Swallow Tears

池田 風太郎  

 

 信号も設置されていない小さな交差点。杜撰な管理から光の枯れた街灯が疎らに並び立ち、近場にある光源といえば手元にある高機能携帯電話(スマートフォン)くらいのものだ。

 画面に映し出されるのは、デジタルな文字で表示された四時四十分=B暁の陽を目前に、街は未だ夜闇に包まれていた。

 往来を通る車の姿はない。道としての役割を休眠した交差点は、ただ一角に存在する少女の為だけに在るといっても過言ではなかった。

「……ふう……」

 少女は悴んだ手に白い息を吐きかけながら、その中にある小さな画面を凝視している。もう数刻もその場を動かず、このままだ。暖かそうな毛皮のコートに身を包んでいるとはいえ、とうに全身は凍えきっていた。

 だが、そんな時間も間もなく終わる。少女はただ、スマートフォンの画面に目を落としながら、その時が来るのを待ち続けていた。

 画面の表示が進む。示す時刻は四時四十一分=B厳しい環境で待ち続ける少女には、ここまでの時間が途方もない長さに感じる。故に、たった一分の経過でも嬉しく感じた。

「…………」

 まだ、こんな些細なことにも喜びを感じられるのか。少女は自虐的な感想を抱きつつ、画面の変化をただ見つめている。

 

 

 『交差点の悪魔』という話をご存知だろうか。かつて某国の伝説的なミュージシャンが出逢い、その生命と引き換えに常人離れした技術と発想を与えたとされる悪魔の話である。そのミュージシャンは早逝したが、その成功は一国だけでなく、海を渡った他国にまで影響を与えたという。

 一見、伝説的とまで謳われた有名人にならばいくらでも付いてきそうな尾ひれにも思える。だが、最近になってその悪魔が日本にも現れたという噂がインターネットを介して広まり、一部で話題になっていた。もちろん会いたいとあれこれ試す者もおり、成功談なるものが掲載されることもあったが、どれも真偽は怪しいものばかりである。元々が眉唾物であったこともあり、やがて人々の関心は急速に寂れていった。

 少女が待っているのは、まさにこの『交差点の悪魔』であった。今やネットですら少数のみが信奉する、忘れられた噂。見つけた当初は少女も馬鹿馬鹿しいと取り合わなかったものである。だがその場所が偶然にも少女の住む町であること、そして何より、命を捧げてでも叶えたい願いが出来たこと。これらが少女の心を動かした。非現実的な噂でも、悪魔でも何でも。願いが叶うならば、手段は問わない。その思いが、この交差点へと彼女を向かわせていた。

 悪魔と出逢う方法も至って単純。周りに誰もいない状況で、四時四十四分になった瞬間交差点の中央に立つ。すると悪魔が現れ、願いを一つ叶えてくれるというものであった。

 単純ではあったが、この条件は決して簡単ではない。いくら都心と離れた田舎町、しかも夜明け前とあっても、周りに誰もいないとは限らない。車が通れば勿論アウトであるし、噂の最盛期は真偽を確かめに来た者同士が鉢合わせして失敗、ということもあったようだ。もっとも、噂が寂れた今となっては後者の心配はあまりない。現に今、少女の周りには誰もいない。それでも万一現れるかも知れないと警戒したから、何時間も前から交差点の傍(ここ)に立ち、先客であることをアピールしていたのだ。

 凍えた躰は努力の、そして真剣さの証明である。少女はここまでの忍耐を自身で褒めながら、僅かとなった残り時間を秒読み(カウントダウン)で消化した。

 

 

 四時四十三分。人の気配も車のライトも見えない。少女は数時間も光を放ち続け、電池残量が限界近くなったスマートフォンをコートのポケットにしまうと、大きく深呼吸をした。

 いよいよだ……!

 次第に高ぶる気持ちを落ち着かせると、交差点の中央へと歩みを進める。決められた時間にはまだ一分あるが、噂では時間ちょうどに交差点の中に居さえすればいい事になっている……らしい。あまり早すぎても車が来たとき危ないが、一分を切ったとなればもう問題もないだろう。

 目的地で歩みを止め、もう一度大きく息を吸う。冷え切った空気が肺を満たす、内側から凍っていくような感覚。既に外側から凍えているというのに、それはとても気持ちが良かった。

 頭の中では、時刻が四十三分になった時点から秒読みを続けている。もう間もなく六十秒経つ。

 三、二、一――――

 待ち続けた時が訪れる。少女は再び高まる気持ちのままに、最後の数秒を声にして読み上げていた。

 

 

 

 …………。

 しかし。秒読みが済んでも、何も起こる気配はない。秒読みに誤差があったのかと少し待ってみたが、それでも状況は変わらない。慌てて時刻を確認しようとスマートフォンを取り出してみたが、どうやらこの僅かの時間で限界を迎えたらしい。画面は暗く沈黙したまま、何も映し出しはしなかった。

 さらに少しの間、少女は無言で立ち尽くす。先ほど吸い込んだ空気が、重い氷塊になって残ったような、とても嫌な気分だ。

 どう遅めに見積もっても、とうに四十四分は迎えたはずだ。辺りを見回すも、相変わらず人気の無い往来は見た目にも寒々しい。条件は満たしているのに、何も起こらない。それが意味するものはつまり。

「……は、はは……やっぱ、ガセか……」

 寒さではない理由から震える声で、少女は考えてみれば当たり前の結論を導き出し、冷たいアスファルトの道路に膝を突いた。

 

「まあまあ、そう気を落とすな。人生は上手くいく方が珍しい。お前は若いんだから何事も挑戦ってな、ケケケ」

 

 少女はびくんと肩を跳ね上げると、弾かれたように立ち上がった。突然の声に驚いたのもそうだが、もしこの場に誰かがいたとすれば、それが原因で悪魔が現れなかったという可能性も否定出来ない。その可能性の方が低いのは誰が見ても明白だが、少なくとも少女はそう思った。特に、この噂を知る者で意図的に妨害したとすれば、尚のこと意地が悪い。

