Under the Ground

池田 風太郎 

 

「あーっ、もう!」

 私の一日は慌ただしく始まった。今日の私はバッド・デイ。目覚ましが壊れて鳴らなかったし、寝坊したせいで朝食を取っている時間もなかった。しかも、こんな日に限って朝からの土砂降り。ダッシュするにはとてもじゃないけど向いてない。

 だからといって遅刻するわけにもいかないので、私は着替えて鞄を肩にかけると、大急ぎで家を出た。傘を差していても身を濡らす猛烈な雨と、跳ね返ってくる泥水が襲い掛かってくるけど、気にしている余裕はない。

「あれ、清水?お前、今日遅いじゃん。タラタラしてると遅刻するぞー。」

 走る、走る。すると唐突に、背後で聞き覚えのある声がした。……訂正。『した気がした』。実際はしていない。何も聞こえなかった。きっと空耳。

 数歩譲って何かの生体が発する音声が発信されていたのだとしても、私及び私に関係する一切のものには全く関係ない。だから全く背後には意識を向けず、出来る限り濡れないようにと気をつけながら走ることだけに専念する。

「おーい、清水さーん?無視ですかー?おはようございまーす!」

 私の苗字を表す語が聞こえた気もするけど、これもきっと幻聴。私には関係ない。ないったらない。

「ペチャパイ」

 ひゅおっ。

 ザーっと降り注ぐ激しい雨音に、鋭い風切りの音が混じる。雨も空気も引き裂く神速の蹴りが放たれたのだ。その動作主は柔軟に体をひねった私で、対象は背後に存在する(と認めざるを得ない)不快な物体。繰り出した脚が雨に濡れるのを感じたけど、奴への制裁の方が優先事項だ。ボソッと言えば聞こえないとでも思ったのだろうか。とにかく、奴は私を怒らせた。

「おっと、危ねー……けど、ちょっぴり甘かったな。それに―――」

 でもその蹴りは、対象の顔面を捉える直前で受け止められてしまった。意外とがっしりした腕は、不意打ちであったにも関わらず見事に一撃を防いでいる。

 しかも、後方へ繰り出した回し蹴りの反動で体勢が変わってしまった私は、意図せずそいつの顔を見てしまう。非常に気に食わない事に、その表情にはニヤリと笑みが浮かべられていた。

「―――ほお、白の無地か。これは思わぬ収穫だ。」

「……っ!この変態、死ね!」

 不覚だった。私は慌てて足を下ろして奴の視界を遮り、傘を持っていない左手で拳を繰り出した。が、今度は私の方が不意の発言に冷静さを失っていたためか、思ったほどに力の入っていない一撃は、またもあっさりと受け止められてしまう。

「おいおい、顔はやめろって暴力女。そんなことより急ごうぜ、こんなことしてたら遅刻するぞ?」

 はっはっは……そんなアニメの悪役のような高笑いだけを残して、そいつは先に走っていく。私の完全なる敗北だ。

「うう……馬鹿!」

 遠ざかっていく姿に思い切り叫んだ後、立ち止まっている場合でないのを思い出し、私は悪態をつきながら走り出した。

 

 

 数分後、私は力なく机にへばり込んでいた。私と共に大雨の犠牲になった相棒の通学カバンも、随分と湿っぽくなって、机の横に力なくぶら下がっている。

「ふええ……。」

 チャイムには間に合ったものの、気分は最悪だった。服は残念なほどにびしょびしょ、特に靴下は靴の中に浸水してきた泥水を吸ってしまい、ぐしょ濡れの上に茶色い染め色のおまけまでついてきていた。

 髪の毛も乱れきっているし、おまけに朝食抜きのせいでお腹も空いた。幸い今日は体育があるので着替えはあるけど、端から見ればさぞかし悲壮に見えるだろうオーラを全身から発していた。

「おやおや、遅いご到着で。酷いカッコになったな。」

 でも。私の気分を一番害しているのは、いま私の前に再び現れた憎き?あいつ?だった。同じようにあんな大雨の中を通ってきたというのに、何故コイツはたった今アイロンをかけたばかりみたいな綺麗な状態で制服を着ているのだろう。疑問だ。

「何?バカ谷。また蹴られたいの?」

「それはまた。さっきみたいなサービスをしてくれるって意味で解釈してオッケーなのか?それに俺はバカ谷じゃなく中谷だ。」

 とりあえず毒を吐く事で不機嫌を表明してみようとした。しかしこの不愉快な男は、怯むどころか、ニヤニヤ顔すら崩さないで不快なことを思い出させてくる。ついでにツッコミも欠かさない余裕さが尚更に癪だ。

