Self―Absorption   ~活動日誌 6月~                   流斗 「先輩のあほぉおおおおおおおおおおおおおお!」罵声から始まる放課後。僕と先輩は部室で対峙していた。「先輩僕のおやつ食べたでしょうが!」「何を言うのだ、後輩! この部室の責任者は部長である僕だ!つまりこの部室に置いてある物の責任はすべて僕が持つことになる。つまりこれは僕のお菓子だ!」「何をもっともらしいことを言っているんですか、この見た目詐欺のド変態が!?」「僕よりもまっとうな者がこの世にいるだろうか? いないだろう! 僕以上の自己陶酔者がいるならここに連れてくるがいい」「そんな変態が他にもこの世にいてたまるかぁぁああああ!!」拳を握る。そのまま、身体を沈め、全身に力を込めていく。「許しません……」「こっ、後輩!?」「食べ物の恨みぃいいいいいいいいいいいいい!」全身に込めた力を放ち、膝のバネを利用し床を蹴る。そのまま先輩に向かって飛び掛かり、拳を振りかぶる。「死ねぇえええええええええええええええええ!」勝負は一瞬で決まる。このまま顔面に拳を叩き込む!が、紙一重でそれを回避し左手で僕の拳を止め、力を流しながら、手首を掴む先輩。「避けないで下さいぃいいいいい!」「無茶いうなぁあああああああああああああ!?」そのまま飛び掛かってきた僕の力を利用し、先輩が後ろへ身体を傾ける。僕の身体が浮き上がると同時に腹部に膝を入れられ、「ぐっふぉおおぁあああ!?」先輩がそのまま床へと倒れていく。ちょ、手首離してくだ…… そのまま僕の身体が空中で一回転し、背中から地面に叩きつけられ、一瞬息が止まる。「……っ……ぎゃあああああああああああああああああ背中いてぇええええええええええええええええ!?」「背骨が! 背骨がぁあああああああああああああああ!?」僕と先輩の悲鳴が部室にこだまする。「……後輩」「……なんですか先輩」「僕たちはなぜこんなことをしているのだ」「先輩が僕のお菓子食べたからですよ」「…………食べ物の恨みがこんなに痛いものだと僕は今まで知らなかった」「僕もです。痛いです……背中にこんな激痛が走ったのは初めてです……」「正直すまなかった……背中的な意味で」「分かってくれたのなら結構です。お菓子的な意味で」「仕方ない。今度買ってこよう」「それで許します」さて、いきなり殴り合いが始まったこの部活、自己陶酔部。とある諸事情から僕は部長であるこの中川陽斗(なかがわはると)先輩に拉致され、今では自己陶酔部の部員となってしまった。自己陶酔部の活動としては、先輩曰く、自己陶酔する部活であり、親が子どもを褒めないこの日本という謙遜の国のなかで、親や教師が褒めないなら自分で褒めれば良いじゃないか。いかに自分自身を磨き上げ、自分に陶酔するか、それを日々追及する幸せな団体らしい。決して怪しいものではなく、ただ毎日先輩が自己陶酔しているだけの活動である。僕は無理やり入部させられたので、自己陶酔することは一切ない。この一般的な目線から見ると頭のおかしい部活だが、先輩はこの活動に非常に誇りを持っており、常に自己陶酔している人間だが、何も見た目までおかしい人ではない。まぁまぁ整った顔立ちをしていて、特別かっこいいという程でもないが、なぜか僕のクラスの女子の評判は意外と高いようだ。髪も黒く、特徴的なものと言えば少々茶色がかった優しそうな瞳だけである。背も僕より少し高いぐらいで、本当に見た目はどこにでもいる人なのだ。「それよりも先ほどの僕の間一髪の避けと膝蹴りの華麗さは素晴らしかったな」先輩が服についた埃を払いながらそんなことを言う。