 だが、どこを見ても人の姿は見当たらない。確かに声はしたはずなのに、おかしい。今まで気にしなかった暗さが逆に恨めしい。

「どこ見てんだ、こっちこっち! ケケケ」

 また声がする。どうやら前でも後ろでもないようだ。

 だとすれば。

「……上?」

 正直ありえないと自覚しつつ、視線を上方へ送る。直後、そこに在った異形の双眸と視線が合い、少女は声にならない悲鳴を上げながら地面にへたり込んだ。

 

 

 

 驚愕のあまり、言葉を発することもその場を逃げ出すこともできない。固まった少女の前に、それ≠ヘ降り立つ。

 全身タイツを着ているかのような、夜闇に溶け込む漆黒の体。ぎょろりとした瞳に、鰓の張った輪郭。頭部分からは先の尖った触覚のようなものが一対飛び出しており、背中には蝙蝠に似た羽が。さらには長い尻尾まで生やしている。誰がどう見ても間違いなく、ステレオタイプな姿そのままの、悪魔だった。

「ああああ、あああ悪魔……!」

「おいおい、自分で会いに来といてそりゃねーだろ。わざわざ一発でわかるような姿で出てきてやったってのによー、ケケケ」

 寒さとも先程までのものともまた違う震えが、少女の声を震わせる。悪魔らしきそれ≠ヘ、人間にも分かるように呆れたという仕草を取って見せると、パチンと指を鳴らした。すると、ほんの瞬く間に黒い姿が変化している。欧米系であろうこと以外特に際立った特徴もない風貌の、細身な中年男性の姿がそこにはあった。

「ほら、姿なんて自在なんだよ。俺様にとってはな、ケケケ。それより、そろそろ落ち着いたらどうだ」

 落ち着けと言われてそう出来るものでもない。特に目の前で変身を見せつけられなどしてしまっては、新たな驚きも生まれようものだ。だがそれでは何も変わらないと思い直し、少女は大きく深呼吸をした。

 再び体内に流れ込む冷たい空気が、徐々に上気と動悸を落ち着ける。少しずつ冷静さを取り戻した少女は、まだ小刻みに震える足に力を込め、立ち上がった。

「あ、貴方が、『交差点の悪魔』ですか……?」

「ああ、そう呼んでる人間もいるみてーだな、ケケケ。まあ呼ばれ方なんて俺様にはどうでもいい、好きなように呼んでくれな、ケケケ」

 どうやら、少女の求めていた存在がこの見かけ中年の元蝙蝠もどきのようだ。変身前も後もいささか信頼し難い姿だが、不思議な力を持っているのには間違いない。

 本当に彼(性別は不明だが、見た目が男性的なので少女は男であると思うことにした)が『交差点の悪魔』なのだとすれば、例の噂は本当だったということになる。つまり――

 少女は恐れや不安を無理やり心の奥に閉じ込め、単刀直入に尋ねる。強い思いを、小さな勇気に変えて。

「あ、あの……私の願いを叶えて下さい! 悪魔さんにはその力があると聞きました!」

「あ? そりゃあ無理」

 即答だった。迷いも溜めも一切ない、明確な否定。渾身の勇気をあっさりと打ち砕かれた少女は、あまりの衝撃に言葉を失った。

 悪魔はやれやれと首を振ると、言葉を続ける。

「いや、だって俺様、悪魔だし。人間の都合よく願い叶えるとか無理無理。まぁ願いの内容次第では結果として叶うかもだが、そもそも俺様お前の願い知らねーしな……あ、ケケケ」

 思い出したように、語尾を付け足す。どうやらこのわざとらしい「ケケケ」は、らしい≠ナはなく本当にわざと付けているようだ。悪魔らしさをアピールしているつもりなのだろうか。

 などと至極どうでもいい事に思考を流されそうになり、慌てて本題へ舵を戻す。悪魔の言う通りならば、まだ望みはある。全てを失うことになってもとの覚悟で望んでいるのだ、少女とてそう簡単に退く事は出来ない。

「じゃ、じゃあ! まずは聞いて下さい、私の願いを!」

「まあ一応はそのつもりだぜ。感じるんだ、お前の内に渦巻く混沌とした感情を……ケケケ、悪魔としては非常に興味があるねぇ」

 どうやら話を聞いてはくれるようだが、少女には少し納得がいかない。確かにどうしようもない感情がここに足を運ばせたわけだが、その内容は実にシンプルで、また純粋なものであると彼女は信じていた。

「私の思いは、そんなに、変なのかな」

「いやなに、珍しいってことさ。この国に来てから暫く経ったが、どうも少し前まで興味本位で来る変な奴が多くてな。大した思いもないくせにわざわざやって来んだ。面倒だったらありゃしねえ」

 これは間違いなく、例の噂が流行った頃だろう。日本人の野次馬根性は筋金入りだ。

「だがお前は違う。俺様にはわかるぜ。確たる願いと、躊躇いを併せ持っている。さあ、話してみな! ケケケ」

「は、はい……」

 兎にも角にも、話さなければ始まらない。だが詳細を語るのは気恥ずかしく、また辛くもあり、少女は内容が伝わる限界まで言葉を削ぎ落として言った。

「えっと……私には好きな人がいて、告白したんですけど、振られちゃって。でも諦めきれなくて。悪魔さんなら、きっとどうにかしてくれると思って……」

 徐々に声がかすれ、消え入るようになっていく。説明が始まると悪魔は静かに聞いていたが、思いがけず早く終わった事に驚きを隠せない様子だった。

「……そんだけ?」

「え、えっと、はい……」

「んなわけねぇーッ!!