 ……でも、ダメだ。恐らく今なにを言い合っても私に勝ち目はない。なんだか一週間分ほど一気に疲れてしまった気分だ。

「はぁ……。」

 溜め息一つで、顔を机に伏せる。これは私の『就寝準備』だ。そんな私に中谷はしつこく何かを言い続けていたが、無視を続けていると、やがて飽きたのか自分の席に戻って行った。

 時の頃は、学活の始まる五分前。外では雨が規則的な音を創り出し、相変わらずに激しく窓を叩いている。

 

 

 中谷は嫌なやつだ。嫌いではないんだけど、嫌なやつ。自信家で、何でも出来て、余裕たっぷりで、いつも私より何歩も先を歩いているように感じる。

 その付き合いは小学校から高校まで、実に十年近い。一度も違うクラスになったことが無いくらいの腐れ縁で、私は何かの陰謀が働いているのではと考える事がある。

 あいつは意外に几帳面で、気が利く上に成績優秀。いろんな場面で頼られている。しかもイケメン。この非の打ちどころのなさが、ダメ押しのようにして嫌なやつだという認識を突きつけてきた。

 いつも笑っている。誰かの中心にいる。そんなあいつにいつしか惹かれるようになり、ずっと気になっていた。惚れてしまったのだとはっきり気付いたのは中学の終わり頃。これは私の人生において最大の不覚であると思う。

「なぁ、お前もうすぐ誕生日だろ。何か欲しいものないか?」

「強いて言うなら、アンタのいない世界」

 これは、先日迎えた私の誕生日の前日にあったやりとり。これはもちろん冗談で、他の約束を取り付けさせたけど、珍しく真面目に聞いてきた相手に対して咄嗟にこんな冗談が飛び出てしまうほど、私は素直とはかけ離れた性格だった。

 

 

 本来は一時間目として配当された全ての時間を、睡眠学習と銘打って素晴らしき夢の世界への旅行に費やした後、私は次の授業の準備をするみんなを待って教室にいた。

「ちぇー、こんな天気だし自習になるかと思ったのになあ……」

「今日は体育館空いてるみたいだし仕方ないじゃん。まぁこんな天気だし、パーッと体動かして気分上げてこうよ!」

「こんなムシムシした日に動いたら暑いじゃんかー。まだ眠いよー寝たいよー。」

「ユウちゃん……あんたはさっき爆睡してたでしょーが。」

 一緒にいるのは、友達のユキとチエ。二人は今、次の授業である体育のために着替えているんだけど、私は一時間目が始まる前に素早く着替えてきたのでやる事がない。ちなみにユウちゃんとは私の愛称だ。

「今日は男子と混合らしいよ!バスケ!」

 体育委員もやっている、根っから体育会系のチエは、次の授業が楽しみで仕方ないらしい。まぁ今日に限らず、毎週この時間は体を動かせるというのが嬉しくて嬉しくてたまらない様子だけど。

 対して、しっかり者のユキは明らかな不満を顔一杯に表していた。

「バスケで男女混合?身長差とか体力とか明らかに不利じゃない?」

「大丈夫、小林くんになら勝てるでしょ!」

「…………。」

 微妙に答えから外れた答えに、思わずユキが肩をすくめた。小林くんというのは学級委員をやっている男子で、クラスで一番(女子も含めて)身長が低い。勉強は出来るが運動はからっきしなので、小学校から飛び級してきたのではと一部で噂されているとかいないとか。

「ところで、着替えたなら早く行こうよ。今日は私も少し体動かしたいな」

「えー、ユウちゃんまでそんな事言うー!だいたい、眠いとか言ってたじゃん!」

 ユキの不服は、二対一の多数決であっさりと棄却された。民主主義の勝利だ。

 

 

 バスケットボールをするはずの体育館では今、バレーボールが行われていた。厳密に言うと体育館の半面がバスケ、もう半面がバレーに使われて、私たちはバレーのコートに立っている。これはユキを始めとした数人の生徒からの要望に従うもので、結果としてやりたい事を選択できるようになった生徒たちのやる気は上がっていた。

「っしゃあー!」

 見事に相手陣にボールを叩き込んだチエを見て、はしたない程に気合の入った歓声を上げる私。戦場には男も女も関係ない。それに、ほとんどの見せ場を独占しているチエの動きは見事なもので、男子相手でも全く無敵の強さだった。

