Information manager
水牛ダンス
カタカタと小気味の良い音が手元から聞こえる。時に早くなったり、時に遅くなったり、時には滑らせるような音の後にカチカチと、さっきまでとは違う音を出したりしている。これら全ての音は、たった一人の人間の、それも両方の手のみから奏でられている。その音を奏でている当の本人は、口笛を吹いたり、鼻歌を歌ったり、ほんの少しばかり口角を吊りあげたりしながら、依然として不規則なスピードで、複数の音を操っている。
「……これで終わり、と」
カタッ、と終わりを告げるかのように、今までより少し大きな音を出して、音の主はその動作を止めた。ググッと背伸びをし、パカッと大きく口を開けて、顎が外れるんじゃないかと思うくらいに大きな大きな欠伸をした。
「……眠たいです」
ボソッと誰かに聴かせる訳でもない、小さな声で呟いた。よく見ると、目元には結構濃いクマができている。さっきのセリフからも想像がつくが、殆ど寝ていないようだ。フラつきながらもどうにか立ち上がり、近くの棚からマグカップとコーヒーポットを引っ張り出してきた。眠気覚ましにコーヒーでも飲んで、リフレッシュしようという作戦なのだろう。しかし余程眠たいのか、足取りが危なっかしく、水を入れるポットを持つ手元がプルプルと震えている。瞼は今にも閉じてしまいそうで、このままいけば、シンクに向かって倒れこみそうな勢いだ。
(……ヤバ……眠いです……)
気力を振り絞って、何とかポットを火にかける。後はお湯が沸くのを待つばかり。しかし、ここで大きな誤算が生まれていることに気が付いた。待つということは何もしていない状態、つまり眠気を助長させてしまうということに繋がるのである。
(……もうダメ)
カクッと力が抜けたように、その場で眠ってしまった。一定の間隔で寝息が聞こえてくる。どうやらあっという間に寝入ってしまったようだ。
数分後、人影が一つ、部屋の扉の前にいた。扉の上には部屋の看板があり、そこには【情報管理部】と書かれていた。扉の前に立っていた者は、ニヤリと笑うと、その部屋に入っていった。
部屋の中はそこまで広くはなかった。だが、1Kのアパート部屋よりは広かった。一人、若しくは二人くらいで過ごす分には、十分な広さだろう。
キョロキョロと周りを見回す。すると回転椅子に誰かが座っているのを見つけた。またしてもニヤリと笑う、そしてそのまま回転椅子にジリジリと近づいていく。サッと回り込むような形で、椅子の前に立ちはだかる。
「あれ……?」
思わず気の抜けた声が出る。頭には疑問符が幾つか浮かび、少し目も丸くなっている。まあ、それも仕方のないことなのかもしれない。何故ならそこには、気持ちよさそうに丸まって、スヤスヤと眠っている女の子がいたのだから。ただ厳密に言えば、驚いた理由は眠っているという行為に対して、である。
「……何で寝てるの」
思わず口に出してしまうくらい、不意をつかれてしまったようだ。情報管理部への訪問者である彼は、ハァ、と大きな溜め息をついた。
「……ん?」
最新型と思われる、デスクトップのパソコンを、食い入るように見つめる。何かの拍子にスリープ状態が解除されたのだろう、ディスプレイには何やら沢山の文字が羅列されていた。
(これ……何か見覚えがあるな……)
傍から見れば、何が何やら分からない文字列だが、彼はこれを見るのは初めてではないらしい。一体これは何なのか、自分はどこでこれを見たのか、割と使い古してきた脳をフル稼働させてみる。
(……! 分かった、これは俺達学生の成績表だ!)
数分考えた後、彼は一つの答えに辿り着いた。
見たことのある文字列、これは今まで履修してきた科目名で、他には履修年度や、成績評価などが並べられていた。
(今まで何度頼んでも見せてくれなかったけど、今なら好き放題見ることが出来るな……!)
