キュウベヱさんといっしょ
赤坂
夏も盛りの、とある一日。少々古めの神社の境内、その一角にある注連縄が巻かれた巨大な樹木──所謂「ご神木」の根元にその人物は居た。
「あっつぅ……。」
快晴の空に燦々と輝いている太陽を恨めしそうに見上げて愚痴を吐くと、額に吹き出た汗を首に巻いたタオルで拭う。けれども拭けば拭くほどより汗を掻いてしまう為か、諦めたように彼、平和人はただ深くため息をついた。
「もっといいバイトかと思ったら、なんでタダで掃除するなんてことに……はぁ。」
隣に置かれた箒を見てグチグチと文句を述べる彼は本来、高校生であるのだが今は学校が夏休みに突入中。 だが特にやることもなかった和人は、タイミングよく母親から短期バイトを紹介してやろう、という甘言にホイホイ頷いてしまったことを、現在進行で後悔していた。
「和人、いるのか?」
生みの親である母親に丁度良い労働力扱いされたことを一人まだ嘆いていると、自分を呼ぶ聞こえてきた幼声に顔を顰める。
「和人、どこにいる?」
「はいはい、ここにいますよキュウベヱさん。」
俺の声が届いたのだろうか、続いていた呼びかけが一瞬途絶えたと思うと、じゃりじゃりと境内の砂利を鳴らす足音が瞳を閉じた和人の耳に届いた。そしてその足音がすぐ右隣で止んだの確認してからそちらを見る。そこには見知った女性──タダ働きの一環で知り合ったその人が嬉しそうに笑っていた。
「こんにちは、和人。」
「どーもこんにちは、キュウベヱさん。」
にこやかな笑みを浮かべるキュウベヱさん。その笑顔は多分構ってあげたくなるような、見た目に不相応の可愛さがある。おそらく。しかし和人の表情や態度はそうではなく、むしろ鬱陶しそうである。和人はキュウベヱさんが苦手なせいもあるが、この暑さだというのに涼しい顔をして和服姿のキュウベヱさんが見てて暑苦しいのもあるが。
「相変わらず素っ気無い。それじゃ彼女出来ないぞ?」
「余計なお世話です。俺には俺のペースがあるんで。」
「……つまんないの。」
くすくすと笑い、からかってくる言葉を適当に流していると文句を言われた。そんな不平を漏らすわけでもなく、和人は箒を取りながら立ち上がる。幾ら休憩していても気の休まらない人間といては意味が無いと思ったのだろう。
「せっかく暇だから構ってあげようと思ったのに……いいや、雪ちゃんのところにいきましょ。」
黙々と掃除を始めた和人の反応がつまらないのか、不機嫌そうにわざと大き目の独り言を漏らすと、ふらりとどこかへと行ってしまった。その姿が見えなくなったのを確認してから、再度箒をご神木に立てかける。和人の表情はとても清々しかった。
どうも和人はあのキュウベヱさんが苦手なのである。すぐ人をからかうところはあまり好きではないが、それでもまだ許容範囲である。
しかし、何故か和人の本能というか心の奥底がキュウベヱさんを良く思わない。その笑顔を見ただけで「自分に関わるな」と騒ぎ立てかけたこともあったほどなのである。その原因不明の不快感と、自分の精神衛生。あとほんの少しの罪悪感からキュウベヱさんと距離を取ろうにも向こうから近づいて来るのでどうしたものかと思いつつ、またご神木の根元に座り込む。
「どうしたもんかな。」
不可解な感情に悩まされつつ、まったりとサボる和人は、急に襲われた睡魔に身を任せて意識を遠のかせた。
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気付いたら、そこは人っ子一人いない公園だった。蝉のうるさい大合唱が耳に痛いほど響いているのに、なんだかとても寂しい気がした。
「■■、どこにいる?」
誰かを呼ぶ声がする。周りを見渡してみるけれど姿は見えない。
「どうしたの■■■■■?」
今度は違う声が答えた。けれどやはり姿は見えない。
「あ、そんなところにいたの……探したんだぞー?」
最初の声は嬉しそうに答える。どこかで聞いたことがあるような気がする。いや、勘違いかもしれない。
「ご、ごめんなさい……。」
胸の奥がざわついている。たぶんこの二人の正体が分らないからだろう。
「謝らなくてもいいけどね、■■が無事で良かったし。」
うんうん唸りながら悩んでいると、ふとここはどこだったかと考え始める。はて、俺は一体どこにいるんだろう?……いや、そもそも「俺」って誰だ?
「あ、ありがと……■■■■■。」
あれ、俺さりげなく記憶喪失?誰か助けてくれー。
軽い思考とは裏腹に心に溜まる不安からその場にうずくまってしまった。
「まぁ、別に気にしないでいいよ。ところでいい加減にその趣味の悪い演技はやめようか?」
「っつ……!?」
しかし、片方の冷ややかな声と、もう片方が息を呑む様な音が漏れるとその不安がまるで嘘のように掻き消えていく。いったいなんだったんだろうかね。
「やれやれ……油断も隙もありゃしないじゃんか。さて、そろそろ起きようか?」
そして、その言葉を耳にした俺の意識が徐々に遠のき始める。そして意識が途絶える直前、悪戯っぽい笑みを浮かべた誰かと目が合ったような気がした。
▼
「ぅおい!?」
「あら、やっと起きたの?」
汗だくで目を覚ますと、和人の眼前にはキュウベヱさんの顔が触れそうなほど近くにあって、思わず驚いた。キュウベヱさんがその様子を見て何やら楽しそうに笑っていたのを見て、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「……どうしたんですか?」
「そろそろ晩御飯だから呼びに来たら、サボって寝てる人がいたから見てたの。」
微妙な沈黙が辺りに立ち込めたのでとりあえず話題を振ってみると自爆した和人。乾いた笑い声を返すことしか出来ないでいる。そんな和人の姿にくすりと笑うキュウベヱさんはそっと手を差し出す。
「ほら、立てる?」
「……大丈夫、です。」
最初はその手を借りずに立ち上がろうと思ったのだが、ふとあれだけ警戒しろと訴えていた心がとても落ち着いているのに気付いた和人は、少しの間を置いてからその手を取った。ひんやりとしたその手を握って立ち上がると、キュウベヱさんは少し驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔へと戻った。
「じゃ、いこうか。」
こくり、と頷いてから箒を拾い上げると、バイト先の雇い主である叔母の家へと向かって歩き始める。夕日を背に受けながら歩いていく。子供の頃はこんな風に家に帰ったよな、なんてぼんやりと考える和人の顔を見るキュウベヱさんの表情は、少しだけ優しげな笑みを浮かべていた。
──そして神社から人影はなくなり、ご神木の根元にある赤黒いナニカが夕暮れの風に吹かれて音もなく砂のように消えていった。
〈了〉