「……もう一度殴ってもいいですか?」「ふふ、よせ後輩。後輩の手は一度も僕を掠めていないだろう。あぁ、僕は運動神経すら素晴らしい。後輩の拳を華麗に回避し、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」「そこまではしてないでしょうが!」「自己陶酔者たるもの、物事を誇張して自己陶酔も必要である!」「何をもっともらしく言っているんですか、この変態!」「なにおぅ!」僕と先輩が再び対峙し、睨み合う。どちらかが動いたと同時にお互いが飛び出す用意はできている。……今度こそ倒す。一触即発。ドォオオオオンッ!謎の効果音と同時に僕と先輩のちょうど中間にあった扉が開け放たれ、目の前に亜麻色の長髪がひらりと見えたかと思った瞬間。「ぐはぁっ!?」という先輩の叫び声が聞こえてきた。どうやら扉にぶつかった挙句、亜麻色の髪の主に押し倒され、床に頭をぶつけたらしい。なんだかよくわからないけどナイス!「って押し倒し……!?」 先輩の上で蠢く女……の子……?「君は一体何を……」先輩も驚いたのか目を丸くし、女の子を押しのけようとする。けれど、女の子は押しのける手を押さえつけ、胸倉をつかみあげると、にっこりとほほ笑み、「いいからお前はしばらくたーくんなんだよ」そう小さく、しかしはっきりとドスの聞いた声で言うと、先輩の片腕に貧相な胸をぎゅっと押し付け、「水無月紫陽(みなづきしよう)。紫陽花の紫と陽で「しよう」よ。よろしくね、たーぁくんっ」と今度は甘い声で告げる。鈴のようにコロコロとした可愛らしい声。猫目がちで大きくまんまるな黒曜石のような瞳。小柄な体型をしていて貧相な胸をしているが、その顔は見た目よりも艶やかで蠱惑的な微笑みを浮かべている。頬は薄く桃色で、肌の色は白く、亜麻色の長い髪はさらさらとしていて非常に美しい。リボンの色が青色なので、どうやら僕と同学年のようだ。「あ、藤間卯月(ふじまうづき)。あんたはしばらく空気になっていなさい」僕がぼーっと人間観察している間に、少女はまたあのドスの聞いた声でそう告げた。「な……なんで僕の名前……!?」「来た! 黙りなさい!」「紫陽(しよう)! ここかぁあああああああああ!」男の声が遠くから聞こえたかと思うと、ダダダダダッと廊下を走る音が響き、そのまま足跡の主が部室へと飛び込んできた。なかなかの好青年。きちんと整えられた黒髪に清潔感のある服装。学年はネクタイの色から判別するに先輩と同級生のようだ。「ここから紫陽の匂いがした!」うわぁ……匂いで判別!?……変態だよ。また見かけ詐欺だ。「えへっ。たーぁくーんっ」紫陽と名乗った女の子は、自分の名前やら匂いやらを叫ぶ男など眼中にはないようで、先輩の腕に抱きつき、甘い笑みを浮かべながら先輩を見つめている。「紫陽! お前……! なぜ俺から逃げる?」男の言葉に紫陽は、まるで毛虫でも見るかのような、冷たい瞳を向け、「菖蒲(しょうぶ)とは別れるって言ったじゃない」と冷たい声音で告げる。そのまま、先輩の背中をぎゅっと抓みあげる。「ぬぁっ……。ということだ、君は紫陽に振られたようだな。金輪際、紫陽には近づかないでいただこうか」先輩……。急に生き生きとし出したな。きっと人助けをする自分に自己陶酔し始めたのだろう……。僕はといえば、紫陽の言うとおり、不本意だが空気となっていた。「紫陽。本気で言っているのか?」「本気よ」「というわけだ。彼女は僕のあまりの素晴らしさにほれ込んでしまったのだ。うぐっ……。き、君は彼女に振られてまで追いかけ回すような無粋な男に成り下がるのかい?」キャラ作りとはいえ嫌な人になったなぁ……。