SAKURA_DRIVE ―降霊確率五十%、突然の雨に注意。―
シキクサ
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私達が暮らすこの世界というものは、意外と、私達が思っている以上に摩訶不思議な現象や説明のつかない存在であふれている。
ただ、ほとんどの人には見えていないだけでね。
見ようと思えば、それらなんてどこにでもある。
例えばほら、私達の隣にとか、目の前にとか、あるいは…すぐ後ろにとか。
あ、ごめん。驚かせるつもりで言ったんじゃないよ。
まあ、いきなりこんなことを言われても、まず信じられないよね。
しかたない、それが普通なんだし。私だってそうだった。
実際に、その摩訶不思議で説明のつかない出来事に出会うまではね…
?
楽しい楽しい夏休みもとうに終わりを告げた十月の初頭。
年二回目の長期連休…いわゆるシルバーウィークの開けたとある火曜日の昼休み、この日の咲耶はいつもの仲間たちから外れて、一人屋上へ続く階段を上っていた。ここへ来る頻度は週に一回か二回程度だが、ここ最近は仲間たちへの言い訳が尽きてきたために、しばらく訪問していなかった。いっそ言い訳をしなければいいのだが、一切の嘘偽りを省いたノンフィクションを話したところで、信じてもらえるとはとうてい思えない。
…それほど、咲耶と彼女の因縁には、複雑な事情が多すぎた。
「おはよ、加奈子」
「…ん」
いつものように軽く挨拶なんぞしてみるが、毎度毎度反応が乏しくて、なんというかやり辛い事この上ない。ところがこの反応は、実を言うとだいぶ改善できてきた方なのである。なんせ最初の何回かは、無反応どころか語尾に必ず罵詈雑言が付くくらいに、互いが互いを嫌悪し合っていたくらいだったのだから。
「相変わらず早いのね。まさかサボリ?」
「アンタじゃないんだから、違う」
「何よそれ」
ちょっとした冗談を交えつつ、咲耶は階段の最上段に座る彼女の隣に腰を下ろした。この中学校では、生徒が屋上へ出入りすることは基本的に禁じられている。当然鍵もかかっているので、こうして咲耶と彼女は屋上へ続く扉の手前で留まっているのだ。
彼女……茂木加奈子と、二人で。
「そうだ加奈子。ちょっと手伝ってほしいんだけどさ」
一緒に持ってきた通学カバンをゴソゴソと漁り、いつもの弁当箱と共に別の容器を取り出す。
「…何それ?」
「実はちょっと、この連休中に調子乗っちゃってね」
カパっとプラスチックの蓋を開けると、その中にはこんがりきつね色をしたホットケーキがギュウギュウに詰まっていた。もちろん、一枚や二枚では収まらない。一枚の厚さですら二センチを超えるような分厚いホットケーキが、全部でなんと六枚も押し込められていたのである。
「ふとホットケーキ食べたくなって、大量にホットケーキミックスを買ったの。でも、甘いモノは好きでも沢山食べられるワケじゃないのに、調子乗って多段重ねの生クリームとメイプルシロップのガチ盛りなんかに挑んでみようとして…案の定、ホットケーキが大量に余っちゃってね」
「…で、私にも消費を手伝え、と」
「お願い! これを食べきったら終わりだから!」
頭を下げつつ、タッパーを差し出す咲耶。彼女にしては珍しく下手に出て素直に頼んできたので、流石の加奈子でも即断で断るには少しばかりの躊躇いを感じた。かといえ、素直に受け取るにしても抵抗がある。どうしたものかと一瞬だけ考え込んで、しかたなく間を取ることにしたようだ。クリームもシロップもかかっていない、プレーンのものを選んで、ちょっとばかり覚束ない手つきでつかみ上げる。そのまま丸かじり…するのではなく、一口サイズに千切って、自分の足元に控えているソレの前にチラつかせた。
「ノロ、毒見して」
「ひどっ! 味は悪くないのにー…」
ある程度想像できたことだが、実際に目の当たりにするのとそうでないのとでは、やはり突き刺さるショックの度合いは違う。ハハハと乾いた笑いを浮かべる咲耶を後目に、加奈子はうっすらと埃を被った床にティッシュを敷いて、その上にホットケーキのかけらを無造作に置いてやった。手を放すと、ノロと呼ばれた小動物が足元からモソモソと顔を出して、フンフンと鼻を鳴らして毒気の有無を念入りに調べ始める。やがて、危険物は混入していないと判断したのだろう。それでも恐る恐る一口目を口にして、味も良好だと理解したノロは夢中になってホットケーキを頬張り始めた。
『カナちゃん! これおいしい、おいしいよ!』
「そう」
小動物がそう言ったのを確認してから、手にしていた方を口に運ぶ加奈子。こういう事を平然とやってのけてしまうあたり、違う意味で流石だと舌を巻いてしまう咲耶であった。
そんな咲耶の憂き目もどこ吹く風、加奈子とノロは黙々と咲耶お手製のホットケーキを次々平らげていく。加奈子はともかく、ノロの方の食いっぷりも中々のものだった。正直、学校に居る間に全部処分できるとは思っていなかったので、この結果には咲耶も満足だ。
なんとはなしに撫でてやろうと思い、ノロの頭に手をやってみたが、寸前で感づかれてしまい、軽い威嚇と共に身を引かれてしまう。
見た目は普通の成猫だが、よくよく見てみれば、虎などのネコ科の猛獣に似通った相貌をしている。そして普通の猫と決定的に異なるのが、まず何よりも人語を解し、自らも自在に使いこなしてコミュニケーションをとる事。そして、その長い鉤の尻尾が根本で二本に分かれている事だろう。
ノロは、いわゆる猫又と呼ばれる妖怪なのである。
「ノロもさあ、そろそろ撫でさせてくれてもいいじゃん」
『嫌』
きっぱりと、たった一言で断られてしまった。
『だっておまえ、カナちゃんをいじめた』
「…まあ、ね」
否定はできないので、それでもきまりが悪そうに、視線を外す咲耶。
「もうしないよ。加奈子が何もしなければね」
「人聞きの悪い。私はもう何もできないっていうのに」
皮肉で返したつもりが、割と真剣な言葉にすり替わって飛んでくる。冗談のつもりでも、そうでないモノにも、加奈子は咲耶のどんな発言にも真剣に返してくる。真面目なんだと思えばそれまでだが、加奈子の場合に関してのみ、それはとんだお門違いだ。
加奈子は、いまだに咲耶への警戒心を解いていないのである。
それも仕方のない事だろう。何せ加奈子は…この春先に起こった事件の、実質の黒幕だったのだから。
事の起こりは、今から半年は前にさかのぼる。
新学期も始まって間もないその頃、ちょっとしたチェーンメールがにわかに流行り始めた。内容そのものは、何人かに回さなければ自分が不幸に会うという実に有り触れたもの。ただこのチェーンメールの場合、なんと本当に回さなかった人物に不幸が訪れたのである。
その犯人だったのが加奈子と、彼女につき従う猫又・ノロであった。
ノロには呪いを操る力があり、それを携帯のメールを解する事で大勢の人を巻き込んで、大きな事件に発展させてしまったのだ。
そして、その巻き込まれた人物の中には、咲耶の唯一無二の親友も混ざっていた。
「だろうね。お姉ちゃんがしっかりお説教してくれたみたいだし」
