも。

 でも、やはり契約は嫌だった。緊急時とは言え、軽々しく自分の貞潔を捧げられるほど、私は女を捨てていない。

 私は目を開けた。光の爆発は収まっており、視力にも問題はない。

「ラウム、私と一緒に戦って! 契約なんかしなくても、あんたは魔術使えるんでしょ!」

「契約者なしの魔術じゃ、制限がキツいんだよ! とても天使憑きに勝てるような魔力は――」

 ラウムの発言を遮るように、私の足元の床が激しく弾け飛んだ。私は慌てて後退し、その破片を避けようとするが、避け切れるものではない。大きな傷には至らなかったが、私は両足の数カ所が切れたのを視覚ではなく、痛覚から感じ取っていた。

「痛っつぅぅ……ラウム、あんたソロモンとかいう人のお抱えだったんでしょ! それとも口ばっかりで本当は弱っちい、チキン悪魔なんじゃないの!?

「明日葉さん、お喋りしてる場合じゃないと思うよ」

 大きな工業機械が暴風に巻かれて吹き飛ばされてくるのを、私は辛々回避した。天窓が砕け、ガラス片となって降る。屋内はまさに大災害の最中(さなか)にあるようだった。

「言いやがったな。安っぽい挑発だけど、乗ってやるよ。見せてやる、光莉」

 私の頭上まで迫ったガラス片が、何かに弾かれた。しゃらしゃらと乾いた音を立て、少し離れた場所に落ちたガラス片はさらに細かく砕け散る。

 いつの間にか、私はラウムに手を掴まれていた。その腕一本を軸に、私の体は右へ左へと休む間もなく引っ張られる。まるで下手な踊りに付き合わされているようだったが、その間、私に向く全ての攻撃が空を切っていた。

「――Wataru Nise――第二十三、第十四の音。性質は正の太陽。契約者ミカエル。革命の朱き雀。なるほどな……」

 よく分からないことを言いながら、ラウムは乱暴に私を振り回す。右に行けば耳の傍を金属片が掠め、左に行けば足の下が爆発する。だが、依然として直撃を受ける様子はない。

「いいか光莉、よく聞け。あいつに憑いてる天使は確かに強力だ。古代から生き残ってる強者で、性質も極めて厄介だ。だが、契約者の方――新世亘の能力は、決して高いといえるものじゃない。見ろ」

 私はラウムに振り回されながら、攻撃の主、新世亘の様子を見た。手にした聖書?γγελο?(アンゲロス).』を指でなぞりながら、しきりに何か呪文らしきものを呟いている。それに合わせ、後ろに浮かんだ天使が攻撃を繰り出しているようだった。

(ミカエル)は今、大まかに三種類の攻撃を繰り出している。風を起こす、爆破する、輝きを放つだ。だが、大天使である奴がその程度しか出来ないはずがない。だとすれば、契約者の実力不足……あるいは、契約して日が浅いために順応不足で思うように力が振るえないわけだ。どっちにしろ、この機会を狙わない手はない」

 ちょっと痛むぜ。そう言って、ラウムは掴んだ手を大きく振った。飛んできた何か硬いものが腕を掠め、僅かに切り傷を遺した。

「痛っ……」

「光莉。本来の手段とは違うが、血の契りを交わさせてもらう」

「え……あ、ちょっ……!?

 否定する間も拒絶する間も与えられず、傷を負った腕をラウムに掴まれる。ラウムはその場に片膝を着くと、腕から僅か滴る血を舌ですくい、そして傷口にキスをした。

「……!!