菖蒲と呼ばれた青年が悔しそうな、悲しそうな表情を浮かべたかと思うと、くるりと身を翻し、立ち去っていく。「先輩、すごく嫌な奴に成り下がりましたね」僕の一言に、先輩は不本意だとばかりに僕を睨み付ける。「……後輩、僕の後ろを見てごらん? この突き立てられた鋏(はさみ)を! しかも裁ち鋏な辺りがなおさら怖い!」「……すみません。先輩の事信じていました。本当にもう、珍しく素直に褒め称えたくなりました。名演技です」「ふふふ、だろう? そうだろう? 僕は料理や運動、学業もひたすら優秀だが、さらには演技力も備えているのだ。カンペキ人間なのだよ、後輩。もっと褒めてくれて構わない!」「うわぁっ……。あんた、めんどくさそう」僕と先輩が謎の信頼関係を確認し合っている空間に響く、冷めた厳しい一言。確かに先輩はめんどくさいけど……。「ま、ありがと。助かったわ。最近ストーカーみたいに女々しい男が増えたから、私みたいに可愛くて可憐な美少女は本当に困っちゃうわ」「で? なんでいきなり僕を頼ったんだい? まぁ、僕が頼りがいのある男というのが学校中に広まっているのはっ……ぬっ……」先輩の顔面に一枚の白い紙が押し付けられる。「ん……あぁ、この紙を見たのか」「えぇ、そうよ。助けてくれるのでしょう? 自己陶酔部」「……まぁいいだろう。不本意ながらこのチラシを作ったのは僕自身だ。今はもう新入部員は募集していないが、困っている人間を助ける僕は本当に素敵で素晴らしい。任されよう」なにやら僕の分からないところで話が進んでいる。「どういうことですか?」「新入部員を一時期募集していてな。その時期に人助けしますみたいな張り紙を数十枚ばらまいたわけだ。それがどうやら今頃効果を発揮したらしい。新入生歓迎が終わって時間が経つというのに……僕の作った広告は本当に恐ろしいものだ……」「いつから僕らはス●ット団になったんですか!」「ふふふ、プロの自己陶酔者たるものいつだって困っている人間の味方になるわけだ。そして孤独な自己陶酔者にはいつだって愛と勇気だけが友だ……」「だからギリギリな発言はやめましょうって先輩!」とにかく、先輩は女の子を助けつもりらしい。「じゃあ、助けてあげてくださいね。僕は帰ります」そう言って手荷物を持ち上げ、帰ろうとする僕の服を紫陽がぎゅっとつかむ。「なにを言っているのよ、空気。あんたも自己陶酔部なんでしょう? 私を助けなさいよ」「嫌ですよ!自己陶酔部は自己陶酔するだけの部活であってお助け部でもありませんし、それどころか、僕は自己陶酔しない自己陶酔部なんですよぉおおお!」「意味わかんないことを言ってるんじゃないわよ」「僕は先輩とは違う人種という事です」「へー。関係なぁぃ☆」「悪魔!?」「ふふふふ……付き合ってもらうわよ、卯月くん♪」「なんで僕の名前知っているんですか!」「企業秘密」「うわぁああああああああああああああああああ!」 頭を抱えて恐怖におびえる僕と、なにやら僕と紫陽を置いてけぼりで自己陶酔している先輩。結局紫陽の頼み事を聞いたのはそれから10分後のことだった。 「というわけで、君はあの男の人に諦めてもらいたいと」「そ。私何故かあの人と婚約関係なんて結ばれちゃって、付き合え―なんて父親に言われたんだけど、誰かに縛られるのって嫌いなのよね〜」そういって楽しそうに紫陽が微笑む。「今でもあるんだな、そういうの」「まぁ、私の家は一応老舗の着物屋をしていてね、菖蒲の家はその得意先。親同士が仲がいいってのもあるわね。私はあいつとは幼馴染なだけで、好きな男なんていないし、今日はみー君と、明日はまー君と遊ぶんだもの」「……先輩、僕この子を助けるのは嫌です」「奇遇だな、後輩。