 悪魔は声を張り上げる。少女は急なことに驚き、怯える様子を見せた。そこに付け入るが如く、悪魔は少女に詰め寄り声を荒げ続ける。

「もっと他にあるだろう! 俺様には見えるぜ、お前の闇が! お前が抱くのは純粋な恋愛感情だけじゃねえ。他に何かあるはずだ! 心の闇を作り出す何かが、トラウマや憎悪、もっとこうドロドロした感情が!」

 語尾のケケケも忘れ、激しく行われる詰問。その大声が、衝撃が、そして言葉の内容が。説明では省略した、忘れたくとも忘れられない言葉を脳裏に走らせる。

 

 

『うわ……ごめん、マジありえねー。お前みたいなのと付き合うくらいなら、死んだ方がマシだわ』

 

 

 高校に上がってすぐ、恋をした。

 相手は杉森という、同学年のサッカー部男子。入部後すぐに頭角を表わし、レギュラーとして活躍する才人だ。友達も多く、常に誰かの中心にある彼は、少女にとって非常に輝いて見えた。

 だが元々引っ込み思案で人付き合いの苦手な少女に、告白など出来るはずもない。遠くから見つめているだけで十分。少女漫画に出てくるような恋だったが、彼女にはそれだけで満足だった。

 しかし転機は訪れる。どこから嗅ぎつけたのか、平野というクラスメイトの女子が少女の思いを知り、相談に乗り始めたのだ。様々な方法で勇気を与えようとする平野の存在は、決して友達が多いとはいえない少女にとってとても心強かった。また、異性と付き合うなど夢の話だと思っていた少女の意識を、少しずつ変えていった。

 

 そして遂に、その時は訪れる。平野の助言で自信を付けた少女は、一世一代の大勝負と杉森を呼び出し、告白したのだ。遠くから見ていることしか出来なかった少女の、それは大きな成長の証でもあった。

 

 だが、この告白こそが罠だった。

 少女の勇気に対し、返ってきたのは心無い言葉。それは全く謂われのない暴言そのもので、今でも思い出すだけで動悸と目眩に襲われそうになる。

 何が間違っていたのか。泣きながら報告する少女に、平野は真実を告げた。

「杉森くんと私、付き合ってんの知らなかったわけ?」

 唯一にして最大の味方だと思っていた平野の向ける冷たい表情に、少女の世界は崩れ去った。この瞬間、少女は気付いたのだ。平野が近付いてきたのは、全てこの日のため。少女を絶望させるために友達になった振りをしていたのだ。

 これは後から知ったことだが、平野は少女のいない所で杉森に対し、とても少女の口からは言えないほど酷い嘘の数々を吹き込んでいたらしい。どん底まで杉森が抱く少女の印象を悪くした上で少女に希望を持たせ、それを打ち砕いてみせたのだ。

 こんな事なら、告白なんてしなくて良かったのに。遠くから見ているだけの恋で良かったのに――恋と友達、とても大切に思っていたそれらを同時に失った少女は、その悲しみを誰に話すことも出来ず、ただ一人で泣いた。

 

 

 

 未だ鮮明に蘇る記憶に、少女の震えは大きくなる。再びその記憶をなぞりながら終始を語る気にはどうしてもなれず、たった一言だけを、掠れた声で絞り出した。

「……何度も、諦めようとはしたんです……」

 ほう。中年男性の姿をした悪魔は、それまでの強い口調から一転、落ち着いた様子で声を漏らした。彼は少女の一言から何を感じ取ったのだろうか。

 この悪魔に出会ってどれだけ時間が経ったのだろうか。少女にはとても長く感じられたが、夜が明ける様子は未だない。相変わらず空の彼方に帷を引き、星明かりすらない闇を広げ続けている。

「なるほど、だいたい理解したぜ。ケケケ、災難だったな。悔恨、悲愴、怒念、疑念……裏切りってやつが生み出す感情は、悪魔にとってご馳走だなぁ。ケケケ」

「え、わかった……んですか?」

「読心術は悪魔の基本よ。面倒だから滅多にやらねーけど。まあ心そのものを読み取るんじゃなく、あくまで感じる≠ュらいのもんなんだけどな……悪魔だけに。なんつって、ケケケ」

 よくわからない洒落を披露しつつ、緊張感のない声で悪魔は笑う。一瞬、凍える闇夜が一層寒さを増したようにも感じた。

 慰めなのか嘲笑なのか、少女には悪魔の態度を理解しかねた。ただ、おおよその流れが伝わっているなら、今更何を隠すこともない。自嘲を込めて、少女は白い息を吐きつつ言葉を紡ぐ。

「滑稽、だと思いますか。騙された……いや、騙されたからこそ、誤解を解けばまだ希望はあるんじゃないかと思っちゃう自分を」

「ああ、滑稽だな。ケケケ、お前は確かに自分で行動しちゃあいるが、その本体はお前自身にねえ。他力本願なんだよ。同級生に頼ったり、果ては悪魔に頼ったり。希望があると思うなら、まずは自分で行って言えばいいじゃねえか、ケケケ」