「さあさあ、鬼でも神でも隣の山田くんでも!誰でも掛かってきなさい、チエの相手じゃないんだから!」

「へぇ、じゃあ次は俺らがやろうかな」

 若干他力本願な調子の乗り方をする私の背後に現れたのは、もはや名前も言う気にならない?あいつ?である。朝に引き続き、またも私の背後に立とうというのか。

「私の背後に立つな!」

 今朝と同じように回し蹴りを放つが、今朝と同じように回避される。屈辱の再来だ。だが私はそれで終わらすまいと繰り返し蹴りと拳を繰り出す。某秘孔突きの格闘漫画さながらだ。

「おいおい、話しかけただけでコレはないだろ!だいたい体操服じゃサービ」

「言わせない!言わせないんだからッ!」

 突然(一方的に)起こったバトルも、周りのみんなにはいつもの事と認識されているらしい。苦笑しながら、止むことなく続く蹴る殴るを必死で避ける中谷の様子を傍観していた。

「お前ら……見てないで止めろよ!」

「とりゃあ!」

 そんな非常なギャラリーたちに向けて放たれた中谷の悲鳴は、拳を一閃する私の気合にかき消された。

 

 

 数分後、死闘はコートの中へと場を変えて繰り広げられていた。だが、その相手は私ではない。万能の雄・中谷に相対しているのは、運動命の体育会系女子・チエだ。片やレーザービームのような鋭いスパイクを繰り返すチエ、片や堅実な防御で相手の消耗を狙う中谷。団体競技のはずのバレーボールがもはや個人競技のようになっていて、しかも両者の実力は非常に高いレベルで拮抗していて、周りで見ている生徒のみならず一緒にコートに立っている仲間達も見惚れるほどだった。

 体育館のもう半面でバスケを楽しんでいた生徒たちも、その激しさと熱気に思わず振り返り、すぐに声援に混じった。

「チエちゃん頑張れーっ、男子をやっつけろー!」

「踏ん張れ中谷、いけるぞー!」

 割れるような声援の中で、両雄はしのぎを削る。今まさにチエのレーザービームが生徒たちの間を裂いて男子チームの陣に叩き込まれ、女子たちの歓声が上がった。

 

 

「あー、惜しかったね!」

「容赦ないねぇ、中谷くん……。でも、それがいい。私だって次は負けないんだから!」

 熱戦の末、勝利を手にしたのは中谷だった。しばらくは互角の試合が繰り広げられていたが、次第に体力的に劣るチエが劣勢に追い込まれ、ポイントを連取されてしまったのだ。そのあと女子からは中谷に対する大きなブーイングが起こったが、真剣勝負なので仕方がない。勝っても負けても微妙に肩身の狭くなる、男子の立場はこういうとき不憫だ。

 そして私たちは今、着替えに戻ろうと廊下を歩いているところだった。私は制服がぐしょ濡れなので着替えるものがないけど、チエのおかげで(中谷に感謝するのは癪だ)あまり汗をかかずに済んで助かった。

「でも、こんな雨だったら今年は中止かな……。」

 窓の外を見て、ユキが少し寂しそうに言った。私やチエも歩くのを止め、同じ方向を何気なく見る。発言の主語を求める必要はない。この時期に中止になるものと言えば、その対象は一つしかないから。

「そうだねー……今年は誰かと行く予定だったの?」

「あー、私はチエだけかな。あんたこそどうなの、私たちに誘いかけてこないって事は、今年こそ誘えたわけ?」

「え?……あ、う、あっ?」

「……もぉ、しっかりしなさいよ。」

 私は顔が熱く火照るのを確かに感じた。ユキは驚くほどに勘が鋭い。思わずして繰り出された不意打ちに、私はオタオタする事しか出来なくなってしまった。

 

 

 私たちの町では、毎年七月の最初の土日に七夕祭りが行われる。規模こそ決して大きいわけではないけど、出店が建ち並んだりキャラクターショーなどの色々なイベントが催されたりして、老若男女問わず多くの人々が楽しみにしている。学校でも、誰を誘ったとか浴衣をどうするとか、そういった会話がしばしば出てくる。生徒たちの間でも大きなイベントであることは間違いない。

 でも、今年は梅雨が遅れ込んだせいで未だに天気が安定しない。明日から祭りが始まるというのに、天気予報では来週半ばまで傘マークが並んでいる。雨天の場合は祭りそのものが中止になってしまうので、予定がどうなるかは限りなく微妙な状況だった。