僕は自分だけを愛する自己陶酔者だから、色んな人に目移りする気持ちがあまり分からない」「自己陶酔者自己陶酔者って、自己陶酔して何になるの?」それに先輩の瞳が一瞬曇る。けれど先輩はすぐに微笑み、「良いだろう。説明しよう。世の中にはこんな言葉がある「褒めて伸ばす」。けれどこれは褒められる環境があったからこそだろう? だが、僕たちが褒められる環境に常に居続けることは非常に難しい。それなら僕たちは自分で褒めればいいのではないだろうか? 自分で伸ばそう小さな芽!」先輩のどや顔。「あんたもそうなの?」それに僕は力なく首を振り、「僕は先輩に弱みを握られただけです」「なーんだ。あんたクラスでは根暗で一人ぼっちって言われてるくせに、自己陶酔するナルシストだったのかと思ったわ」グサァッ。僕の心が抉られる音が聞こえた。どうせ僕は根暗ですよ。傷口抉ってネガティブに生きているような男ですよ。実際問題、僕は友達が居ないし……。「さて、自己陶酔たーいむ!」先輩がもう人助けする自分に飽きたのか、一人写真撮影会をしている。最近の部室には先輩専用衣装クローゼットとか、小道具グッズ、ティーセットなどが設置されている。出会ったころより残念な人になっているのは気のせいだろうか?「飲み物買ってきなさいよ」椅子に座り足を組み、高圧的に僕に向かって命令する。目の前には我儘娘と自己陶酔男。電波娘と青春男の方がまだ可愛いよ!「めんどくせぇええええええええええ!」僕の罵声が響き渡る。それから数週間。紫陽は暇なときは自己陶酔部の部室を訪れ、それ以外の時間は誰かしらの男の子と過ごしているようだった。彼女の評判はどんどんと右肩下がりとなるが、本人はそんなことどこ吹く風のようで、毎日自由に楽しく過ごしているようだった。 ◆ 「じゃあ僕は先に帰るよ。職員室に用があるんだ」先輩が部室から出ていく。外は梅雨に入ったせいか、連日の雨である。じめじめとした空気が肌にまとわりつく。紫陽の髪も雨で落ち着かないのか、先ほどから椅子の上に体操座りをしてせわしなく髪を梳かしている。「紫陽花みたいでしょう」「……え?」「傘」紫陽の一言に、もう一度外を見つめる。言われてみれば、色とりどりの傘が一つ一つの花びらで、その集団が一つの紫陽花のように見えなくもない。「風流な事を言いますね」「……好きなの。紫陽花の花。私は六月に産まれたから。紫陽花の花のように雨の中でも気高く生きなさいって。だから紫陽」「へぇ……綺麗な名前」素直に褒めると、顔を真っ赤に染め、「あんたに褒められてもうれしくない!」ピシャリっとした言葉が部室に響いた。 ……今流行りのツンデレというやつだろうか?先に帰ってしまった先輩。残された僕と紫陽。先ほど怒鳴られたせいだろうか。気まずい時間が流れる。「と、とりあえず帰りましょう」「そうね」つまらなさそうに立ち上がり、僕の後に続く。廊下を二人並んで、歩き続ける。無言……。恐ろしく気まずい。「あ……」突然、紫陽の冷めた声が聞こえ、僕は驚きのあまり飛び上がりそうになるのを必死に抑えた。「…………そう」瞳が見開かれ、ぼぉっと雨で景色が霞むように、彼女の瞳に悲しみの色が宿る。視線の先。そこには先日紫陽が振った菖蒲さんと、髪の長い線の細い女の子が相合傘で手をつないで歩いていた。女の子の顔は傘で隠れていて見えない。二人が足取りを揃えて進んでいく姿を、彼女は一本の花のように真っ直ぐと、動じることもなく、ただその場に流されないように、静かに見つめていた。 それから数日間。紫陽は枯れていく紫陽花のようだった。