 分かってはいたが、改めてこうはっきりと言われてしまうと、衝撃を隠さずにはいられなかった。俯く少女の肩にぽんと手を掛けると、悪魔はさらに言葉を続ける。

「まあいい、わざわざ呼ばれて自力でやれっていうのも悪魔的だしな……ん? だったらその方がいいのか、ケケケ。お、おいおい。冗談だっての、そんな目で見るなよ」

 一人で盛り上がる傍ら、何か言いたげな少女の視線を受け、悪魔は慌てて真面目な表情を作った。どうやら悪魔にも居辛い間というものがあるらしい。

「仮に俺が断る、って言ったらどうするつもりなんだ?」

「死にます。たかが失恋で馬鹿だと思うかも知れませんが、望みがないのなら、こんな世界に未練はありません。本気ですよ」

 心が読めるというならば、この思いも通じるだろう。本来気持ちが伝わって欲しいのは杉森なのに、悪魔に真意よ届けと思っているのは、少女自身不思議な気分だった。

 一瞬の間を、北風が通り抜ける。比較的緩やかな風ではあったが、凍えた体には非常に厳しい。

 風の通過を待ったように、悪魔は諦めたように首を振り、問いを投げた。今の姿こそ人間のそれと変わりないが、吐く息は少女と違い、色を持たなかった。

「いいだろう、そこまでの決意なら。じゃあ改めて聞こうか。お前の願いは何だ?」

「私の願いは……」

 少女はそこで一旦言葉を切る。強い思いを以てこの場に立っているはずなのに、こうして改めて問われると、咄嗟に願いが口から出ない。

 望んだものは。ここに来た、その理由は。

「私の願いは、杉森くんと……あと、平野さんと、仲良くしたい……です」

 再びの間を、また風が吹き抜ける。先に比べ強く吹き付ける、骨まで切りそうな風だ。その間、願いを言い放った少女も、聞き遂げた悪魔も、微動だにせずそこに在った。

 やがて、人の形をしたモノが口を開く。口の端をにやりと歪め、たった一言だけを放つ。

 

「違うな」

 

 少女は予想外の答えに、ぽかんと口を開けた。口内が冷気に蝕まれ、熱を失っていく。悪魔の一言にどう返せばいいかわからず、少女は言葉を繰りかねた。

 そんな様子を見抜いたのか、返事を待つことなく悪魔は続ける。

「仲良くしたい、違うな。むしろ今のお前は、それにこそ拒絶を示しているはずだ」

 少女には、悪魔の言っている事が理解できなかった。それを分かってか否か、対面した悪魔はさらに続ける。

「真逆だ。お前は恐れている。杉森って野郎に直接誤解を伝えねーのも、平野って(アマ)一矢報いてやらねーのも、怖いからだ。人と関わること、それそのものが。だからこそ、お前は実らぬ恋の形を望んでいたはずだ

 こう言われると、思い当たることがないでもなかった。確かに、人と接するのは怖い。それは杉森や平野に限ったことでなく、対人関係を構築することそのものが不得意なのだ。

 だが、少女にも人並みの恋心はある。確かに遠くから見ているだけでも十分だったが、一歩踏み出そうと告白した、あの気持ちは嘘でなかったはずだ。

 悪魔の言葉は、まだ続く。

「一方で、お前は憤っている。憎んでいる。自分だけでなく杉森までも騙した平野を。そして、平野の言うことばかり信じてお前を拒絶した、杉森を」

「…………!」

 少女は雷に打たれたような衝撃を覚えた。確かに平野のした事が酷いとは思ったが、それ以上の感情は抱いていなかった。

 ……いや。少女は自問する。抱いていなかったのではなく、単に目を逸らしていただけではないだろうか。その証明であるかのように、少女は悪魔の言葉に対して否定を表す事が出来なかった。

 

 

 

 少女は動かない。いや、動けない。自分の、自身にすら隠していた感情に気付いてしまったこと。また、一度気付いてしまうと苛烈に湧き上がってくる思いの大きさ。これらは、まだ精神的に未成熟な少女にとってあまりに重すぎる真実だった。

 その間、しばらく真面目な表情を保っていた中年悪魔は、再び最初のようにふざけた態度に戻っている。真面目に語る最中、語尾の「ケケケ」が全て欠落してしまったのが心残りだといった様子だが、正直少女にとってはどうでもいい事だった。

「じゃあ、私は何を望んで……私は、何の為にここに」

 少女の思考は半ば停止していた。夜は未だ明けない。拓けぬ闇同様、少女の思いも今や闇の中に堕ちつつあった。

 徐々に、自分の存在を忘れて固まった思考の海へと沈みゆく少女に痺れを切らしたらしい。悪魔は元通りの軽い調子で口を開いた。

「まあアレだ、結論から言えばお前の望んだモノを与えるのは俺様の力をもってしても無理だな。ケケケ、だが、役に立つモノを与えることは出来るぜ」

 俯き加減だった少女は、弾かれたように顔を上げた。願いの本質を見失った彼女にとって、悪魔の提案は大きな助け舟だった。

「役に立つもの……?」

「ああ、間違いない。今のお前にはピッタリだ。だがこいつは非常にリスキーな(ブツ)でな。相応の覚悟がないなら勧められねぇ。お前はさっき、死をも覚悟の上だと言ったな。果たして今でも、その覚悟の程を持って居られるかな? ケケケ」

 そう言うと、悪魔は一度握った掌を少女の前に差し出し、甲を下にして開いた。そこにはいつの間に取り出したのか、キラキラと光を放つ二粒の何かが乗せられていた。

「こいつは『Swallow Tears』……『燕の涙』って品だ。巣立ちを迎える仔を前に、手放したくない気持ちを抑えて巣を追い出す親燕の悲しみ。その双眸が落としたという涙の名を冠した逸品だ」

 悪魔の説明を聞くのもそこそこに、少女は宝石のような小粒の玉に見入っていた。殆ど光のないこの場所で、何故これほどに光を照り返すことが出来るのか。闇の中で健気に輝くその姿は、どこか羨ましいものに感じられた。

「求めても叶わない。そんな親燕の悲しみが詰まったという、辛気臭ぇこと極まりない品だ。こいつを服用すると、その親燕のように、服用者の求めたものが誰の手にも%nらなくなる。決してな」

 少女は身震いをした。美しい外見に反して、恐ろしい効果だ。どのような形で誰の手に渡らなくなるのは分からないが、求めたものに手が届かない苦しみは少女自身体験したばかりである。

 体験したばかり――その辛い記憶が、悪魔がこの品を取り出した理由を少女に悟らせた。

「察したみてーだな、ケケケ。さあ、死をも恐れぬ勇敢な乙女よ。全てを投げ捨てて、今こそ叶えようじゃないか。お前が本当に望むもの――復讐を、な!」

 復讐。まさかそのような言葉を自分が使う日が来るなどと、誰が考えたであろうか。その暗い含みを持たせる響きは、どこか少女の心を惹きつけた。惹きつけられた事に気付いたことで、少女はようやく自分の求めているものに気が付いてしまった。