ノロに目をやりながら、ちょっと得意げに鼻を鳴らしてみる。
今でこそこんなサイズのノロだが、最初に会ったときは信じがたいことだが、その大きさたるや見上げるような化け猫だったのだ。もちろん、そんな怪物に咲耶が太刀打ちできるわけがない。ノロが実行犯だったと特定したのは咲耶だが、実際に真っ向から勝負を仕掛けて返り討ちにし、見事に撃退したのは咲耶の姉だった。その姉との勝負に敗れたがために、現在のノロは妖力を大幅に削られたとか何だとかで、今のサイズにまで縮んだそうだ。
「そう、コテンパンにされた。そしてアンタは、何もしてない」
「―――…」
…痛い所を突かれた。
確かに、咲耶が事件の解決に貢献した事など、言ってしまえばほとんど皆無だ。加奈子やノロの存在自体には自力で辿り着いたものの、根本的な解決を行ったのは咲耶ではない。
その事件を解決したのは、あくまで彼女の姉・芳乃なのである。
「確かに、私にできた事なんてない。でもね、私にはアンタへの恨みつらみが山ほどあるんだ。だからお姉ちゃんは、アンタを断罪する権利を私に預けたんだ」
図星を付かれて多少は動揺した咲耶だったが、なるべく気取られないようにと平静を装う。
加奈子は、咲耶の唯一無二の親友を、その人生を、危うく奪い去る所だった。しかし、その加奈子に咲耶が課した罰は、なんと『自分と友達になる事』だったのである。もともと、学校中からノケ者にされていた加奈子。犯行に至った動機だって、大元を辿ればそこに行きつく。だからこそ咲耶は、監視の意味も込めて、加奈子の友人を名乗る事にしたのだ。
しかし、やはり罰は罰。ましてや、咲耶からすれば親友を傷つけた仇、加奈子からすれば自分の行いを妨害してきた邪魔者なのである。第一印象からしてお互いに最悪な見解をもっているものだから、正常な友好関係などそう簡単に築けるものではなかった。
今では、咲耶が限界まで隔たりなく接し、加奈子が極力暴言を控える事で、なんとかトモダチゴッコじみた関係にはなった。しかし、こんな薄っぺらい信頼関係のままでは、いずれ必ず破綻してしまうことだろう。せっかく事件そのものは綺麗に納まりがついたというのに、その後がこんな様子で、一体どうしたものだろうか。
タッパーに残った、最後の一切れを味気なく噛みしめる。
「まったく…アンタもアンタだけど、芳乃さんも芳乃さんだわ。一体何者なの? あの人」
「そんなの、私が知りたい」
モグモグと咀嚼の手は止めないまま、不貞腐れた様子で返答する。事実、妹の咲耶でさえ、姉・芳乃の正体について語れる事なんてそう多くなかった。特に、こういった『摩訶不思議な現象』関連の事などは、ことさらに分からないことだらけだ。
事件を解決へと導いたのは、全て芳乃の功績あってのこと。しかし、それがどういう理屈のもとに行われたものなのか、そもそもどうやってノロのような『説明のつかない存在』に対抗したのか、いくら咲耶が尋ねようとも、芳乃は曖昧にごまかしてばかりで一向に真相を教えてくれないのだ。
春が終って夏になって、ようやく観念して話してくれたかと思いきや、今度は『私には目的がある。それを達成したら教える』ときた。あの時はなんだかんだで詳しく言及するタイミングを逃してしまったが、どうにも上手く言いくるめられてしまった気しかしない。そもそも、内容すら知らない目的を達成できる可能性など、信じられるわけがない。
ならば、どうするか?
こうなってしまっては、自分で調べたほうが断然に早いだろう。
ある程度の裏付けを取ってからなら、芳乃が本当にデタラメを言ったのかそうでないのかを判断することだってできる。幸いな事に、手がかりだって幾つか手元にそろっている。後はコレを元に…
そう考えながら、生クリームが付いた指を口元に当てた時、ふっと、咲耶の思考回路に一条の電流が走った。
…そう、そうだよ。専門家は、他にもいるじゃないか。
「あのさー加奈子」
「今度は何」
「コイツと付き合ってるくらいだし、こういう事の知識はあるんだよね?」
ノロを指差して、確かめるように、聞き方によっては値踏みでもするように、加奈子に問う。
「まあ、アンタよりはね」
「そこを見込んで、ちょっとお願い…って程でもないかな…」
言いたいことを纏めているのか、ちょっとだけ口ごもる咲耶。
「『シラガミ』って聞いて、なんか思い当たる事無い?」
「は?」
「だから、『シラガミ』。漢字だとたぶん、白い神様って書くんだろうけど…」
咲耶が問うたのは、夏に聞いた芳乃の言葉の一部だ。一言一句覚えているワケではなかったけど、確か芳乃は、自分の事を指してその言葉を使っていた。…気がする。
しかし咲耶にとっては、芳乃の正体を探る唯一の手がかりなのだ。
例えどんな些細な事だろうと、徹底的に掘り下げてみせる。
「何でもいいの。何か無い?」
「うーん…。それ、何? 芳乃さんに関係ある事なの?」
「確証はないけど、多分ね」
「そう…」
しばし俯いて、なにやら考え込んでいる様子の加奈子。しばらくすると顔を上げて、何か思い当たったのかと期待したが、その顔にはなんだか、何かを企むような薄ら笑いが張り付いていた。
「私もね、アンタのお姉さんの正体は気になってたの。ここは協力しない?」
「え、本当!?」
ココにきて、ようやく友達らしい展開になってきたのではなかろうか。長きに渡った努力もようやく報われる…と、咲耶は一足先に感動を噛みしめる。しかし…
「その『シラガミ』とやらについては、ちょっと思い当たる事があるの。それを教える代わりに、今アンタが持ってる情報もあるだけ教えてほしい」
「………………はい?」
「等価交換って言葉、知ってるよね?」
どうにも加奈子の方は、友情からくる助け合いの精神で協力を持ちかけたわけではないらしい。あくまで取引、悪く言うならば、咲耶を利用しようという魂胆で協力を持ちかけたようだった。
いっそ清々しいまでの無信頼っぷりに、すっかり肩すかしをくらった咲耶。とはいえ別に、この取引で生じるデメリットも何もないので、大人しく交渉に応じる。
「わかったよ。でも、そっちも包み隠さないで全部教えなさいよね。これだけはお願い」
「私だってそこまで意地悪じゃないわよ」
「じゃあそれで。…さて、何から話したほうがいい?って言っても、私自身も全部を知ってるわけじゃないけど」
「そんなの当たり前じゃん。例えばさ、あの後でまた何か起きなかった?」
「あー、あったあった。あのね、夏休み中にね…」
ここの雰囲気だけを見るなら、中学生の女の子二人の和気藹々とした談笑のように見えなくもない、そんな咲耶と加奈子の情報交換。
現時点では、まだ上辺だけの利用し合う関係でしかないけれど、時間さえかければ、その問題もキチンと乗り越えられることだろう。
そう思わせるほど、今の二人の間には壁なんて感じられない。
実際のところ、もう互いを隔てる壁は存在していないのである。ただ二人とも、いまだにソコに壁があると思い込んでいて、その思考そのものが壁として機能してしまっているだけ。
隔たりなど、もう存在しない。後は、お互いがその境界を飛び越えるだけなのだ。
?
