花冠

忍人

 

春、桜

 

「珍しいね、アオキが私を呼び出すなんて」
「そうかな、そうかもしれないな。迷惑ではなかったか」
「ああ、ちっとも」


 ちちち、と何処かで雀の鳴く声がした。
 雪のような軽さで桜が舞い、アオキの黒い髪に薄桃色を落とした。病的な位白いその肌に、桜の淡い色は良く似合う。長い睫毛に縁取られた色素の薄い瞳が私を見た。中性的な顔立ちは、同性である事を忘れさせる程時に女性的でもあった。

「春と云ってもまだまだ寒いな。君は知っているだろうか、桜降るこの季節の寒さのことを花冷えと呼ぶらしい。日本語は美しいね」
「そんな話をするために私を呼んだのか」
「いや、違う」

 高くもない、低くもない、不思議なトーンが鼓膜を叩く。ペンキのはげ落ちたベンチに座るアオキの隣に、私もゆっくりと腰を据えた。数ヶ月前にはこの場所が私の定位置だったことをふと思い出す。それと同時にふわりと花の香が舞った。佇む桜の樹木ではなく、すぐ隣の男から。
 アオキが鞄から弁当箱を取り出した。ああ、そういえば話をしたいことがあるから久しぶりに昼飯でも一緒にどうか、という誘いだった。

「君とこうして弁当を食べるのも久しいな」
「ああ、そうだ」

 大学に入り立ての頃は何時でも私の隣にいるのはアオキで、アオキの隣にいるのは私だった。互いに人付き合いが苦手だということもあったのだろう、アオキの方は知らないが少なくとも私が友人と呼んでいるのは彼だけだった。けれどその秋、アオキに彼女なるものができた。花のように小さく、控えめな愛らしい女性だ。ただ、それだけだ。しかしそれだけで十分だった。
 アオキの隣には彼女が、彼女の隣にはアオキが。私の居座っていたその場所に、別の人間が位置したというたったそれだけのことだった。

「それで、話があると」
「ああ、うん、そうだ、話だ。まだ誰にも話していない、話す予定もない話だ」
「じゃあ何故私を呼んだ」
「君はトクベツだ」

 アオキが笑った。笑って、かたんと開いた弁当箱の中には、桜の花弁と花が隙間なく詰まっていた。

「僕はどうやら花しか食べることのできない体になってしまったらしい」

 アオキはそう言って、桜の花を一つ箸で掴んで口に運んだ。

 数日前、ふわりと踊る桜を見てどうにもそれを食べてみたい衝動に駆られた、と。食べてみると今まで食べたどんな食物よりも美味い。美味くて、美味くて、それから何を口にしても体が受け付けなくなってしまった。それでも不思議なことに道咲く花を見ると食欲が顔を出す。試しに口にすると美味い、花とはこんなにも美味いものだったのか。それからアオキは一切花以外のものを食べるのを止めてしまったと、自分は異常なのだと。弁当箱に無造作に押し込められた花をぱくぱくと食べながら、困ったように笑った。

「気持ちが悪いか」
「いや」
「君ならそう言ってくれると思ったんだ」

 ああ、そうか。さっき香った花の甘さはこのせいか。そういえばただでさえ細いアオキがより一層細くなったようにも思う。なんて、実際こうして言葉を交わすのも久方振りで、私の知る記憶の中のアオキと比べただけに過ぎないのでそれが正しいのかは解らない。現実とは何時も不透明だ。

「色々食べたけれどやはり桜が一番美味い」
「そうか」
「皆が寝静まった頃にそっと桜を集めに行くのが日課になってしまった。夜の桜は美しいよ、今度夜桜でもどうだ」
「考えておく」

 

 何時の間にかアオキの弁当箱は空だった。私は何故だが食欲が湧かず、今朝コンビニで買って来た菓子パンを鞄から出すことすら億劫に感じていた。桜が舞う。花弁を数枚、アオキは緩慢な仕種で掌に掬ってそのまま食べた。それから少し照れたように、まだ少しだけ腹が減っていたのだと笑った。