「……効果は、どれくらい続くんですか?」

「なぁに、ケチくさいことは言わねーさ。ケケケ、一生涯だ!」

「いっ……しょう……?」

 お買い得と言わんばかりに歪んだ笑顔で勧める悪魔であったが、その強力すぎる効果時間は少女の決心を揺らがせるには十分だった。一生、望むものが何も手に入らなくなる。待っているのは辛いばかりの人生だ。この復讐には、それに見合うだけの価値があるのだろうか。

 少女はまた自問する。だが、何度巡っても答えが出ない。

 迷う少女の姿を見た悪魔は、すっと少女の耳に口を近づけ、耳打ちする。ああ、これが悪魔の囁きというものか。少女は本題でなく、どうでもいい所に理解を得てしまった。

「お前の決意が本物なら、こんな所で迷うことは何もないだろう。思い出せ、お前がされた仕打ちを。お前が受けた、屈辱を」

 すぐ側にある中年の顔。それに重なり、杉森や平野の姿を見たような気がした。少女は思い出す、未だ心に傷を残す言葉の刃を。信じたかった二人に向けられた、冷め切った眼差しを。

「…………」

 大きく深呼吸をする。鼻腔を、肺を満たす冷気が爽やかだった。

「やります。使い方を教えてください」

 少女の瞳から迷いが消えた。中年は満足そうに頷くと、にんまりとした表情のまま、輝く二粒の玉石を差し出した。

 

 

 

 朝。長い夜を抜けて、大地を燦々とした日差しが包み込む。

 少女は自宅ベッドの上で目を覚ました。とはいっても、殆ど寝る時間はなかったが。両親が寝静まってから抜け出したおかげで気付かれた様子はなかったが、明け方まで外を歩いていたのだ。そこから本来の起床時間までは、そもそも多い時間ではなかった。

「夢……じゃ、ない。よね」

 少女は自身の両手をまじまじと見つめた後、呟く。傍らにある半分ほど充電の済んだスマートフォンは、ぴったり七時≠フ表示を浮かべている。

 特にどこも変わった様子のない、いつもの朝。寝不足による確かな気怠さだけが、昨夜の出来事を現実だと証明していた。

 

 

 

 『Swallow(つばめの) Tears(なみだ)』の使用法は至って簡単。服用するとの言葉通り、二粒をまとめて飲み込むだけで良い。いくら小粒とはいえ、ビー玉のようなそれを二つも同時に飲み込むのは無茶な気もしたが、悪魔の促すまま口に含むと、それらは溶けるように喉の奥へと流れていった。涙を思わせる塩味だけが後に残る。

 これで服用は完了。あとは何かを望むだけで、自然とそれが全てから遠ざけられるという。実感はなかったが、これで呪われた運命が少女に架されたわけだ。

「ケケケ。ま、上手く役立ててくんな」

 悪魔は満足そうな表情を浮かべると、最初に見せた悪魔らしい漆黒の姿に変化し、夜闇の彼方へ飛び去っていった。その直後、遠くの地平に薄く明かりが見える。

 夜明けだ、早く帰らないと。人生が変わった余韻を感じる間もなく、少女はまだ薄暗い空を背景に、急ぎ帰路に就いた。

 

 

 

 朝の準備を仕上げ、家を出るここまでは何も変わらない。

 だが学校に着いた瞬間から、少女は思い知ることになる。自分の望んだ復讐の、あまりにあっけない結末を。

 

 

 

 扉を開けるとすぐ、教室の一角に女子の集団が集まっているのが見えた。いつも少女より早く学校に来る一団で、その中にはあの平野も含まれている。

 あの事件以来、平野は一切私に関与しなくなった。私が手痛い失恋の傷を負ったことで満足したのだろうか。それまでべったりだった少女との距離が急に開いたわけだが、平野の周囲の女子がそれについて何か言っている様子はなかった。おそらく最初から仲間内で示し合わせての行動だったのだろう。今思えば、残酷極まりない行動である。

 普段の平野は元気を絵に書いたような性格で、仲間内では盛り上げ役として常に中心にあった。人の輪を避ける少女とは真逆の性格だ。そのため、朝から大声でのお喋りに精を出すのが彼女の日課である。だが今日の平野は、その常とは大きく異なった様子だった。

 力なく机に突っ伏し、周囲の呼びかけにも殆ど応じない。まるで死んでいるかのようなその様子は、普段の平野とは似ても似つかなかった。

「…………」

 少女には、その理由が分かるような気がした。だが、まだ確証を得る時間が欲しい。少女は平野の様子を窺いながらも、普段と変わらず無言のまま自らの席に着いた。

 

 

 

 丸一日平野の様子を見て、少女は嫌でも『燕の涙』の効力を実感せずにはいられなかった。少女自身が直接聞いたわけではないが、周囲の話題から、彼女の身に起こった出来事を推することは出来た。

 簡単に言えば、杉森と別れたらしい。少女は知らなかったが、むしろ周囲にいて知らないのが不思議というくらいに二人の関係は有名で、それなりの期間恋愛関係にあったらしい。それが今朝になって、急に杉森から別れを切り出されたという。平野に対して全く何の愛情も感じられなくなった、という事が原因らしい。

 平野からすれば、何故今になっていきなり、という話だろう。だが、少女にはその理由がはっきりと分かっていた。分かっていたも何も、まさに自分が望んだ通りに望まない結果になったのだから。