住宅街から少々離れた、寂れた神社。一度家に帰って身なりと調査の準備を整えた後、一人でここを訪れた咲耶は、胸の内に少しの懐かしさを感じていた。
短い階段を上って、朱塗りの塗装がすっかり剥げ上がった鳥居に触れる。風化した木材のささくれ立った手触りが、その苔むしたような独特の香りが懐かしくて、ちょっとだけもたれかかってみる。
…なんだろう。この間だけじゃなくて、もっと昔…ここで、こうしていた事がある気がする。
しばらくそのままの姿勢で物思いにふけっていたが、すぐに思い直して、今やるべき目的に頭を切り替えた。咲耶がここへ来たのは、なにも懐古の情を抱くためではない。加奈子から得た情報を、自分でさらに詳しく掘り下げるためなのだ。
『シラガミっていうのと直接関係あるのかは分からないけど…』
結局あの後、自分が芳乃について知り得ている事はほとんど洗いざらい白状しきってしまった。元から隠すような事でも無かったけど、加奈子の方からもらった情報の量と純粋に比較してみて、どうにもつり合いが取れていないように思えてしまう。
『住宅街の外れのほうにさ、小っちゃい神社があったでしょ』
加奈子から教えてもらったのは、たった一つ。
『あそこ、『白鳴神社』って言うの』
この神社の名前、たったそれだけだった。
「…なんだかなあ」
回想を打ち切って、深々とため息をつく咲耶。情報量が釣り合っていないとは思っていたが、これでは釣り合っていないどころの騒ぎではない。等価交換だとか抜かしておきながら、ほとんど無償で情報を提供したようなモノではないのか。
「よりにもよって、ココなのね」
咲耶が訪れた神社、ここは…
春先の事件にて、一度は加奈子をここに追い詰めるも返り討ちに遭いかけ、駆けつけた芳乃と加奈子の操るノロが、常識の枠から外れたブっ飛んだ闘争を繰り広げた、まさにその舞台となった場所だった。
「うわ、そのまんま残ってる」
闘争の際に、芳乃はその圧倒的な力を惜しみなく発揮して、ノロの巨躯をいともあっさりと吹き飛ばした。その時にノロが激突した林の木が、ぶつかった所からバッキリ折れているのである。さすがに折れた木が半年やそこらで元に戻るはずもなく、秋になった今でも、その木は周りよりも半分以上短いままだった。
なんとなく申し訳なくなって、会釈程度に頭を下げておく。直接の原因は芳乃にあるのだが、自分がここへ加奈子を追い詰めた事がそもそもの発端なので、全く責任がないと言えば、嘘になってしまう気がしたのである。
よくよく境内を見回してみれば、明らかに芳乃とノロのバトルが原因と思われる損傷箇所は幾つも見られた。石畳やほかの木々に幾つも刻まれている、巨大な爪に抉られたような不自然な窪み。石造りの灯篭も二つくらい倒壊しているし、木製の賽銭箱にすら微妙な凹みができていた。
…この辺の修繕費とか、請求されたらどうしよう。
ありえない事なのに、いざ考えが及んでしまうと、どうにも不安感だけが募っていく。せめて被害の現状だけでも確認しておこうと、周囲をきょろきょろと見回した。
「何か用事?」
急に背後から声がしたかと思えば、同じようにニュっと背後から伸びてきた手に肩を掴まれる。
「ひゃあっ!」
予期せぬ方向から予期せぬ事が起これば、驚かない人間はまずいないだろう。もちろん咲耶も例に洩れず、まるでマンガのワンシーンのように飛び上がった。一体何が起きたのか? 混乱極まる脳内で、咲耶は必死に考えを巡らせる。…まさか、境内を荒らしたのがバレた!? 先程ありえないと一蹴したばかりなのに、どういう訳かそんな結論をはじき出した咲耶。しかし、神社で呼び止められるという事は、そういう理由があるとしか思えない。もしかして、さっきからキョロキョロしていたのが、不審に思われたのでは…! 嗚呼、それでは自ら墓穴を掘ってしまったようなものではないか――――
「おい?」
「は、はひ!」
再び声をかけられて、慌てて返事をしようとしたら今度は舌を噛んでしまった。口内を駆け巡る激痛と、じんわり広がる血の味に、堪らずしゃがみ込む。いくら何でも、これは無様すぎだ。
「っつぅ――……」
「…大丈夫か?」
「あい…すびまぜん」
激痛で舌が回らず、不確かな呂律のまま何とか安否を伝える咲耶。
その様子に、流石に背後にいた人物も呆れを覚えたようだ。ため息をついた気配を感じると、咲耶の前方に回り込んで、ひたすら痛みに耐える肩を優しくさすってくれた。
「何にビックリしたのか知らんが落ち着け。とりあえず、詰所で冷たいモンでも飲むか?」
返事も億劫になって、咲耶は首を縦に振るだけで肯定のサインを出す。それをしっかりと汲み取ってくれたのか、その人は咲耶を支えつつ、社の手前の小さな宮司詰所に向かった。
―――――
―――――――――――………
「ふう…どうも、すみませんでした」
「別に構わんさ」
ガラスのコップに注がれた麦茶を一気に飲み干して、ようやく血の味から解放された咲耶。まだ舌はヒリヒリと痛むが、もう呂律もしっかり回るし、気に掛けるほどではない。空になったコップをちゃぶ台の上に戻すと、先ほどの人がおかわりを注いでくれた。
「ありがとうございます」
会釈を返して、今度は三分の一くらいを飲んだあたりで手を放す。
お茶は美味しかったけれど、コレを目的としてココに来たわけではないのだ。さっさとすべき事を終わらせて、早々に退散せねば。
そんな咲耶の正面に座るのは、さっき咲耶に声をかけたというのに、何故か舌を噛ませるハメになってしまった人。彼はこの神社の神職さんで、名前を森形司さんと言うそうだ。もちろん咲耶の方も、きちんとフルネームと中学生という身分を明かして、それに応えてある。始め森形は、何だか気怠そうな、はっきり言って面倒くさそうな態度で咲耶の自己紹介を聞いていた。しかし咲耶が苗字を名乗った時、ふと思い立ったようにこう切り出した。
「えっと、夜永の咲耶さんだっけ? もしかしてさ、俺のこと覚えてない?」
「…はあ」
「やっぱり、覚えてないか」
咲耶の反応を見て、少しばかり落胆する森形。しかし咲耶からしてみれば、まったく身に覚えがなかった。それでも、なんとかして思い出してみようと、森形の容姿をじっくり観察してみる。