 私はここ数年、毎年中谷を誘おうとして失敗してきた。素直じゃない自分が邪魔をして、誘う前に逃げ出してしまったりしていた。でも、今年こそは誘う。私は決意を固めていた。

「で、でもさ、中止になるかも知れないのに誘っても!だから、は、晴れたら!そう、晴れたら!」

 だが、ユキの呆れた声に返す言葉はあまりに情けない言葉だ。……ダメかも知れない。固めたはずの決意は、早くも脆く崩れかけていた。

 

 

「あれ、なに話してんだー?」

「―――ッ!」

 突如、背後から声がして、私は驚き飛び上がった。現れたのが誰であるかは言うまでもない。三度までも背後を……そろそろ警察に被害届を出すか検討しよう。被害内容はストーカーか何かで。

 でも、いま重要なのはそんなことではない。背後にいたなら、私たちの直前の会話を聞かれていたかも知れない。あんな恥ずかしい挙措を見られていたならば、一族末代までの恥だ。

「ば、バカ谷……あんたいつからそこにいたの……?」

「え?お前たちが見えたから、さっと動いて追いついただけだけど?」

 微妙に答えになってないけど、とりあえず今さっきの情けない様子は見られていないらしい。ちらりと隣の二人を見ると、チエもユキも苦笑をこちらへ向けていた。どうやらこの二人も中谷の接近を感知できなかったらしい。神出鬼没な上に、足音も気配も消して忍び寄ってくるなんて。いよいよ中谷が人間であるかどうかも疑う必要がありそうだ。

 そして、会話を聞かれていなかったことに安心を覚えると、同時にまたしても背後を取られた悔しさと怒りがこみ上げてきた。

「だから、私の背後に、立つなって言ってるでしょ!」

「ぬわっ!」

 本日三度目の回し蹴り。これも不意を突いたに違いないのに、やはり中谷は俊敏なバックステップで上手く避けてきた。でも、私だって何度も同じ過ちを繰り返してはやらない。回し蹴りの勢いを利用してそのまま一回転し、繰り出した右脚を少し引いたところに着地させる。蹴りを避けるために体勢を崩した中谷に対し、私はいつでも動ける姿勢を作り出した。

「ちぇいっ!」

 そして、掛け声一閃。繰り出す拳の威力に、強く地面を蹴りだすことで生まれた勢いが上乗せされ、一撃は避ける間も与えず吸い込まれるように中谷の下あごを捉えた。

 今度こそ直撃の威力を伝えた拳はギャグ漫画のように軽々と中谷をふっ飛ばし、ノックアウトした。

「馬鹿、ユウちゃん……。」

「あ……。」

 ユキの声で私の興奮は冷めた。目の前で伸びている中谷と、殴った自分の拳を交互に見る。反省と後悔が後になって押し寄せてくるが、時すでに遅しであった。

 

 

「失礼しまーす……。」

 放課後、保健室。何の返事も返ってこないあたり、どうやら先生は留守らしい。私はそっと扉を閉めて部屋の中へ入ると、清楚な白い壁や整然とした薬棚、それらの横を通って奥へと進む。独特の薬臭い香りがツンと鼻についた。