 『燕の涙』を服用してすぐに少女が望んだのは、『杉森との自然な恋愛関係』というものだった。望んだものが誰の手にも渡らなくなる――逆に言えば、こう望むことで『誰も杉森と自然な恋愛関係を築けなくなる』という現実が用意されることになる。新たな恋愛は勿論、この現実は現在恋愛関係にある相手にも例外なく適用されるようだ。結果として、杉森と平野の恋愛関係は破綻した。恐らく以後一生、杉森は恋愛の喜びを知ることなく生涯を閉じることになるだろう。

 勿論、誰に奪われることがないとはいえ、少女のものとなり得る可能性もないに等しい。だが少女は満足だった。自らの手で思い人を永遠の高嶺へ押し上げたのだ。自分だけが触れる事の出来た花。その高所には彼女であった平野すら届かない。

 自分を騙した平野、自分を選ばなかった杉森。事象としてはあっさりとしたものだったが、望んだ以上の効果を上げた復讐に、少女は残酷な愉悦を禁じ得なかった。

 

 

 

 一つの目的であった復讐はあっけなく達成された。その後少し経ったが、寄りを戻そうと躍起になる平野に対し、杉森の態度は素っ気ないものであったという。平野の取り巻きたちがその話題を持ち上げる度、少女は気を良くした。自分でも性格の悪い事だとは自覚している。だが、自分の心を苛んだ者の絶望した姿を見るのは、決して悪い気分ではなかった。

 問題はその後にあった。当初の予想通り……むしろそれ以上に、望んだものが手に入らない生活というものは辛く味気ないものであった。例えば、欲しい服があっても直前で先を越される。期待していたゲームは会社の倒産で発売中止になった。食べたいと思ったものが食卓に並ぶことも決してない。一つ一つは瑣末な事だったが、快楽のない人生には全く面白みがない。味のないガムをひたすら噛み続けているようなもので、苦行にすら感じる。

 どうせ何を望んでも叶わないなら、いっそ何も望まない。そう考えた少女は、次第に何にも希望を抱かない、無気力な生活を送るようになっていた。

 

 

 

 しばらく経ったある時。少女が目をつけたのは、彼女が復讐の相手に選んだその人、『燕の涙』服用のきっかけにもなった、平野だった。相変わらず彼女は杉森に復縁を迫っているようだが、言うまでもなくそれは叶わない。そろそろ付き合いきれなくなったのか、最近では取り巻きだった女子たちもあまり近寄らなくなっており、平野は事実上孤立していた。

 流石にこの状況は、少女も不憫に感じた。自業自得の結果とはいえ、自分にも原因の一端がある以上、放っておくのもどこか気が引ける。

 何より、色々あったと言っても、平野は少女にとって数少ない友達になってくれた存在である。最初から裏切るつもりで近付いたのだとしても、一緒にいて楽しかった記憶もまた嘘ではなかった。

(また、友達になれるかな……)

 人付き合いが苦手な少女も、出来ることなら友達は欲しい。今の彼女なら良好な関係を作り直せるかも知れない。ただ友達として一緒にいて欲しい、少女は素直な気持ちでそう思うようになった。彼女の絶望を見て(たの)しむ、残酷な復讐心はもう消えていた。

 

 

 

 思い立ったとあれば、即行動である。内向的であるが、少女は自身の行動力には多少の自信があった。これは告白の実行や悪魔との接触から自ら判断した正当な評価である。皮肉なことに、これらの評価因子にも平野の存在は大きく関係していた。

「あの……平野さん」

 授業終了の直後。ここしばらく机に突っ伏したままの状態が基本(デフォルト)になっている平野に、少女はおずおずと声をかけた。特に話題があるわけでもない。だが一度話し始める事が出来れば、平野の豊富な話題が引っ張ってくれるという算段が少女にはあった。

 だが、平野は突っ伏したまま反応を見せない。授業が終わる直前まで起きていたので、まさかもう寝ているということはないだろう。だとすれば、聞こえなかったのだろうか。

「あの、平野さん……平野さん!」

「何よ、うっさいわね!!

 数度呼びかけたその時、平野は身を起こしながら叫んだ。突然の大声に、教室にいた多くが一斉にこちらを注視する。少女も、思いがけない反応に怯み、二の句を継げずにいた。

「あ、あの……あの……」

 言葉が口から出ない。こんな時、上手く切り抜けられる言葉が欲しい。だが望んでも望んでも、そんな言葉は口からはおろか脳内にすら浮かんでこなかった。

 慌てた様子の少女を平野は怪訝そうに見ていたが、やがてモゾモゾと動き、机に突っ伏した状態に戻ってしまう。

「……用がないなら、話しかけないで。もう私、あんたに興味なんてないから。それとも何、杉森くんのこと? 私を笑いたいなら、どこででも好きにやって」

 顔を伏せたまま、平野は動かなくなる。少女にはこれ以上の接触方法が思い浮かばず、ただその場に立ち尽くす事しか出来なかった。

 

 そして、それが平野と言葉を交わした最後であった。

 

 翌日から平野は学校に来なくなった。理由は分からないが、タイミングがタイミングだけに、少女は昨日のやり取りが何か関係しているのではと思ったが、肝心の本人がいない以上それを確かめる術はなかった。

 さらに数日経ち、クラスで担任から伝えられたのは、学校に来なくなったその日から平野が家に戻っていないというものだった。誰か心当たりのあるものは申し出てくれと言われたが、流石に少女との間に起こった今までの事を話すことには抵抗があった。というより、そもそも正直に話したところで誰も信じはしないだろう。

「平野さん……」

 少女は誰にともなく、彼女の身を案じ一人呟く。一体何があったのか。確かめる方法は無論なかったが、どうしても無関係だとは思えなかった。

 そして、さらに数日。学校に行く前に見た朝のニュースにおいて、学校の校区内にあたる近場で、少女と同い年の高校生の変死体が見つかったとする報道がなされた。少女の顔から血の気が引く。朝食も取らず、少女は飛び出すように家を出た。