見た身から判断した年齢は、もう三十代も半ばといったくらいか。
服装自体は、神職に就いている者らしく水色の袴を着用している。しかし、その白い袖からチラチラと見えている腕時計は、男性物のブランドか何かで見た事があるようなゴテゴテしたデザインのモノで、どう控え目に見ても神職が身につけるアクセサリーには見えない。よく見れば髪の色も少々茶色がかっているし、男性らしいしっかりした顎には無精ひげが伸びているではないか。正直言って、真面目な神職の方には見え難い。百歩譲っても、近所のおっさんが興味本位で衣装を借りてコスプレをしているようにしか見えなかった。
そんな人物が、知り合い? 冗談ではないと、咲耶は失礼を承知で思ってしまう。
「まあ、覚えてないんならしゃーない。芳乃みたいに、しょっちゅう来てるわけじゃないもんな」
真面目に話し相手をしていても大丈夫なのかと心配になって、今の言葉も曖昧な相槌で流そうと思っていた。
…姉の名前を、聞かなければ。
「お姉ちゃんを知ってるんですか!?」
「え、知ってるも何も…今でも頻繁に遊びに来てるよ」
なんという事だ。
もしかすれば、加奈子の情報はアタリだったのかもしれない。
「昔はお前も一緒に――――」
「あのっ!!『シラガミ』って言葉に聞き覚えはないですか!?」
森形の言葉を遮る形になってしまったが、そんな事を意に介している場合ではない。せっかく、芳乃の正体の核心に一歩近づいたのだ。この機会を逃してなるものかと、咲耶は必死に食い下がる。
「しらがみ…?」
「何でもいいんです!お姉ちゃんがなんかそれっぽい事言ってたとか、何でも!」
この際、森形と芳乃の関係を問いただすのは後回しだ。そっちは芳乃からでも聞き出せる事だが、こちらはそうもいかない。聞き出せる時に聞いておかなければ、二度と辿り着けない。そんな気がしてならないのだ。
咲耶のなりふり構わない様子を見て、森形の方も咲耶が興味本位で尋ねてきたわけでは無いと理解したようだった。それでもまだ、話すか話さまいか決めあぐねているようにもみえる。
「………聞いてどうすんだ」
「っ! 知ってるんですか!?」
「聞いてどうするんだ、と聞いたんだ。知ってるなんて一言も言ってないぞ」
「あ…」
まるで咲耶の焦りを見透かしたように、森形はつとめて冷静に言葉を紡ぐ。咲耶の方も、見透かされた事の恥ずかしさと、問いかけられた言葉の意図を噛みしめるために、勢いを沈めて押し黙った。
聞いて、どうする? もちろん芳乃の正体を解明するのだ。そのために聞くのだから。そのために、ココへ来たのだから。
では、解明してどうする? もし解明できたとして、それが咲耶の想像を絶するような結論だったとしたら? 自分は、どうするべきなのだろう。どのようにして受け止めるべきなのだろう。
…ふと脳裏に、芳乃の姿が浮かんだ。背格好は咲耶とそんなに変わらなくて、でも口調や身の振り方がどこかしら男勝りで、小さい時はそんな芳乃の後ろをずっとくっついて回っていた記憶がある。
二人が並んだ様子を遠くから見た人が、双子だと勘違いをしたこともあった、五つも年の離れた姉。普段はゴロゴロしてて頼りないくせに、いざ摩訶不思議な事が起これば、ご自慢の力をいかんなく振りかざして咲耶を救った。
本当に、どちらが芳乃なのだろう。
一体どちらが、夜永芳乃なのだろう。
グルグルと自問自答する咲耶。その様子を、森形はただ黙ってじっと見ていた。ただ、結論を待っていた。
やがて、咲耶は顔を上げる。迷いは無いというより、何かが吹っ切れたような、どこかスッキリとした面持だ。しばらく考えを纏める時間ができたおかげで、脳内がさっぱりした。咲耶はまっすぐに森形を見据えて、臆する事なく言い放つ。
「聞いたら、受け止めます」
「…どんな事でもか?」
「もちろん」
「強がらなくていいぞ」
「強がってなんかないです。だって私は、夜永咲耶ですから」
きっぱりと、断言してみせる咲耶。
そう。どちらが芳乃かだなんてどうでもいいし、そんな事は考えたってしょうがない。夜永咲耶の姉は、夜永芳乃たった一人なのだ。
だから、これから聞かされる事がどんなにショックの大きいことだろうと、またあるいは取るに足らない些事だろうと、咲耶は同じように受け止めるだけ。それで受け入れられるならばそれでよし。もし受け入れられなくとも、受け入れ先が空くまで、持っていればいいのだ。
「それに、これだけ引っ張るって事は、相当重要な話って事ですもんね。これは、なんとしてでも聞かせてもらいますよ」
「……まったく、お前らときたら」
お手上げだと言わんばかりに、ホールドアップの姿勢を取る森形。その顔には呆れとも諦めともつかない、微妙で複雑な表情がくっついていた。
「いいだろう。教えるよ」
「ありがとうございます」
今度は深々と、心からの感謝を込めたつもりで、頭を下げる。
「ただ、俺から教えたってのは芳乃に言わないでくれよ。本当は、芳乃から口止めされてたんだから」
念には念をとでも言いたげに、森形は何重にも念を押してきた。それだけ芳乃が隠したがっていた事ならば、なおのこと期待が高まる。森形が茶を飲み下すのを待って、咲耶は今か今かと、まるで紙芝居を待つ子供のように体を揺らしていた。
「シラガミってのは、この白鳴神社に祭られてる神様の名前だ。まあ神様って言っても、そんな大それたモンじゃない。格下の稲荷神のそのまた下っ端みたいな、ちゃっちい守り神さ」
ポツリポツリ、物語の序章を語るように、静かに話し始める森形。
「この神様には、ちょっとした説話が残ってるんだ。そいつは諸説様々、いろんな枝分かれをしていろんな構造の話が出来ていったんだが、この神社に残っている大元の伝説はこんな感じだ。