 一瞬、目の前に星が散らばるようだった。全身が急に熱く火照りだし、全身の傷の痛みがどんどん薄くなっていく。その一方で、頭はかつてないほど冴え、頭の中に図書館が出来たかのごとく、次々と知識が湧き出してきた。

 近くの床が爆破され、熱風が吹き付ける。逆巻く風が巻き上げる土埃の中に、私は黒羽が混じっているのを見つけた。

「な……何を……?」

 目の前に、砕けた機械の部品が迫ってくる。私は迷いなくそれらに平手を振るい、巻き起こした風がそれらを当たり前のように吹き飛ばした。向こうで、新世亘が目を見開くのが見えた。

「仮契約だ。お前の『乙女の血』を代償として受け、代わりにオレの力を一部、分け与えた。その状態なら効力は一時的で、お前の身体に後遺症は一切ない。緊急だからな、これ位は我慢してもらうぜ」

 ラウムの声が聞こえたが、聞くまでもなかった。浮かんだ疑問は、殆ど全て自分の中から湧いてくる知識が答えとして与えてくれる。疑問を抱いても、質問する前に自己解決できるのは、なんとも奇妙な感覚だった。

「これなら、やれる……!」

 できること、やるべきことが、次々に浮かんでくる。私は心の中にイメージを描き、指さすようにして天使へと人差し指を向けた。

 どこからか現れた黒羽が渦を成し、先輩を包み込む。すると新世先輩は突然あたりをキョロキョロと見回し始めた。同時に手当たり次第爆撃を繰り出すが、それは見当違いの場所を破壊し、煙を上げさせただけだった。

「すごい……!」

 おそらく今、彼は自分が『突然現れた壁に四方を囲まれている』と思い込んでいるはずだ。その壁を破壊しようと、爆撃を繰り出しているに違いない。

 心に描いたイメージは、無限に出口のない闇の迷路。ラウムの言う恐れの世界≠真似したものだ。どうやら上手くいったようで、先輩は私が生み出した幻想の中に囚われているのだ。

「凄いよラウム! 魔法使いになったみたい!」

「まさにそうなってんだよ。幻術なんて、こと陥れるにおいて右に出る者無しな、オレの力を使えば朝飯前ってな!」

 悪魔、ラウム。知恵と富、そして破壊を権能とする悪魔。

 彼と契約した者は無限の知識と巨万の富を得る。彼自身も他人を陥れ、自尊心を破壊する。また都市を破壊するなど、壊す力を持っている。完膚なき破壊は再生の始まり、即ち死神の逆位置=Bこれは私が持つ、悪魔使いの才能に共通するものであるらしい。

「ってことは、私も先輩みたいにドカーンってやったり、暴風を起こしたりも……!?

「いや、無理だ。仮契約だからな、せいぜい少し頭の回りと身体能力が高まって、強めの風を起こす程度だ。今やったみたいにな」

 魔術といえばもっとド派手なものを想像していたのに、何だか地味だ。私は少し落胆したが、今はそんなことを言っている場合ではない。ないものをねだるより、あるものを駆使するのが得策だ。

「……やってくれたね、明日葉さん。幻術か」

 そうこうしているうち、唸るような声が聞こえた。どうやら、先輩は早くも迷路が幻術であることに気がついたらしい。この様子だと、術を打ち破って攻撃を再開してくるのも時間の問題だろう。

「ら、ラウム! どうすれば……」

「本来なら、うまく口で言いくるめて隙を作るのがオレの契約者のやり方なんだけどな。あの兄ちゃんは聞く耳持たねえし、光莉(おまえ)じゃ無理じゃねーかな……

「な、何さそれぇぇ!」

 いくら知識が出てきても、私には実戦の経験値がまるでない。それは相手も同じはずなのだが、相手に憑いているのはよりによって戦闘向きの天使だ。いくら悪魔の力を持ってしても、今の私が戦闘力で敵うとは思えない。