 

「話はそれだけだ」

「そうか」

 

 立ち上がったアオキは空に溶ける薄桃色を一度仰いでから私を見た。桜の花とアオキから舞い散った甘い香りが混ざり合って酔いそうになる。名残惜しそうな視線は、風に乗る花弁を見るその表情に何処か似ているような気がした。

 

「さよなら、サクラ」

「さよなら、アオキ」

 

桜舞う道をゆっくりと歩いていく背中を眺めながら、この先アオキと会うことはもう二度とないのだろうなと漠然と思った。

 

ちちち、と何処かで雀の鳴く声がした。

雪のような軽さで桜が舞い、掌に落ちた花弁から放たれる香りがどうにも私の食欲を誘っていた。

 

夏、時計草

 

 いらっしゃい、お客様。此処に客人が来るなんて……実に何年振りでしょう。人と言葉を交わすことも随分と久方振りに思えます。此処はただでさえ辺鄙な場所ですし、此処を知る方々は不気味がって余り近寄っては来ませんから。……ええ、ええ、そうですか。接待でこの場所を訪れて、偶然私の館を見つけた、と。そうですね、此処を訪れる方の大半はそのような理由が多いように思えます。先にも云った通り、私を訪ねる物好きなんて、居ませんから。

ところでお客様、貴方が此処を訪れたのも何かの縁でしょう。私の昔話でも一つ聴いて行ってはくれないでしょうか、人と話をするのは本当に久方振りなのです。……ええ、それ程お時間は取らせません。何、本当にちょっとした私の昔話なのです。

……ええ、それと云うのもね、丁度貴方程の歳端の頃から私の時間は止まっているのですよ。貴方お見受けする限り三十歳と云った所でしょう。……ああ、失敬。歳よりも随分と落ち着いた雰囲気だったもので。……私ところで幾つに見えるでしょうか。……八十です、八十。先日きっかり八十の誕生日を迎えた所です。見えないでしょう、五十年前から私の時間は止まっているのですからそれが至極当然のことなのです。

私の時間が止まってしまった理由、ですか。これですよ、これ。貴方も見たでしょう。庭一面に咲き誇るこの美しい時計草を。これを食べたあの日から、私の時間は動くことを止めたのです。ええ、更に云うと私はあの日からこの花以外を食べるのを止めたのです。止めた、というよりはこれ以外のものを身体が受け付けなくなった、という方が適切かもしれません。それもそうでしょう。きっとこの花以外のものを食べたなら、私の時間は動き出してしまうのです。塞き止められた時間は溢れ、零れ、私は止まっていた五十年を取り戻す。

一体どうなってしまうのでしょう。解りませんし、これから先解ることもないのでしょう。私はこの花を食べることを止めないし、きっと花の方もそれを望んでいるのですから。

……おや、もうお帰りですか。もっとゆっくりしていって下さって結構ですのに。

……では土産にこれをどうぞ、ええ、時計草です。観賞用でも、私のように食べてみるでも貴方のお好きなようになさって下さい。

……お名残惜しいですがさようなら、客人の方。願わくばまたお会いできることを願って。

 

 

 

 

 

 

 

 

ミンミン蝉の鳴く声が嫌に耳に響いていた。

手渡された時計草の香りが鼻につく。それにしても、何だったのだろう、あの男は。

入社したばかりの会社、初めての接待、辺鄙な山奥で見付けたのは物語では良くある大きな洋館。それに加えて広大な庭一面に広がる不気味な花達に好奇心を掻き立てられ、気付いた時には大きな鉄扉をノックしていた。

出てきたのは男、男の話を聞いている内にこれは関わってはいけない人間だと脳が警報を鳴らすのが解った。

 