―――昔々。まだ人間が、妖怪だったり怪異だったりなんていう『摩訶不思議な存在』を日常の一部として認識していたような時代。この辺りには、自らを『鬼』と自称する強大な力を持った妖怪が縄張りを張っていたんだ。その『鬼』ってのがまたえらく狂暴かつ好戦的な奴で、人間はもちろんの事、自分よりも弱い妖怪すらも襲って殺したり、とにかく好き勝手に暴れまわっていた。これには人間も妖怪も、ほとほと困り果てていたワケでな。なんとかして『鬼』を退治できないもんかと、腕に覚えのある者たちがなんどもヤツに挑んでいった。ところが、流石は鬼を名乗るだけの相手ではある。挑んでいった連中はみな返り討ちにあい、人間も妖怪も、無事に帰ってきた者は一人としていなかった。
そんな最中だ。その頃の弱い妖怪たちの頭目が、ある画期的な方法を思いついた。それは何か?早い話が、人間と手を組もうとしたんだ。それぞれが単独で挑んだって、全く歯が立たなかったんだからな。せめて力を合わせることで、どうにか対抗できないもんかと踏んだわけだ。
そしてその頃、頭目は一人の刀鍛冶の男と出会う。そいつは名こそ売れてはいないが、刀を打つ腕は確かだった。そいつに妖力の込め方を教えたおかげで、頭目は鬼にも対抗しうる新兵器を手に入れる事ができたんだ。ただ、こいつには難点もあってな。その新兵器は、人間にしか扱う事が出来なかったんだ。結局、人間が造ったモノは人間にしか扱えない。これはもはや新兵器の弱点そのものと言ってもよかったが、頭目はこれでいいと言った。代わりに、自分の持てる力全てをその武器に注ぎ込んだんだ。武器を振るう者に最大の力を与え、なおかつ、振るう者への加護となるようにってな。
そして、とうとう鬼との決戦が幕を開けた。その時に武器を振るったのは、あの刀鍛冶の男だった。持てる力全てを振り絞って、男は見事、鬼を討つ事に成功したよ。その後、男の作った刀とそこに宿る妖怪の頭目はここいら一帯の守り神として崇められ、その刀はご神体の代わりとして祭られるようになった――――ってな感じだ」
長い話を一気に喋りきって、森形はフウと息をつく。半分くらい残っていた麦茶を一気に煽り、まるでビールを一気飲みした時のような爽快な吐息を零した。
「その妖怪の頭目っていうのが、『シラガミ』…?」
「そうそう。白い神様って書いて、白神様」
なんなら参って行くか? と冗談まじりに奥の社を指し示す森形。咲耶は右手を小さく振って、それを否定の代わりとする。
「…その刀って、今も残ってたりしますか?」
いくら何でもそれはありえない話だろうと、咲耶は言ってしまってから後悔した。どれだけ昔の話かは知らないが、現物そのものがいまだに残っているなんて、そんな事が現実だとしたら、それはひょっとして奇跡か何かじゃなかろうか。
ところが咲耶の後悔に反して、森形は何を当たり前のことを言うんだというくらいの気軽さであっさりと答える。
「ん? 残ってるよ。現物」
「…え、ええええええ!?」
奇跡は、あった。
あんまりに至極すんなりと言いきってしまうものだから、危うくスルーしてしまうところだった。
「その顔、あんまり信じてないな。いいだろう、来い。本物を見せてやんよ」
あんまりに咲耶が大声を上げるものだから、森形はひっくり返る一歩手前くらいにまで身を離していた。その姿勢から器用に立ち上がると、咲耶についてくるように指示して縁側に向かう。
――その縁側の向こうから、ガタンと不振な音が届いた。
「だ、誰だ!」
不審者が侵入した音だと思ったのか、慌てた様子で庭先に躍り出る森形。咲耶も後に続こうとするが、森形のその次の言葉を聞いて一瞬だけ動きが止まる。
「あぁ! てめっ芳乃!! 何やってんだこの馬鹿!」
…芳乃? 芳乃が、ここに来ている!?
森形の言葉が脳裏を巡り、その意味するところをようやく理解した瞬間、咲耶は見えない意志にはじかれるように縁側に飛び出した。
「お姉ちゃん!」
「っ……!」
境内の方へ身を乗り出せば、そこには森形と対峙する、右手に古ぼけた刀を携えた人影。自分ととても似通った容姿のその人物を、見間違うはずなんてない。
そこにいたのはまごうことなく、咲耶の姉、夜永芳乃その人だ。
どうやら芳乃は、咲耶と森形の会話を盗み聞きしていたようだった。地面に膝をついていたのか、ジーンズの膝部分に乾いた土がくっついている。芳乃の方も、縁側にいる咲耶に気づいたらしく、バツが悪そうに聞こえない舌打ちをした。まるでやましい事でもあるかのように、そっと刀を体の後ろに隠す。
「芳乃。いい加減に、ソイツを勝手に持ち出すのは止めてくれ。怒られるのは俺なんだぞ!?」
「勝手に持ってった事はないよ。ちゃーんと、コイツにお伺いを立ててから持ち出してるさ」
刀を軽く振ってみせて、言い訳じみた屁理屈を並べ立てる芳乃。
それが言い訳にもならないと理解して、その上で言い立てるあたり、どうにも芳乃は急いでいる風に見受けられた。何でもいいから言い訳をして、さっさとこの場から去りたい。そんな気持ちがヒシヒシと伝わってくる。
「それじゃあ今度から俺にもお伺いを立てろ。でなきゃ、次からは祠に鍵かけるぞ」
「はいよ、覚えてたらね」
「芳乃!」
森形の脅しじみた啓発にも耳を貸さずに、芳乃はさっさと背を向けて走り出してしまう。どうやら芳乃にとって、鍵をかけられても刀を持ち出す事の妨げにはならないようだ。鳥居をくぐるルートでは追いつかれると思ったのか、すぐ脇の低い石造りの柵を軽々と飛び越えて歩道に躍り出る。その背中が見えなくなる直前、芳乃は一度だけ、咲耶を振り返った。
目が、合う。しかし芳乃はそれ以上のアクションは起こさずに、ふいと視線をそらして走り出す。
瞬間、何かに弾かれるように、咲耶は駆け出した。
「待って! お姉ちゃん!」
「あ、おい!」
森形の静止も聞かずに、芳乃と同じように石の柵を飛び越えようとする咲耶。しかし飛び越えて道に着地した後、思い立ったように足を止めて、森形の方へ向いた。
「お話、ありがとうございました! また機会があったらお願いします!」
ペコリと頭を下げてから、咲耶は再び芳乃を追って走り出す。
やがてその姿も見えなくなると、森形は観念したように縁側に座り込み、深々とため息をもらした。
「ああ、クソッ。また宮司さんに怒られちまう…」
そう言ってうなだれ、心の底から湧きあがる悔しさを込めて膝を叩く。
澄んだ秋の空には早くも、茜色の夕暮れが広がっていた。
?