 ならば、知識はどうだろう。本の虫である彼に、悪魔と共有した知識はどこまで通用するのだろうか。

「とにかく、あの本だ。あれを破壊すれば、天使との繋がりは消える。奴を倒せはしないが、少なくとも兄ちゃんを天使の影響下から救い出すことはできるな」

「……わかった、やってみる」

 先輩の全身が強い金色の光に包まれる。術者である私には、今まさに彼が幻覚を打ち破ったのだとわかった。

 私は足元に散らばった雑多な残骸を急いで拾い集め、高く放り投げる。新世亘がそれに目を取られた瞬間、私はひび割れた床を蹴って彼のいる方へと駆け始めた。

「先輩! 私の話を、聞いてください!」

 放られたものはすぐに空中で爆散させられる。魔術の発現を警戒しただろうが、あんなものは目くらましだ。私はひたすら、距離を詰める。

 悪魔が憑いても、結局私は馬鹿正直らしい。一度断念した説得に、再び希望を抱いている。

「悪いものに憑かれているのは、先輩です。その天使は、先輩を騙して自分のいいように操ろうとしてるんです!」

 幾度となく引き起こされた爆発が、床を砕いた。先程までの私ならば巻き込まれていただろうそれは、今の私には面白いほど軌道が読める。我ながら器用なステップで、左右に振れながら私は走る。

「何を馬鹿な。明日葉さんこそ、騙されてるんだ! 何を吹き込まれたか知らないけど、奴は悪魔だ。信じること自体が間違ってる! 明日葉さん、強情を張るのはやめて僕と共に来い! 神は僕に試練を与えた。痛みを乗り終え、みんなが笑顔でいられる世界を作れと。君と、一緒に! そうミカエルが教えてくれた!」

「『歴史上の大罪は、全て宗教の名のもとに行われている』ッ!!

 先輩の表情が固まった。博識な先輩なら、この言葉を聞いたことがあるのかも知れない。知っていようと知っていまいと、効果があるのならしめたものだ。

 私は叫びながら、爆発によって生み出された床の破片のうち、鋭利なものを一つ空中で手にとった。狙いは?γγελο?(アンゲロス).』。これを破壊すれば、先輩は解放される。

「神とか、天使とか、そんな曖昧なものにすがるから本当のことが見えなくなるんです! 先輩が今まで積み上げてきたものは決して無駄じゃないんです、それを一時の誘惑で、自分で壊すような真似、やめてください!」

「う……うるさぁぁーいッ!!

 先輩が片手を高く掲げ、吠えるように呪文を唱える。直後、私の体は巻き起こる暴風に推進力を奪われ、そのまま宙に飛ばされた。先輩の姿が、床が、どんどん遠ざかる。

「先輩……もうやめてぇぇ! 私の好きだった先輩に、戻ってください――……ッ!」

 先輩の表情が、更に無機質なものへと固まる。風が弱まり、上昇力を失った私の体は、重力によって引き戻されていた。

「ひゃあああああ――ッ!!

 このまま地面にぶつかれば、痛いではすまない。幸い私にも風の魔術が使えるらしいが、うまく緩和できるだろうか。

「小娘が。私たちの大義を愚弄しようというのか? ……ワタルよ。悪魔憑きなどの言葉に耳を貸すことはない」

 空中で思考する一瞬の間。地面と私、その間を阻むように、大きな姿が割って入った。低い地鳴りのような声。これが私の落下方向に浮かぶ大天使、ミカエルの声なのだろう。それは神々しい神性ではなく、禍々しい重圧をこそ感じさせた。

 ミカエルは手にした剣の切っ先を、私に向ける。このままいけば、串刺しは免れない。

「先輩! 悪魔も、天使も、元は一つなんです!」

 とても恐ろしい光景だった。だが、不思議と恐怖はない。この天使は私の行く手を阻む障害とはなり得ない、そんな確信があった。故に、私が声を届ける相手は、変わらずその下にいる人物である。私の関心は、最初からこの天使にはない。眼中にもない。

 いま、私は先輩のところへ行く。そのための障害を、越える。

「悪魔というのは、後に天使と呼ばれた者たちが、敵対勢力を排除するために行なったイメージ戦略の一つなんです! 昔の人は皆、不思議な力と大いなる知性を持った彼らを、畏れを込めてこう呼んでいました――――」

 私に向いた刃が突然、光の粒子となって消え失せた。ミカエルは驚愕に、目を見開く――暇も与えられず、横から突っ込んできた黒い影に吹き飛ばされ、壁に激突する。

 ミカエルの居た跡に漂う黒羽を突き抜け、私は降下を続ける。進路を阻むものは、もう何もなくなった。

「――――天地をもひっくり返す、魔術を使う異能のモノ。そう、天魔≠ニ……!!