 ホームルームで担任に知らされた事実。それは案の定、朝のニュースで見たあの変死体が、平野その人であるというものだった。少女はもう少しもその場に居られなくなり、荷物も持たずに学校を飛び出した。

 

 

 

 どれほどの距離を走っただろう。慣れない激しい運動と元の気分もあり、吐き気が止まらない。少女は人気の無い道に移動し、道端までフラフラと歩くと、側溝に顔を寄せて吐瀉(としゃ)をした。

(私の……私の、せいだ……)

 目眩がする。霞がかった意識の中で、少女は自身の行いを回顧した。あまりに不自然な、平野の急すぎる死。この急さは、かつて杉森と平野が別れた時に通じるものがあった。

(なんで……なんで。私はただ、平野さんと友達に……)

 巡る思いの果て、回転を鈍化させた少女の頭は、しかし迂回することなく答えへとたどり着く。

 ただ友達として一緒にいて欲しい=B平野に声を掛けたそもそもの動機はこれだった。何のことはない、普通の願望である。だが『燕の涙』を服用した少女にとって、願望には普通でない力が備わっているのだ。

「そんな……そんなことって……!」

 少女の瞳に涙が滲む。あの願いによって(もたら)された現実は『誰も平野と友達として在れない』というものであっただろうが、それがよもや彼女自身がこの世からいなくなってしまう事だと、誰が予想できようか。確かに平野を恨んだことはあったが、それでも死んで欲しいとまで願ったことはない。いや、自分にそのつもりはなくとも、少女の根の部分はそれを望んでいたのだろうか。

 取り返しのつかない事実に、少女は嗚咽を漏らす。決して消せない、大きな罪を背負ってしまった。

 自身の欲しいものが得られないだけではない。使い方を誤れば、この力は無自覚に人を死なせさえしてしまう。とても一介の高校生に扱える力ではなかった。

 この能力を授けた、あの悪魔の笑顔が浮かぶようだった。こうなることが分かっていて、彼はこの能力を与えたのだろうか。自身の力が今や薄気味悪い。吐瀉物に混じって『燕の涙』も出てこないかと思ったが、直感でそれは無駄な事だと理解していた。

(自分の望みは叶わない。それだけじゃない、私は生きているだけで、人類に害なんだ。だったら……)

 追い詰められた感情が、ある結論へと少女を駆り立てる。そう、平野がいかに酷いことをした人間だとはいえ、死なせたのは自分なのだ。ならば、償う方法は……!

 

 

 

「おじょーちゃん、大丈夫かぁね?」

 突然の穏やかな声が、少女の意識を現実に引き戻す。振り返ると、そこには一人の小柄な老爺が立っていた。腰は曲がりきり、杖を使ってようやく立っているような老人だ。むしろ普段は逆に声を掛けられる側であろう人物に気遣われ、少女はようやく自分がどんな状態であるか理解した。長い距離を走ったせいで制服はよれよれになり、髪も乱れている。涙で濡れた瞳に、側溝の吐瀉物。通りすがりの人が見れば、然るべき所に連絡するだろう状態だった。

「だ、大丈夫です。ありがとうございます……」

 少女は慌てて身なりを整えると、これみよがしにガッツポーズを作ってみせた。空元気ではあったが、別に体調が悪くてああしていた訳ではない。無関係な人を心配させるのは気が引けた。

 老爺も少女の立ち直りを見て、心配そうな表情を徐々に軟化させる。そして、先ほどと同じく温和な声色で話し始めた。

「そーかそーか、なら良かったー。ぼくらみたいに年行きますとねぇ、あちこち病気でだめになっていかんねぇ。健康は宝物ですて。若い子は、げんきが一番なぁー」

 話しながら、やがてにっこりと笑顔を見せる。何とも感じの良い人だ。世界がこんな人ばかりなら、誰も不幸せになりなどしないだろう。

(あ……!)

 そんな思考に行きかけて、少女は慌てて考えるのを止めた。今の少女が不用意に世界平和など願ってしまえば、人類滅亡すら引き起こしかねない。思考を止めた少女は、悲しさを出来るだけ表に出さないよう、力なく笑顔を作る。老爺もそれに返し、さらに満面の笑みを作る。

 こんなにいい人なのに。ただ笑顔で見つめ合うだけの奇妙な時間の中、少女の思考は再び回る。この感じの良い老爺も、遠くない未来、病気や老衰で亡くなるだろう。これは避け得難い現実だ。

(……避け、得難い?)

 自らの思考の中に現れたその言葉に、少女は奇妙なものを感じた。何も日本語的な奇妙さではない。なにか引っ掛かりのようなものを感じた。

 そしてそれは、すぐに閃きへと変わる。鈍くなった少女の思考が、潤滑油を得て回り出す。一度気付いてしまえば、なんと単純なことだろう。

 可能性があるならば、すぐに試してみるべきだ。思い立ったらすぐ実行。この信条が彼女を成功に導いたことは未だないが、今回ばかりは上手く行く確信があった。

「……ねえ、おじいさん」

 少女は口を開く。ただでさえ人に接するのは苦手だ。上手くできるか大いに不安はあった。

 躊躇いもある。だが、どうしても今ここで試しておく必要がある。自分のために、そして大仰に言えば、世界のためにも。

「おじいさんは、いつもこの時間にお散歩してるんですか?」

「おー、おー、そうよー。この通り、杖がないとまともに歩けもしないんですがな、はっははは!」

 少女の問いに、変わらず柔和な返答を返す。今からその優しさ、穏やかさを蹂躙すると考えるだけで、胸がズキズキと痛んだ。

 条件は整った。後は実行に移すだけだ。高鳴る鼓動、流れる冷や汗を必死に抑え込む。

「……ねえ、おじいさん」

 大きく深呼吸すると、呼気の感覚を確かめる間も持たず、少女は一気に言葉を吐き出した。

「貴方みたいな老いぼれを見てるとイライラするんですよ。老い先短いんだから、無理しないで下さい。貴方なんて、さらに足腰を悪くして、誰に看取られる事もなくあっさり死ねばいい。そう、今すぐにでも……!」