「うーん…完全に見失ったね」
両手を膝にいて、ガックリと首を垂れて粗い呼吸を整える。神社からはまた少し離れた、とある集合住宅地のど真ん中で、咲耶は疲労で崩れ落ちそうになる体を必死で奮い立たせた。
この数十分間、とにかく走りっぱなしだった。闇雲に逃げているようにしか見えない芳乃だったが、意外や意外、ああ見えてきちんと通る道を考えながら逃げていたようだ。この住宅地は無意味に広い上に、道が非常に入り組んでいる。初めて訪れた人は必ず迷子になる事で有名だし、実はかく言う咲耶自身ここへ来るのは初めてだったりする。それを見越しての事だったのか、芳乃は咲耶の体力が限界に達する直前に上手いことここへ入り込んだ。用意周到にも程があると、咲耶は泣きたい気持ちをぐっと堪える。
こうなってしまった以上、もう他の道から住宅地の外へ抜けられてしまった可能性の方が高いだろう。そうでもなければ、この住宅を抜けた先にある場所なんて、『山』くらいのものだ。一応その山はちゃんと舗装されたハイキングコースもあるし、山頂まで登れば公園もある。ただ、そこへ向かって一体何をするというのか。むしろ、何が出来るというのか。
そもそも、どうして芳乃の後を追いかけようなんて思ったのだろう。咲耶はふと、原点に立ち返って思考を始める。芳乃は姉妹なのだから、家に帰って待っていれば必ず捕まえられるワケであって。それをどうして、わざわざ追いかけてしまったのか。考えれば考えるほど、無駄足を踏んだ気がしてならない。
「はーあ…」
なんだか、ドッと疲れが押し寄せてきた。一体全体、自分は何がしたかったのだろう。
「……何してるの」
不意に、視界の隅に手入れの行き届いたローファーが写った。
顔を上げてみれば、何の事はない。普段から不機嫌そうにしている表情をさらにひそませた、加奈子が立っていたのである。
「加奈子こそ。何してんのさ」
「何って、ここ私の家だもん。何してたっていいじゃない」
加奈子の指刺す先を見て、咲耶は少しだけびっくりして、すぐに嗚呼成程と納得した。咲耶がしょんぼりと立ち尽くしていたのは、加奈子が示す家の、まさしく目の前だったのだ。確かに人ん家の真ん前で、何をするでもなくボーっと突っ立っていたのでは、『アンタ何してんの』と言われても仕方がない。
見てみれば加奈子は、見慣れた制服姿ではなく、ゆったりした部屋着に身を包んでいた。おそらく室内から窓でも見た時に、家の前で棒立ちする不信な人影を見つけたのだろう。それが咲耶だと分かって、こうしてわざわざ外に出てきたのかもしれない。
「丁度よかった。この辺でさ、私のお姉ちゃん見てない?」
「芳乃さんを? どうしてまた」
「いや、ちょっと…鬼ごっこでもしてたと言うか」
咲耶自身が既に芳乃を追いかける理由を見失っているのだから、それを他人に説明するのはもっと困難を極めた。とりあえず適当に言っておけとばかりに、ほとんどやっつけで『鬼ごっこ』だと答えてみる。そんな適当な回答を聞いて、加奈子はあきれ果てたように首を振った。
「何でもいいけど…たぶん見てないわよ」
「そっか、ありがと」
住人たる加奈子が見ていないのなら、もう芳乃はとっくに山に入るなり外へ出るなりして、住宅地を去っているのだろう。そうだとすれば長居は無用だ。とっとと家に戻って、心の準備を万端にして芳乃を待ち伏せなければ。
「そうそう。加奈子がくれた情報、ビンゴだったよ」
「白鳴神社? 何か分かったの?」
「もっちろん。ちょっと話すと長くなるから、詳しい事はまた学校で…」
…ふと、風がざわめいた。
その風量そのものは大したものではない。周りにある観賞用の樹木を少々揺らしただけで、それはすぐに治まる。
しかし、咲耶は言葉を打ち切った。明らかに空気の質がかわったのが、手に取るように分かったのだ。
この空気は、この世界が緩やかに上書かれる感覚には、覚えがある。春先の事件で、加奈子がノロを呼び出して咲耶を襲わせた時の、あの異質な空気にとてもよく似ているのだ。ただ今回の原因は、どうも加奈子ではないらしい。何故なら、加奈子自身もこの空気を感じ取って、咲耶と同じように警戒の姿勢を取っているからだ。自分で起こした事なら、何も警戒する必要はない。そうしないのは、この異質な空気が明らかに第三者によって生み出された変革であるからに他ならない。
「なに、これ?」
「分かんないよ…まさかノロ、じゃないよね?」
「冗談はやめて。もうあんな事はできないって言ったじゃない」
とりあえずで発言してみたが、加奈子にかかってはにべもなく一蹴されてしまう。そうこうしている内に、空気の質はどんどん重くなって、終いには纏わりつくような粘着質を持ち始めるようになった。息も苦しくなってきて、咲耶は堪らずに咳き込む。
やがて日が完全に沈み、空は茜色からあでやかな群青色に変貌を遂げた。―――嫌な予感が、する。
「こんばんは」
二人のすぐそばから聞こえたのは、なんてことのないごくごく普通の挨拶。ただその声色は、まるで日没の瞬間を待ちわびていたかのように、隠し切れない歓喜の色が見え隠れしていた。
咲耶と加奈子は、ヒシヒシと感じる悪寒を振り払うように、声の聞こえた、日が落ちて影になった空間を見やる。
「…あんた、誰?」
この異質な空気をモノともしていない…否、この空気そのものが通常であると言っているようにも見えるくらい、あまりも不自然なほどに平然と佇む人影。暗がりにいるせいで、その人影の顔立ちや容姿はほとんど分からない。もはや、人影が本当に人の形をしているのか、それすら分からないくらいだ。…ただ、頭があると思しき位置に、角を生やした般若の面がやけにくっきり浮いている様だけが、しっかりと見てとれる全てだった。
「お前、空幻の神使だね」
「?」
その面(あるいは面をかぶった人物)は咲耶の問答には一切答えず、あたかも笑いを堪えているようにフワフワと揺れ動く。見た目は恐ろしい形相をした般若なのに、その挙動は恐ろしくコミカルだ。
「否、とぼけたって意味は無いよ。こっちには分かるんだから」
声色から判断しても、やっぱり面は笑っているようだった。いったい、何がそんなにおかしいのだろう。いや、おかしいというのなら、この般若の言葉全てが既におかしい事だらけだ。この面は何と言った? クウゲン? …はどこかで聞いたような気もするが、シンシ? 何が何だかさっぱりだ。