この部屋に入った時よりも更に悪そうな笑みを浮かべ、彼はキーボードに手を伸ばした。
「うにゅ……」
どれくらい時間が経ったのだろうか、あまり長くはないとは思うが、それなりによく眠れたようだ。
「……あれ?」
と、目が覚めてふと気が付く。何故ソファーに横になっているのだろうか、そして、このタオルケットは誰が掛けてくれたのだろうか。
(……また来たのですか)
彼女の中で一つの結論が導き出された。いつもいつも、用も無いのにやってくる男子学生、今回もまた彼がやったのだろう。それにしても、来たという割には何の痕跡も残されていない。それどころか、彼自身何処にいるのか姿が確認出来ない。
(来てくれたなら、起こしてくれればよかったのに)
無視されたような気がして、彼女は心の中で頬を膨らませた。構ってくれなかったという、寂しさも少しあったのかもしれない。
フゥ、と溜め息を一つついてみる。
(……そういえば、ポットはどうなったのでしょう。火にかけたままだった気が……)
火を使っていたことに慌てて気付く。しかし、辺りを見渡してもボヤ騒ぎがあったような形跡は無い。どうやら誰かが後始末をしてくれたようだ。
ホッ、とさっきとは違う溜め息をつく。
(次に会ったら、キチンとお礼を言わないといけないですね……いつ会えるか分かりませんが……)
「やっはろー! 呼んだかい?」
「ほふぉっ!?」
背後からの呼びかけに、彼女は飛び上がらん勢いで立ち上がった。
「おおう、ど、どうしたの?」
「い、いきなり後ろから声かけないで下さいよっ!」
「やははは、ごめんごめん。まさかそんなに驚くとは思わなくてさ、俺としては普通にしたつもりだったんだけど」
「全く……相変わらずですね、盤道先輩」
「うん? さり気なくバカにされた感じがするよ?」
「気のせいです」
何処と無く納得出来ていない表情で、盤道と呼ばれた男子……盤道禎丞は肩をすくめた。
「……あ」
「どうかした?」
「先輩、ここに来たのはいつ頃ですか?」
「うーん……確か、一時間くらい前かなあ。それがどうかしたの?」
「……いえ、ポットの火を消し忘れていたことを思い出しまして」
「火? ああ、そういやお湯が沸いていたね」
「危うく大惨事になるところでした、ありがとうございます」
「そんな改まってお礼を言われると照れくさいな。まあ、疲れてたんでしょ? 次から気を付ければ良いんじゃない?」
ヘラヘラした少し締まりの無い笑みを浮かべる盤道、それにつられるように彼女も笑う。
「ところでさ」
「何ですか?」
「キーちゃんって、意外に社会学が苦手なんだね」
「……キーちゃんって呼ばないで下さい。それに苦手ってどういう意味ですか?」
「やははは、そのままの意味だよキーちゃん」
さっきとは違う笑顔で、盤道が机の方へ向かっていく。机の上に置いてあるのはノートパソコンだった。
「……これなーんだ?」
「……? っ! な、何で……?」
眠気からか、半開きだった彼女の瞳が大きく見開かれた。ディスプレイに映し出されていたのは、キーちゃんと呼ばれた彼女の成績表だったのだ。
「いやー、駄目だよキーちゃん。セキュリティは万全にしておかないと」
「……もしかして」
「うん、そのもしかしてが正解」
「……最低です」
「やははは、俺が最低な奴ってことくらい、結構前から知ってるくせに」
「だとしても、やって良いことと悪いことがあります」
「うわ、冷たい視線。いやまあ、言い訳をすると」
「言い訳なんて聞きたくありません」
「ちょっとちょっと、そこで遮らないでよ」
「うるさいです」
(ありゃー……これはマジで怒ってるな。激おこ、いや激おこぷんぷん丸か)
自分自身が想像していた以上に、彼女は怒っているようだ。考えてみれば当たり前である。自分のプライバシーとなりうるものを、勝手に見られて怒らない人など殆どいないだろう。しかも今の時代、親族であってもバッシングを受けてしまうのだから、たかが先輩後輩の関係なら尚更である。
「ごめんって、これは仕方なかったんだよ」
「うるさいです」
「今度パ○テルのプリン奢るからさ」
「うるさいです」
「一緒に受けてる心理学の代返するからさ」
「うるさいです」
「この前言ってた」
「うるさいです」
取り付く島もない。
(えぇー……めちゃくちゃ怒ってんじゃん……。ムカ着火ファイヤーを通り越して、激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリームじゃん。……どうしよう)
盤道は思わず頭を抱えた。今まで幾度となく彼女にはちょっかいを出したりして怒られてきたが、ここまで機嫌が悪くなったのは初めてだった。
(まあ、悪いのはどう考えても俺だしな)
「キーちゃん、いや鍵村」
盤道がこの場面において、初めて彼女を名前で呼んだ。因みに鍵村奈央というのが、彼女の本名である。鍵……key……キーちゃんというニックネームはこれが由来だ。
閑話休題。
「! ……何ですか」
「ごめん、勝手に見ちゃってごめん。プライバシーの侵害だもんな、怒るのも無理はない。とにかくごめん、俺には他に責任の取り方が思い付かないから、謝ることくらいしか出来ない。ごめん」
「……どうして勝手に見たのですか。私の成績くらいなら、言ってくれれば別に見せてあげても良かったです。先輩のことを信じていたからこそ、このような行動はとても悲しく思います」
「ごめん、わざとではないんだ。実は部室に来たときに……」
奈央が眠っているのを確認した辺りまで、話は一旦遡る。
(さてと、キーちゃんの成績は、と)
盤道がキーボードを弄ろうとした時。
プルルルルル!