 意味もなく老爺に憎悪を募らせるよう努め、一気に放つ罵詈雑言。それらを終えるとすぐに、少女は踵を返して逃げ出した。いま一瞬でも老爺の表情を見てしまえば、自分は二度と立ち直れない。そんな思いが、少女の足を必死に走れと駆り立てていた。

 

 

 

 翌日。今日も学校を無断欠席した少女は、昨日老爺と出逢ったその場所に来ていた。替えの服と帽子、伊達眼鏡まで用意して、変装の準備は万端だ。どこかの誰かのような変身能力があれば楽なのにと、少女はないものねだりで毒付いた。

 空は生憎の雨模様。出歩くには不向きな天気だ。それでも少女はじっと待つ。たった一つの願いを繋ぐために。

 しばらくその場に立っていると、一人の人物が道の中央に現れる。それは紛れもなく、昨日の老爺だった。ただ一点、昨日と違う所は、杖の代わりに傘を持ち、背筋も伸ばし、軽快なステップで散歩をしているらしいことだった。

「……よかった。本当に……よかった」

 老爺は少女に気付かず、軽やかな足取りで道を行く。青い傘がふりふり揺れて、曇天の下でやけに映えていた。その姿が見えなくなるまで見送り、少女は涙を流した。

 

 

 

「考えたな。見てたぜ、あの爺さん、お前が治したんだろ」

 その僅か後。不意に少女の隣から、聞き覚えのある声がする。今度は殆ど驚かず、少女はゆっくり声の方向へと目を遣った。予想に反せず、欧米系の風貌をした中年男性の姿がそこにはあった。

「……なんだ、別に交差点じゃなくても出て来れるんですね」

「まあな。交差点が一種の儀式に使われるってだけさ、ケケケ」

 細かい事は分からなかったが、これほど冷静に会話ができるようになっていることに、少女自身も驚いていた。『交差点の悪魔』はあの日見た怪しい笑顔のまま、少女に語りかける。

「それで、これは逆転の発想ってやつか。望むものが手に入らないなら、逆に望みたくないことを望んでしまえ……ってわけだな。単純だが、実に効果的だな、ケケケ」

 そう。平野の一件と、老爺とのやり取りが導いた結論、それこそがこの行動だった。普通の望みは時に死をも運ぶ。ならば逆に対象の不健康や死を願えば、願いは反転し何者もそれを近付けられなくなるとの考えだ。流石に不老不死までは実現の可否が読めなかったが、あの老爺の元気な姿が証明してくれた。少なくとも今すぐの死≠ヘ避けられるだろう。まるで子どものような発想だが、悪魔その人が効果的だと言っているのだから、手段としては成功だったのだろう。

 一度思い当たってしまえば、逆になぜ今まで浮かばなかったのかとさえ思ってしまう。良くしてくれた人物に酷い言葉を浴びせるのは胸が痛んだが、心の底から願わなければ叶わないと思ったのだ。彼女にとってしてみれば、最善の選択である。

「軽い気持ちで望んだ復讐だったけど、結果的に私は平野さんの死に関わってしまったんです。これで許されるとは思わないです。でも、私には貴方から貰った、この力があります」

「まあ、気に入ってくれたなら何よりだな、ヒヒヒ……あ、間違えた。今のノーカンな。ケケケ」

 役作りなのは既に承知だ、今更驚くことも突っ込むこともない。それよりも、少女は悪魔の発言にこそ反応し、首を横に振った。

「いえ。一時は、こんな力は人を不幸にしかしないと。そんな力を持ってしまった私は死ぬしかないと考えました。でも、今は違う。この力をうまく使えば、大怪我をした兵士も、難病の子どもも、みんな治す事が出来る」

 空模様に反して、少女の表情は実に晴れやかだった。雨を吐く空は寒々しいねずみ色を一杯に広げているが、少女の思い描く未来はきっと美しく輝いている。

「だから、私はこれからも生きていたい。私の力で、助けられる人を助けたいんです。それが、知らず知らずに色んなものを奪ってしまった私の、せめてもの償い」

「……そうか。そいつは大儀だな、ケケケ」

 悪魔はほんの一瞬だけ、少女の見たことがない表情――驚きにも見えるそれを見せた。だが次の一瞬には、また常の怪しい笑顔に戻っている。見間違いだったのだろうか。

 相手は悪魔だ。けれど、その一挙一動はどこか憎めない。一度は能力を恨みかけた少女も、今は彼の様子がどこか愛おしかった。

「悪魔さんは悪魔だけど、いい悪魔だったんですね」

「馬鹿、何言ってやがる。悪魔は悪魔だ、今も昔もな。ケケケ」

 中年男性の姿をした彼は、少女に背を向けて手を上げる。もう行くということだろう。以前交差点で会った時のように飛び去らず、ゆっくりと歩いて去っていく。

 少女は一礼すると、小さくなる悪魔の背中を、見えなくなるまでいつまでも見届けていた。

 

 

 

 その、すぐ後。自身を襲う悲劇を、少女はまだ知らない。

 何故か制御の利かなくなったトラックが一台、暴走したまま少女の背後に迫っていることを。

 少女が振り向き、それに気付く瞬間。

 その遅すぎる一瞬に、彼女は何を思うのか。

 

 

 

「可哀想に。生きたい≠ニ願っちまったか」

 

 

 悪魔の男は、一人静かにそう呟く。だがその姿はどこにもなく、声は冷たい風に乗せられて何処へ消えていった。

 

 全てを出し切り、まもなく晴れそうな灰色の空。雨粒が二つ、名残惜しそうに地上へと落ちてゆく。それは一瞬キラリと光り、固い大地に弾けて消えた。

 

Swallow Tears ...fin

 

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