「えと、人違いじゃないですか? 私は…」
「否。こっちが間違う事なんかないよ。分かるんだから」
「だーから、違うって! 私は何も知らないの!」
やけにガキ臭い話し方をする面だ。いくら咲耶が否定を述べようとも、一切耳を貸さない。熱烈な勘違いを押し通そうとしているのかは知らないが、もうすこし他人の話に耳を貸すべきだと、咲耶は強く思った。
「お面さん、お面さん」
少しでも苛立ちを減らす会話内容を考えていると、いつの間にか咲耶の後ろに退避していた加奈子が口を挟んでくる。
「仮にコイツがそのシンシとやらだったとして、アナタは何をするつもりなの?」
あくまで他人事だと割り切っているためか、勝手に前提を作り上げて話を進める加奈子。さっきから知らぬ間に咲耶を盾の代わりにしていたり、無関係さを盾にして話を進めたりと、どうにも抜け目の無さが目立って仕方がない。
一方問いかけられた面の方は、ここでようやく噛みあった言葉を紡いで、加奈子の疑問に答える。
「決まってる、決まっているよ」
おかしくておかしくて堪らないのか、笑うような調子をすこしも崩さないままに、お面は嬉々として言う。
「殺すんだ」
その言葉を聞いた瞬間、身体そのものが凍りついたかのような、恐ろしいまでの悪寒が咲耶の全身を駆け巡る。
―――同じ刹那。咲耶の背後で、別の気配が弾けた。
「『呪いはモノに、モノはヒトへ』!」
短くも鋭い、気迫のこもった掛け声。同時に、ズンとのしかかるように重かった空気が、少しだけ晴れていく。一度は変革された世界が別のモノに上書かれて、まるでその両者が拮抗しているような、ピンと張りつめた空気が満ちる。
「『消えなさい』! 『さもなければ足を斬る』!!」
唱和しているのは、咲耶の後ろに隠れた加奈子だ。加奈子を中心として、微弱ながらにも衝撃波が生じていて、その余波が周囲に蔓延している重い空気を押し戻している。
ふと、足元に風を感じた。空気の流れに釣られるようにして前を見るが、咲耶の挙動よりもはるかに早く、足元を駆け抜けたソレは面に一撃を加えていた。暗闇が満ちた空間の、どうやら足があるらしい場所から、バッと砂埃が舞って影が引き裂かれた。しかし、それを咲耶が視認する頃には、駆け抜けた風は既に咲耶の背後に戻り、加奈子のそばに控えていた。
「え……?」
「芳乃さんに負けてから、私達が何もしてこなかったと思うの?」
相変わらず、咲耶の後ろに背中合わせで立ったまま、加奈子は少し得意げに言う。その手に握られた携帯電話につけられた鈴が、チリンと涼やかに鳴った。
「まだ本調子じゃないんだけど。私を差し置いてアンタが注目されるのは、どうにも気に入らなくってね」
普段の猫の姿をかなぐり捨てたノロの頭を、加奈子の手が優しくなでる。本調子でないというわりに、ノロの姿は、虎やライオンくらいの大型肉食動物に比肩する程の大きさになっている。これで全力でないというのなら、芳乃が屠ったあの化け物は、いったいどれほどの強さを秘めていたというのか。
「これは私の八つ当たりよ。アンタを助けるワケじゃない」
チリリンと、緩やかな風に煽られた鈴がひときわ高く鳴って、闘争の開始を宣言する。
『カナちゃん!』
「続けて行くわよ、ノロ」
加奈子が自信たっぷりに言い放てば、傍らに控えるノロの士気もグンと上がる。轟と渦巻く風を纏い、神速を持って肉迫。
「『消えて』『消えて』『消えて』! 『足がいらない』の? だったら『頂戴』!」
やつぎはやに命令を下すが、そこに闇雲さは見られない。まるで綿密な計算の上にさらに定規をあてるような、安定した正確さが見て取れる。現に、従うノロの動きにも一切の無駄は無く、面の動きの一切を封じて優位に攻撃を繰り出し続けている。
完成された芸術品を見るのは、もしかすればこんな気分なのかも知れない。
「咲耶」
「ふぇい!?」
うっかり陶酔していると、背中を強く小突かれた。慌てて意識を現実に引き戻して、小突いてきた加奈子の言葉をしっかり聞き取る。
「今なら、アンタでも安全にここから離れられるわ。今の内にさっさと家に戻りなさい」
「えっ、でも、それじゃ加奈子が…」
いくら対抗しうる手段を持っているからと言って、こんな所にたった一人置き去りにして見捨てろとでもいうのか。かつての仇敵とは言え、そんな事が出来る咲耶ではない。
しかし、言葉を濁して動こうとしない咲耶に加奈子が下したのは、手にした携帯による容赦のカケラもない無慈悲な殴打だった。
「バカ! 逃げろなんて言ってないわよ! 家に戻って、芳乃さんを連れてきてって言ってるの! どうせアンタ、芳乃さんの携帯番号なんて覚えてないんでしょ!?いいから早く行きなさい!」
確かにノロの攻撃は相手に動く隙を与えていないが、それは相手の攻撃手段を一切封じた事とは必ずしも同意義ではない。もしかすれば相手は、一切の挙動を必要としない切り札でも隠し持っているかもしれないのである。もしそうだったのなら、ノロと加奈子だけで対抗しきるのは無理だ。そうならないように加奈子は、以前に最高潮だった自分を打ち負かした相手を、闘争の専門家である芳乃を連れてこいと、そう言ったのだ。
「…本当に一人で大丈夫?」
「バカにしないで」
アンタよりかはマシよ。と、心外極まりない様子で加奈子は鼻を鳴らす。その不遜な態度が、何よりの確証だ。
「気を付けて」
「…それはアンタもよ、咲耶」
ノロの攻撃が面の目の部分を遮ったのを合図に、二人は立ち位置を入れ替える。加奈子は前面仁王立ちし、咲耶はその後ろに立つ。
そのまま何も交わさずに、咲耶は全速力で駆け出した。
ひとまず最初の角で右に曲がって、まずは面の視界から完全に外れる事を優先する。スタートダッシュの勢いはそのまま、体を傾けてしっかりとコーナリング。背後では、再び風が空を切る音が響いてくる。加奈子が善戦できている間に、何としてでも芳乃を見つけて戻ってこなければ…
芳乃を追って闇雲に走ってきた咲耶だったが、元来た方向までは見失っていない。よしんばその方向すら見失ったとしても、山を背にして走っていれば、必ず国道に出られるはずだ。大通りにさえ出られれば人気もあるし、駅前まで走れば交番だってある。それまでの辛抱だと、自分に言い聞かせて咲耶はひたすらに足を動かし続けた。
―――人気?