壊れていく自分に耐えるように、泣くわけでも、叫ぶわけでもなく、ただじっと、ここではないどこか別の世界を眺めるような瞳をしながら、授業が終わると、自己陶酔部の部室に来て、ぼーっと外を眺めているようになった。あの日から降り続く雨はまるで、泣かない紫陽の代わりに、慟哭しているようで、僕はただ紫陽の傍で彼女の弱っていく姿を眺めることしかできなかった。 ◆ 「何か食べないとだめですよ」「嫌よ」あれから数日。頑なに食べる事を拒否する紫陽は、何かを願うように、何かを信じるように、鬼気迫るものがあった。机に突っ伏した紫陽の目の前に立ち、一生懸命説得する僕。ただでさえ根暗で一人ぼっちのレッテルを貼られている僕が、目立つ紫陽といるなんて……。周りの視線も痛い……。「紫陽。何も食べてないと聞いた。夜も寝ていないのだろう。化粧で隠しているが目の下に隈があるな。俺には分かる」僕の背後から声がする。視線を向けると、そこにはあの男性がいた。心配そうな表情で、こちらを窺うように悲しそうに見つめている。ガタンッ!紫陽が立ち上がり、走り出す。「紫陽!」僕と男の制止を聞き入れず、紫陽が走り出す。何も食べてないのに、あんなに走ったら……!僕の頭の中で最悪の光景がぐるぐると回る。「待って!」「うっさい! ついてくるなぁああああ!」うぅ……心配してなのになんでこんな扱いなんだ……。嘆く僕の後ろから、ダダダダダッという効果音と共に「お前が泣いているからだろうがぁああああ!」という叫び声が響く。二人が叫びながら校庭に飛び出す。わざわざこんな雨の中校庭なんかに出なくても……。というかこの人紫陽の事になるとキャラが違う気がする……。きっと先輩タイプの人間だ。雨が降り、滲んだ景色の中で、二人が向き合って叫んでいる。「この前廊下で女の子と手繋いでたじゃん!」「お前には関係ないだろう」「そうだけど……!そうだけど……!」「お前が俺から離れたんだから関係ない」「だって、婚約とか嫌だもの。私はまだまだ、誰にも縛られたくなくて、自由で居たくて。菖蒲はたまに気持ち悪い事言う変人じゃない……いつも勝手に傍にいるだけだし……」頬に一筋の涙が伝ったように見えた。雨じゃない。紫陽は確かに涙を流していた。やめてくれ。これ以上紫陽を弱らせないでくれ!少し我儘なだけで、紫陽だってただの女の子だ。思わず走り出そうとする僕の手を誰かがつかんだ。「っ……先輩?」先輩が微笑み、シーッと口元で人差し指を立てる。「俺がいつお前を縛った? 俺はいつだってありのままの紫陽が良いよ。紫陽の事なら何でも分かっているつもりだ」「だって、父さんが結婚しなきゃだめって。私まだ高校生なんだよ。結婚なんて考えられるわけない」「そうだな」「お店がなに? 仕事がなに? お金が何? 私には関係ない。私が、私があんたと一緒にいるのにそういうのが絡むのが嫌だ」「じゃあなしにしよう」「は……? あんた何言って……?」「俺もめんどくさい。そのままでいいよ。自由に生きろよ。俺は、お前が楽しそうに笑っている姿がうれしいんだから」「やだ」「は?」「あんたがいないのはつまんない。」「お前ほんと我儘だなぁ……!」「我儘だよ。この前女の人といるだけでむかついた! あんたのことなんて大っ嫌いだけどすっごいむかついた!」紫陽がそういった瞬間。先輩が二人の間に入り、鞄の中からカツラを取り出した。カツ……ラ……?それを先輩は紫陽の目の前で装着し、「僕の女装はそんなに似合っていたか?」そう言って不敵に笑った。「……は?」号泣していた紫陽の涙が止まり、菖蒲さんは、苦笑いしながら恥ずかしそうにしている。