「あー、中谷?大丈夫……?」

 一番奥にあるベッドの一つに、横たわる男子を見つけて声をかける。思ったとおり中谷だったけど、眠っているのだろうか、呼びかけても反応は無い。

「中谷―……?」

 もう一度呼びかけてみる。すると少しの間をおいてからベッドがモゾモゾと動き、やがて中谷が体を起こした。

「あ、清水。おはよう。」

「…………。」

 眠そうな顔のまま、ゆったりと挨拶してくる。ちょっと想定外ではあったが、こういうやつなのだ。とりあえず無事ではあるようだ。

「おはようって……あんた、大丈夫なの?ぶっ飛ばした私の台詞じゃないかも知れないけどさ……。」

「ああ、まぁなんとかな。少しふらふらするけど。まったく、だから顔は止めろって言ってんのに……。」

「…………ごめん……。」

 他に返せる言葉がなかった。申し訳ない気持ちで胸が潰れそうになる。素直になれなくてこうなったのに、こんな時だけどうして素直になれるのだろう。

 悲しいとも悔しいとも違う。自分でもまったく正体の分からない重く苦しい感情だけが、ただモヤモヤと心中で渦巻いている。

「清水?」

 中谷が少し驚いた声をあげた。私は何故中谷がそうしたのかすぐには分からなかったが、その原因は、いつの間にか私の頬に流れ落ちる涙を見たからだった。

 涙に気が付いた私は、慌てて後ろを向いて中谷に顔を見せないようにした。どんな表情をしているのか、自分でも分からない。ただ、泣いているのを見られたくなかった。

 それは別に恥ずかしいからじゃない。あいつのせいで私が泣いていると、そう思わせたくなかったからだ。

 ごしごしと目をこすって涙を拭おうとするが、溢れ出す雫は拭いても拭いてもキリがなく、一向に止まってくれそうにない。

「あ、じゃあまあ、ゆっくり休んで帰れそうなら気をつけて!事故っちゃダメだよ、フラフラしてるんだから!バカ谷なんだから注意しないと!」

 喋ってみようとしても、思った以上に上ずった涙声が出て、慌てた私はまとまりのない言葉を垂れ流してしまう。気まずくて、恥ずかしくて、申し訳なくて、混乱して、もうこの空間に長く居るのは耐えられない。ごちゃ混ぜの感情は私自身に緊急退避命令を下していた。

「え?おい、清水―――」

「じゃ、じゃあ私は先に帰るから!お大事に!」

 何かを言いかけて呼び止める中谷を制し、私は大急ぎで保健室を飛び出した。出て行く時にちょうどすれ違った保健の先生がびっくりした顔をしてたけど、構わずダッシュでその場から逃げ出す。置土産のような涙が一滴、薄暗い廊下に零れ落ちた。

「はぁ……あいつ、アレ覚えてるのかな。」

 当然、中谷の独り言も私の耳には届くことはない。窓の外を灰色に染める曇天が、やけに虚しさを増大させた。

 

 

 夕刻の雨道を、朝とはまったく大違いのスローペースで独り歩く。若干小降りになった雨は広げた傘に当たり、パラパラと音を立てて弾けている。

 結局、誘えなかったな……。昼間の決意も今は虚しく、降る雨に流されていく。

 何でいつもこうなっちゃうんだろう。本当は仲良くしたいのに、気が付けば手が出てしまう。自分で固めた決意も、自分で台無しにしてしまう。コントロールできない気持ちを呪い、罪悪感に苛まれながらの足取りは重かった。

 私は今、家ではなく近所の神社に向かっている。これは別に信仰のためではなく(と言ったら罰当たりにも聞こえるけど)、この神社がある場所は高台になっていて、町を見渡せるからだ。だから私は毎年お祭りの前日にここにきて、出店がどの辺りに建てられているかを確認している。

「んー、やっぱ中止かなぁ……。」

 見たところ、やはり今年はかなり少ない。どうやら中止になるだろうと考えている人のほうが遥かに多いらしい。

 空を仰ぎ見るも、相変わらず濁ったままの雲が広がっている。絶えず天空から零れる水滴は、彦星に会えない織姫の涙なのだろうか。そんなロマンチックな想像をしながら視線を落とすと、少し離れた場所にある木の陰に誰かがいるのに気が付いた。私もだけど、そもそも雨の日のこんな時間にここに人がいることは珍しい。しかもあの様子だと、誰か待っているようにも見える。

 不躾だとは思いながらも、どんな人物なのか気になった私は、姿を見ようとその人影に近づいていく。どうやらそこそこ長身で体格のいい、男の人のよう―――

 

「…………え?」

 

 ―――ありえないものを見た。黒い傘を広げてそこに立っているのは、見紛うこともない、さっきまで学校の保健室で転がっていたはずの中谷に違いなかった。

「な……バカ谷、なんでこんなとこにいんの!」

 慌てて駆け寄り、一喝する。やっぱり中谷だ。まだフラフラしてると言っていたのにこんな高台まで上がってくるなんて正気の沙汰じゃない。というより、先に出てきたはずの私をこいつはいつ追い抜いたのだろうか。神出鬼没にも程がある。

 しかし中谷は私の言ったことに対し、あからさまに怪訝な表情を浮かべている。私が何を言ってるのか分からないといった風だ。

「あ、やっと来たか清水。……なに驚いてんだよ、お前が呼んだんだろ。」

「……はぁ?」

 退屈そうな響きが言葉の端から読み取れた。でも呼ぶも何も、私はさっきこいつの前から脱兎のごとく逃げ出してきたばかりだ。明日の七夕祭りへの誘いも出来なかったのに、こんなところに呼び出しようもない。ノックダウンしたときに頭でも打ったのだろうか。それならばこんなところに来るよりも、真っ先に脳外科に行くべきだ。