 黒羽を抜ける瞬間、私はちらりと横に視線を向けた。鉤爪を用いて天使を壁へ押し込むそれは、人ほどの大きさを持つ巨大な大鴉(おおからす)。それは落ちていく私を横目に見据え、鋭く一声啼いた。私にはそれが、天を行く魔物の、高らかな嗤いに聞こえた。

 先輩は魂が抜けたように、ただその場に立ち尽くしている。一切の抵抗も反撃の発現も、その様子からは窺えない。

「先輩、一緒に変えましょう。世界を。ゆっくり、だけど」

 私は手にしたままの鋭い破片を、正面に構えた。すぐ真下には先輩の姿がある。そして。

 分厚い紙が裂ける、小さくくぐもった音がした。




-Days.9

 放課後のチャイムが鳴る、ざわついた教室。どれだけ世界が腐敗していようと、此処はいつも平和だ。

「光莉、これ……」

 帰り荷を整える私の席に、大柄な女生徒が現れる。彼女は少し照れくさそうに、手にしたものを私に差し出した。

「焼きそばパン?」

「ほら、その……昨日は悪かったよ。これでチャラにして、な……?」

 いつもの尊大な態度はどこへやら、すっかりしおらしくなってしまった咲山(さきやま)千枝里(ちえり)の姿に、私は思わず失笑した。

「ははは、もう。別に怒ってないし、もういいのに!」

「いや、でもその……やっぱ食いもんの恨みは、な……」

 私は彼女の後ろで、顔を見合わせてクスクス笑う二人の生徒に気がついた。クラスメイトの、清水(しみず)悠里(ゆうり)落合(おちあい)由姫(ゆき)。チエの不自然な挙動は、恐らく彼女らのせいだろう。おおかた、たっぷり説教されたといったところか。特にユキには日頃から、チエの目付のような雰囲気がある。チエの不運を思い、私は苦笑しながらも焼きそばパンを受け取った。

「ところで、なんで昼休みじゃなくて放課後(いま)なの?」

「そりゃ当然、せっかく朝買ってたやつを耐えられなくて食べて、さっき購買で買ってきたから――」

「馬鹿、何でバラすんだよ! お前は悪魔か!」

 聞く前から大体ついていた予想は、ユウの暴露によって裏付けられた。慌てて口を塞ぐチエの様子が、どこか可愛らしく見える。

「……悪魔も、そう悪いもんじゃないよ」

「え?」

 私の呟きに、チエが不思議そうな表情を浮かべる。何でもないと言って、私はまた笑った。




 夕暮れに照らされた廊下を、私は一人歩く。開け放たれた窓からは湿気を含む、しかし心地の良い涼風が吹き込んできている。

「よお姉ちゃん、上機嫌だな! なんかイイことあんのかよ?」

 一人のはずの廊下に、私のものではない声が聞こえた。足を止めて窓の外を見ると、一羽の鴉が近くの木で羽を休めている。

「学校には来ないでって、言わなかったっけ?」

「まぁまぁ、カタいこと言うなよ。学校の中には行かないさ。それに、この姿ならバレることもねーだろ?」

「しつこく付き纏っても、契約はしないからね?」

「ああ、今はあの兄ちゃんとよろしくやりな。だが、いずれ契約は取り付けてやる。昨日の件で再確認した。やっぱりお前みたいな逸材、絶対に逃せねえな!」

 もう。私は不満をこめて、わざと大きなため息をついた。返事はない。私は止めた足を再び動かし、目的地への歩を続けた。

 人間は、変えていける生き物だ。そうやって過ちを正し、明日を創っていく。急じゃなくても、ゆっくり、少しずつ。そうして、私たちの今日は、日常は、姿を変えていく。

 廊下を越え、階段を上りきった私は、目的地のドア前に立つ。人が、世界が変わり続けても、このドキドキは変わらない。私は少しづつ高鳴っていく鼓動を抑えようと大きく深呼吸し、それから目の前の薄板を一気に横に引いた。空調機の冷えた空気と、紙やインクの少し古臭い匂いが、すんと鼻に届いた。



天魔が嗤う …Fin.

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