花を食べているだと、こんな不気味な花を。その名の通り時計によく似たこの花は、無機物がまるで息衝いているかのような感覚を魅せ、不調和というのだろうか、違和感にも似た不快感を抱かせる。少なくとも、男が言うように美しいという印象を俺に与えることはなかった。

それに自分の時間は止まっている、とも。一体何を言っているのだろうか、自分で告げた八十と言う年齢に相応しい見た目をした老人のくせに。

 

偶にやってくるという客人を騙すための戯れ言か、そうでなければ気の狂ってしまった老人のたわ言だろう。

理由はどうあれ俺には関係のないことだ、もう関わることもないのだろう。別れ際に手渡された時計草に一瞥をくれて、試しに一口食べてみたが直ぐに吐き出した。馬鹿馬鹿しい、とても食べられた味ではない。秒針の欠けてしまった時計草を無造作に道端に投げ捨てて、帰路を急いだ。あの癇癪持ちの社長を怒らせてしまっては後々が面倒だ。

 

何時の間にか、さっきまであんなに煩かった蝉の声は聞こえなくなっていた。

 

秋、彼岸花

 

「何をしているんですか」
「花を食べているのよ」

 咲き誇る彼岸花の真ん中で狂気によく似た笑みを浮かべて彼女は笑った。不気味だとかそういった負の印象を抱くよりも先に、単純に美しいと思った。目が痛い程の鮮やかな赤に溶ける、日本人形を思わせる黒髪と透き通るような白肌は病的な印象を受ける。彼岸花と同じ色をした、薄い唇が弧を引き妖しい雰囲気を魅せていた。
 夕焼けの橙と彼岸花の赤が溶け合って、視界に映る一面がまるで本当にあの世のようだ。僕は何時の間にか死の世界へと迷い込んでいたのかと思わせる程に、此処では生を感じることが難しく思えた。

「一体どうして花なんかを」
「私の愛しい人が逝ってしまったの」

 赤い唇が赤い花弁に口づけた。まるで時間が止まってしまったかのような感覚、細い喉がこくりと鳴って漸く現実に引き戻される。

彼女は笑っていた。狂気によく似たあの笑みではなく、まるで少女のような幼いそれは歳不相応にも見えた。見た所自分の母親よりも少し若いだけのように思う、三十手前位だろうか。憂いを帯びた横顔はどこか少女特有のあどけなさも遺していて、どこまでも不思議な女性だと思った。

「この花を食べ続けていたら、何時かあの人の所へ逝けるのじゃあないかと思って。もう何年になるかしら、私はまだこうしてこの花を食べ続けているのだけれど」

 愛しい男の元へと逝く為に、何年もこの花を食べ続ける女性。彼女についてはそれしか知らなかったし、また彼女はそれ以上を教えてはくれなかった。ただ夕刻、辺りが橙に染まり始める頃、決まって彼女はここで花を食べ、そんな彼女の隣で話をすることが何時しか僕の日課となっていった。
 簡単な相槌と、時たま見せる微笑み。死の香りが漂うこの場所の居心地は決して良くはなかったけれど、僕はこの時間を堪らなく愛おしく思っていた。彼女に、恋情にも似た想いを抱いていたのかもしれない。

 だから、僕も食べることにした。彼女が花を食べる横顔が、余りに美しかったから。少しでも共有したかった。けれど彼女の前でそれを食べることは憚られた。背徳感というか、理由はないけれど、それが何だかとてもいけないことのように感じたからだ。
 こっそりと夜中に家を抜け出して訪れたその場所からは、夕方よりもはっきりと死の匂いを感じる。彼岸花の海の中で、一輪の花を摘み取った。赤い花弁に誘われるままに僕はそれを食べた。




 

「――……カエデ、カエデ、目が覚めたのね、……あなたどうしてあんな花なんかを……」

 目が覚めると白い天井が僕を出迎えた。消毒液の臭いがつんと鼻を掠める。死の世界へと近しいあの場所よりも、より一層に死を感じた。ああ、ここは病院か。一体何故、何時、僕は。