「うおっ! びっくりした……」
けたたましく電話が鳴り響いた。とは言っても、ケータイではない。内線という形で、この情報管理部に電話が備え付けられているのだ。
(無視する訳にもいかないし、出てみますか)
渋々ながら、受話器を持ち上げる。
「はい、情報管理部です」
『おや、その声は盤道君かな?』
「はい、そうです」
『鍵村君に代わってくれないか』
「鍵村さんは用があって、席を外しています」
『あら、それは困ったな。彼女に伝えておくべきことがあったのだが』
「差し支えなければ、僕が用件を承りますけど」
『ホントかい? それは助かるよ。実は鍵村君のページのパスワードに不具合が生じてしまってね、たった今パスワードを強制的に変更することで、不具合が治ったことを伝えたかったんだよ』
(え? それって俺が聞いて良い話なのか?)
『という訳で今からパスワードを言うから、彼女のマイページにアクセス出来るか確認してくれたまえ。パスワードは……』
「ちょ、ちょっと待って下さい! いくら何でもパスワードを勝手に教えちゃ駄目でしょう、本人の同意なしに聞くことなんて出来ません」
『ふうん……君は律儀だね。でも……君は私のゼミに所属しているんだよね?』
「まあそうですけど……」
『五回生になりたいのかい?』
「な、何を言ってるんですか……」
『後輩からの体裁と、君自身の将来。天秤にかけて重くなるのはどちらか……分からない訳ではないよね?』
「……はい」
『うんうん。物分かりの良い生徒は大好きだよ。後期の君の成績は少し加点させてもらうよ』
(ハァ……ったく、どんだけキーちゃんのこと嫌いなんだよ)
電話の相手は情報管理部の顧問であり、盤道と奈央が在籍する社会学部の教授であり、学年は違うが盤道と奈央のゼミの担当教員でもある江口真守だった。
この江口という男は、奈央を目の敵にしている。何故なら入学早々奈央に、自身が受け持つ講義で自分の考えを真っ向から否定する内容をぶつけられ、他校の同じ分野の教授と比較されるという、屈辱を味わわされたからだ。
しかし奈央は、中間レポートといい、学期末テストといい、出来栄えは履修者トップだった。これ故に、独断で不可を付ける訳にもいかず、仕方なく単位を認める羽目にもなってしまい、忌々しいことこの上なかったのである。そして何の因果か分からないが、ゼミを受け持つこととなり、更にはクラブの顧問という立場にもなってしまった。
そこで江口は、奈央と繋がりがある盤道を利用しようと考えたのである。自分が圧力を加えれば、奈央を貶めることが出来る。だがあくまでも学校側にバレない程度の、簡単なものではあるのだが。それが今回のパスワード事件に繋がったという訳だ。
ただ、パスワードの不具合をキチンと治したり、それを本人に伝えようとするなど、根っからの性悪ではないところが、逆に性質が悪い。
『あ、勿論パスワードが機能しているか確認してもらうよ? 不具合が治っていなければ、本末転倒だからね。うん、そうだね……試しに鍵村君の成績でも送っといてよ。パスワードが機能しているなら、必ず閲覧出来るはずだからさ』
「…………分かりました。では少ししたら、教授のパソコンにメールで送っておきますよ」
『すまないね、では頼んだよ』
(……やれやれ、めんどうなことになっちゃったなあ)
「……ってことがあったんだよ、ってうわっ」
ことのあらましを話し終えると、胸元に衝撃が加わった。その原因となったものは、更に衝撃を強めていく。
「痛い痛い、キーちゃん力入れすぎ」
「……ごめんなさいです」
「やははは、ちゃんと言わなかった俺も悪かったし、おあいこだよ」
「でも……私がちゃんと話を聞いていれば……」
「そんなこと言い出したらキリがないよ。ほら、いつまでもこうしてないで、ね?」
「…………もう少し」
「……はい?」
「もう少しだけこのままでいさせて下さい」
「このまま!?」
思わぬ告白に盤道は声が裏返ってしまった。しかし、依然としてそのままの状態で奈央は催促を続ける。
「もう少しだけ!」
「わ、分かった分かった。……じゃあ、もう少しだけだよ?」
「……んぅ」
(キーちゃんがこんなにデレてくれたの、初めてじゃないかな……?)