「あー、やっぱり覚えてねーのかよ。さっきの様子からそんなことだろうとは思ったけどさ……約束したろ、祭りの前日にここで待ってるって。言い出したのお前だぞ?」

 言われて記憶の中を探るが、やはりそんな覚えはない。本気で分からず悩む私に、中谷がダメ押しの一言を付け加える。

「お前の誕生日だよ。『プレゼントなんかいらないから、祭りの前日この神社で待て』って言ってたろ?」

「あ……!」

 思い出した。昼間の一件ですっかり忘れてたんだけど、欲しいものが思い浮かばなくて咄嗟に取り付けた約束がそれだったはずだ。半ば冗談のつもりで言ったのに、よく覚えていたものだ。

「あんた、それずっと覚えてたの……?」

「当たり前だろ、俺は約束を守る男だ。ま、誰かさんはそんな口約束なんてすっぽかしても平気みたいだけどな」

 皮肉たっぷりな流し目を受け、私は窮した。言い返すことが出来ない。普段の私なら蹴りの一発で解決するだろうけど、百パーセント私が悪い上に、昼間の件もある。なんとか蹴りたい衝動を抑え、代わりに言葉をひねり出した。

「やっぱりバカ。バカ谷。あんな勢いだけの約束のために、こんな調子でこんな天気なのに、こんな場所にまで……。」

「約束ってのはそういうもんさ。勢いだけの口約束でも、交わしたからには責任があるだろ。俺はそれを疎かにしたくない。」

 会話が途切れた。サーっと静かに降り続ける雨音だけが境内に響いている。

 私は何気なく中谷の顔を見た。約束に律儀な中谷を、不覚にもかっこいいと思ってしまったのだ。じっと見ていると、視線が気になったらしい中谷が振り向いて、目が合って気まずくなったので止めたけど。

 

 

「なあ、清水。」

 二人の沈黙を破ったのは、中谷のほうだった。高台から町を見下ろす格好のまま、呼びかけに続く言葉を紡ぐ。

「明日晴れたらさ、祭り行こうぜ。晴れるかわからないから、まだ誰も誘ってないんだろ?」

「え……なんでそんなこと知ってんの?」

「昼間話してたじゃん。」

 こいつ……やっぱり聞いてたのか!

 『言いたかったけど言い出せなかった』こと、それを向こうからあっさり言われたことへの驚き。その全部を飛び越して、私の思いは一箇所へと集約した。ようやく働かせた自制心も忘れ、拳を一発全力で叩き込んでやろうと動いた。せめてもの情けとして、顔じゃなく腹にだ。

「あー、やめろって暴力女!論点はそこじゃないだろっ!」

 中谷はそれを掌で受け止めると、ズイと私を引き寄せた。顔と顔が目前で向き合う形になる。……ち、近い!

「で、どうよ?俺と行かないか?」

 顔が真っ赤になるのを感じる。心臓が高鳴る。不覚にも、この嫌な嫌なやつに対してだ。私はとりあえず中谷を突き飛ばして距離を取り、さらに数歩引いて十分な距離を確保して、それから答えた。

「ばーか、女の子にそんな乱暴な迫り方したら嫌われるよ!」

「なっ……!」

 中谷は驚きを隠さない。完全に予想外の答えだったらしく、鳩が豆鉄砲を受けたような表情のままで固まった。普段スキのない中谷に追い打ちをかける、これは絶好のチャンスだ。

「……せいぜい楽しませてよね。」

 この言葉の意味が一瞬頭に入らなかったらしく、呆ける鳩のポーズを半秒ほど続ける中谷。それももう半秒ほどすると、その表情は氷が融解するようにいつもの自信に満ちた笑顔へと戻っていった。

「ばーか。」

 急に輝きだす笑顔は子供のようであり、真夏の太陽のようであった。それを見て呟く私の声は、少し雲の切れ間の見える遠くの空へ、人知れず運ばれていった。

 

 雨はいつしか、傘も要らないほどの小降りへと変わっていた。

 

 

 中谷は私の幼馴染。いつも私を惑わせる、嫌なやつ。嫌いじゃないけど、嫌なやつ。私のやりたかった事も、無意識・無自覚に横取りしちゃうような嫌なやつ。

 

 でも。だからこそ私はあいつに惹かれたのかも知れない。私に出来ないことを軽くやってのける、嫌な嫌なあいつに。

 

 とりあえず、いま思うところは。

 

 明日、晴れるかな。

 

Under the Ground…fin.

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