僕を見て泣きじゃくる母親の声が遠くに聞こえる。

「何故あんな花なんかを食べたの、あなたもうすぐで死ぬところだったのよ……、なんであんな毒のある――……」

 

 母親の声がまるで人事のように遠い。ふらつく頭を押さえながら、僕は走っていた。目的地なんて決まっている。夕方の橙に染まりはじめた空、何時ものように広がる赤色の海、死の世界。
 ただ何時もと違うのは、そこに彼女がいないということだけだった。
 

もう彼女は此処には来ないのだろうな、と根拠もなく思う。そうして赤い花弁を愛おしそうに食んでいた、彼女の赤い唇を思い出す。

僕は、一輪の彼岸花にそっと口づけた。

 

冬、椿

 

私の妹が、昨日死にました。

 私達は産まれた時からずっと一緒でした。私達は所謂双子というものでした。鏡に映したように私達はそっくりの容貌で、またそうなるように私達自身気を付けていました。私達は私達が大好きだったのです。黒々と伸ばした髪も、互いを映し出す瞳も、色の白い肌も、赤い唇も。
 片時も傍を離れず、何をするにも私達は一緒でした。少しでも傍を離れると、途端に不安な心持ちになりました。何故私達は別個の人間として産まれ落ちてしまったのでしょうと歎く程に、私達は互いに補い合い、依存し合っていたのです。

 そんな私達にも二つだけ、違う所がありました。一つ目は、妹はいつも真っ白な服を、私は真っ赤な服を着ていたこと。  

二つ目は、妹は白い椿だけを、私は赤い椿だけを食べて生きていたこと。食事の時間は至福でした。妹は私に、私は妹に椿の花を食べさせるのです。食事が終わった後に、何とも幸せそうに笑う妹が私は大好きでした。

 そんな妹が昨日死にました。何時もよりも陰鬱な朝でした。窓から見える曇り空、何時もは隣に眠っている妹の姿がありませんでした。代わりに部屋を満たしていたのは吐き気を催す程の椿の香り。

 

 


 ベッドの下に転がっていたのは、まるで椿の花の終わりのように、ぽろりと首の零れた妹でした。



 嗚呼、ああ、どうして。その場で気が狂ってしまいそうでした。いえ、気が狂ってしまった方が楽だったのでしょう。妹のいない世界で生きていく方法を私は知りませんから。床に横たわる冷たくなった妹の抜け殻を抱きしめて、一晩中泣きました。涙が枯れ果て、血の涙が流れても私は泣くのを止めませんでした。そうして思いました。産まれた時が同じなら、きっと死ぬ時だって同じであるべきなのだと。

私は死を決意しました。
 

ええ、けれど一つ、一つだけ、妹のいないこの世界に未練があったのです。それは本当に些細なことでした。

 私は妹の色をしたあの、白い椿を一度でいいから食べてみたかったのです。それを食べてからでも遅くはないでしょう。私は赤の椿、妹は白の椿。それで良かったのです、それで良かったのですが私は妹の白が少し、ほんの少し羨ましかったのです。
 一体どんな味がするのでしょう、妹があんなにも大好きだった白い色。花を食べた時の妹の幸福そうな表情を思い出して、また少しだけ泣きました。それから机に置かれた白椿の花を、そっと掬って食べました。

 赤い椿と白い椿、一体そこにどんな違いがあったのでしょう。そもそも初めから違いなんてなかったのかもしれません。まるで私達と同じように、赤い椿と白い椿を隔てるものはその色だけだったのかもしれません。けれど私にはそれを確認する術がもうないのです。

 ごとん、と何かが落ちる音がして、私は瞼を伏せたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※作中に出てきた花は、副毒性のあるものを含みます。決して真似をして食べないで下さい

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