――数十分後。
「キーちゃん、いつまでこうしてれば良いのかなー?」
「…………」
「キーちゃん?」
「……もう良いですよ」
「落ち着いた?」
「はい、もう大丈夫です」
目の周りが少し赤いが、気分は落ち着いたようだ。
「やははは、それは良かった。いつまでもしょんぼりされてると、俺もしょんぼりしてくるからね」
「そうなんですか?」
「うん。じゃあ、景気付けに大きな声で挨拶でもしてみよう! やっはろー!」
他の教室に聞こえてしまうのではないかと思うくらい、大きな声(挨拶)が響き渡った。
近くで聞いていた奈央は、背後から声をかけた時と同じようにビクッと体を震わせたが、すぐに平静を取り戻した。
「先輩うるさいです……」
「いや、だってこのしんみりしたムードをいち早く取っ払いたいし……何より俺が耐えられないし」
「それは分かりますけど……」
「言わないなら、キーちゃんの顔をずっと舐め回すように見つめるよ?」
「やめて下さい!」
「だったら言ってよー。キーちゃんの「やっはろー」聞いてみたいんだよー」
「というか、一体何なんですか? そのおバカ丸出しのような挨拶のし方は」
「そのバカっぽいのが良いんじゃないかー。ほら、早く言って」
「うぅ……本当に言わなきゃ駄目ですか?」
「嫌なら顔を」
「それだけは絶対に嫌です!」
さっき泣き止んだばかりなのに、もう涙目になってきている。どうやら本当に嫌なようだ。
「じゃあ言って?」
「わ、分かりましたよ……」
「はい、今から一分以内にね。スタート」
「う……」
「どうぞっ」
「くっ……」
(そんなに力まなくても……)
「むむむ……」
「……」
「……や……やっはろぉ……」
「……可愛い」
「っ!?」
バチィーン!!
「いってえ! ちょ、何で殴るの!?」
「う、うっさいバカ! 喋るなバーカ! ドキドキするわバーカ!!」
顔を真っ赤にして、まくし立てるように奈央は叫んだ。ビンタは勿論照れ隠しからである。
「正直な感想を述べただけじゃないか……」
「全く……油断も隙もありません」
「どういうことだってばよ……」
納得がいかない様子で、叩かれた頬をさする。
(何が駄目だったんだろう……ありきたりな言葉だからかなあ)
などとあれこれ考えていると、講義の終了を知らせるチャイムが校内に鳴り響いた。
「先輩、次の時間は?」
「法学概論。あれはノート取らなきゃいけないからサボれない」
「そうですか。では行ってらっしゃいです」
「めんどくさいけど、行くしかないかあ。じゃあキーちゃん、またね」
「はい、お疲れ様です」
パタンと扉が閉まる。妙な静寂が訪れ、さっきまでの喧騒がまるで嘘のように思えてくる。
(さて、作業に戻るとしましょうか)
一人きりになった部室で、奈央は再びカタカタと小気味の良い音を、両方の手から不規則なスピードで奏で始めるのだった。
いいかげん終われ