「僕ほどのいい男だと、それはもうカツラをつけてほんの少しのメイクをするだけでそれは美しい女性に見えただろう。僕は美しかったか? 傘で顔を隠していれば、誰も僕だとは思いもしない」「……つまり……あんたが……。」「あぁ、あの時菖蒲と歩いていたのは僕だ」「はぁあああああああああ!?」傍観者であった僕と当事者である紫陽の叫びが響き渡る。「先輩いつから女装趣味なんてあったんですか!」「菖蒲、あんたまさか……男の娘趣味だったの!?」「違ぁあああああああああう!」先輩が紫陽をビシィッと指さす。出た!先輩の決めポーズ!「この男に頼まれたのだ。紫陽の目の前で女装して自分と歩いて欲しいと! なので、僕はその……恥を忍んでだな……」「ほんとなの……?」「本当だよ。嘘でも女の子と歩いたら紫陽が落ち込むかなって。だから中川に頼んでみた」「あんたって……ほんと馬鹿」「バカだよ。紫陽が中川に抱きついている姿を見たときは本当に落ち込んだ。けど、中川が次の日俺に話しかけてくれたんだ。『紫陽を振り向かせてみないか』って」男の頬が赤く染まると同時に、紫陽の頬も赤く染まる。「この……もう! どうしようもないバカ!」菖蒲が紫陽の手を引き、懐へと連れ込む。「お前、ほんと俺より馬鹿だなぁ」「なんでこんな強がりなんだよ、もー」「あーこんなに疲れた顔して」とか言いながら紫陽の頭を優しく撫でる。僕は先輩の隣へと歩を進め、じとりと睨み付ける。「なんで僕にも秘密にしていたんですか。というか、いつから紫陽の気持ちに気付いていたんですか?」「敵を騙すにはまず味方だ。王道だろう?」「はぁ……。それで? これでよかったんですかね、先輩」僕のなんとも言い難い一言に、先輩は優しそうな瞳をさらに優しげに細め、「知っているか? 後輩」「なんですか?」「紫陽花の花言葉だ。紫陽花は咲き始めと咲き終わりの色が違うだろう? だから花言葉は「浮気」とか「移り気」とか言われてしまうんだ。けれど、紫陽花は最後にこの色と決めたらそこからは散ることもなく、ただ色が消えていくのをじっと耐えているんだ。だから紫陽花には「真実の愛」「ひたむきな愛」という花言葉もある。また、その色が消えてく間を雨に打たれながらも、ずっと耐え忍ぶ姿から「高慢」といった言葉もあるのだ」「それって……」「あぁ、紫陽は本当に紫陽花みたいな女の子だろう?」だから、初めて見たときから気持ちには気付いていたよ、先輩がそう言ってほほ笑んだ。僕らを振り回したあの高慢で、浮気だと思わせておきながらも一人の男の人をまっすぐ見つめていた女の子。先輩はきっと紫陽が羨ましいのだろう。他人を面倒事に巻き込む先輩と紫陽。けれど二人には決定的な違いがある。紫陽には自分以外にも紫陽自身を愛してくれる人、大切にしてくれる人がいるのだ。そして先輩は誰も褒めてくれないから、自己陶酔するのだという、どこか似ていて、そして正反対な二人。けれど、紫陽と菖蒲さんを見つめる先輩の姿は、なんだか普段の自己陶酔をしている姿よりも幸せそうで、僕はその姿にものすごく安心した。自己陶酔で自分が大好きな先輩が、人の幸せに喜んでいて、それがとっても嬉しそうだったから。 だからまぁ、今回もこれでよかったのだろう。 雨の中で気高く咲く移り気な紫陽花と、まっすぐひたむきに咲く菖蒲が寄り添っている。このふざけた自己陶酔部で、自己陶酔を行う先輩と過ごす、色んな面倒事に巻き込まれてしまうような、めんどくさくて、大変だけれど、少し愉快な僕の日常の活動報告書はこれでおしまい。 END
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