不意によぎる疑問。同時に、すさまじい違和感が咲耶を襲う。
そうだ。人気というのなら、ココは集合住宅地。言ってしまえば、人の息づく中心とも言える場所。人気ならば、有り余るほどに溢れかえっていなければならないなのだ。それだと言うのに、この閑散とした雰囲気は何だ? この身を削るような寂寥感は、心が打ちひしがれるような疎外感は、一体なんだと言うのだ?
考えれば考えるほどに、違和感ばかりが浮かび上がる。
そもそも、加奈子の攻撃の音がここまで聞こえてきているというのに、どうして騒ぎにならない? あんな音、日常ではそうそう聞けるモノでもないハズだ。そうでなくとも、ある程度の距離を取った咲耶の耳にすら届くような音だ。すぐそばの住民たちにとっては、相当な騒音に聞こえる事だろう。
なのに……どうして誰も、気が付かない?
咲耶の足が、止まった。
この場所は何かがおかしい。纏わりつく空気も一向に晴れないし、なんだか随分、現実感が薄いように感じるのだ。
それでも持てる根気を振り絞って、どうにか震える足を叱咤して逃走を再開する。とりあえず優先すべきなのは、あそこから距離を置く事だ。あんな戦闘の間近にいたんじゃ、まともに考える余裕すらない。今はとにかく逃げる事だけを考えようと、咲耶は違和感を無視して走り続ける。今度の曲がり角は、左へ。
その先には、まるでこの世の全てが憎いとでも言いたいような、酷く歪んだ相貌をした般若の面が浮いていた。
「え―――!?」
背を向けて逃げてきたハズの相手が、目の前にいる。
恐ろしいくらいに不自然な、しかし妙にコミカルな挙動。
そんな動きをする宙に浮いた面なんて一つしか見た事ないし、一つだけでたくさんだ―――
「咲耶!」
悲痛なようにも聞こえる叫びと共に、咲耶の頬を一陣の疾風が掠めた。まるで銃から撃ち出された弾丸のような風が、頬の皮膚を薄く裂いて紅い線を引く。その線から僅かに零れた血に呆然として、咲耶はゆっくりと後ろを振り返った。
…血の気の引いた蒼白な顔が、風の軌道を逸らす為に大きく右に振られた腕が、フルフルと震えている。
「いきなり飛び出してこないでよ…このバカ!」
戻ってきたノロに寄りかかってガックリと膝をついたのは、少しばかり憔悴した様子の加奈子だった。咲耶が突然攻撃の射線上に立ったせいで、急な軌道変更を余儀なくされたのが原因だろう。今まで、一度繰り出してしまったノロを再び調節し直すなど、ほとんどしたことがなかった加奈子である。気が動転したという事も加わり、一気に気力を使い果たしてしまったらしい。
どうやら、もう一人で立っているのも難しいようだった。
「何アンタ、芳乃さんを捜しに行ったんじゃなかったの?」
「行ったよ! でも、なんでかまたココに戻ってきちゃって…」
「肯。当たり前だね」
般若の面が、何か咲耶たちの理解が及ばない事をおもしろがっているのではなきかと勘繰りたくなるような挙動をとる。
「ここはもう、『こっち』の世界だから。出られない、出られないよ」
「はあ? コッチ?」
「ずうっとずっと、グルグル、グルグル。何処をどう通っても、同じ、同じだよ」
グールグルーと不明瞭なメロディを口ずさみながら、自身も言葉どおりにグルグル回転する面。ここで初めて相手の背後を見たが、やはり後頭部に該当する部分も影ばかりで、結局正体は掴めないまま。加奈子があんなに猛攻を加えていたというのに、影は少しも応えていないようだ。だっだら攻撃を受けている時にちっとも動かなかったのは、ただ単に動くのを面倒くさがっただけだとでもいうのか。なんだか酷くコケにされている気がして、いきり立つ咲耶。しかしいくら憤ろうとも、咲耶自身は面に抵抗できる術を何一つとして持ち合わせていないのだ。
本当に何もできない自分を、今までにないくらい歯がゆく思う。
「さて、なんだか面白くなくなってきたね」
せめて自分にも、芳乃と同じくらいに力があったなら。
「そろそろ終わろう、終わろうか」
せめて…誰かを守れるだけの、最少最低限の力だけでもあれば。
「咲耶っ!」
祈りを込めて、加奈子の前に立ちふさがる。動けない加奈子が驚いた声を上げるが、これが今の咲耶にできる最善の策だ。
最初の言動から推測する限り、おそらくこの面が狙っているのは咲耶の方だろう。ならば自分が相対していれば、少なくとも加奈子は逃げおおせる事が叶うかもしれない。
「見てるだけだとか、逃げてるだけだとか、もうたくさんだよ。
大切なモノを捨てるくらいなら、私は私自身を捨てる!」
心の内を全てさらけ出して、咲耶はギュっと目を瞑る。
愚かな行いである事を自覚して。その上で、終わりを覚悟して。
…ところが。
ドォォォォォォォォォォォォォォォォォン!!
大げさな地響きが嘶きをあげ、静寂に満ちていた地面が大きくうねって揺れる。一度。二度。三度。繰り返して何度も地震が起こり、やがて揺れは一つの振動となって世界を震わせた。
…まるで世界が、己の矮小さを恥じているような、震動。
「空幻!」
激しい振動にも臆せず、既に深い天鵞絨の帳が落ちた夜空を仰ぐ般若の面。その挙動たるや、あたかも待ちくたびれた幼い子供のようだ。無邪気で純粋なその喜びは、果たして何の意味を持つというのか。
「嗚呼、嗚呼、空幻! 探した、探したよ! ずっと…ずっとだ!」
歓喜のあまりか、もう咲耶たちの姿など一切眼中に無いようだ。
滝のように溢れる嬉しさを表したいのか、面の挙動が今までに増してコミカルに…いや、いっそシュールなまでの物となる。
そうこうしている内に、空の方にも変化が生じ始めた。
パキリと、やけに乾いた亀裂の音が響いたかと思えば。
空の一点に、眼もくらむような眩い白の穴が穿たれる。
やがてその点からビキビキと亀裂が走って、空の大部分を蜘蛛の巣のように覆い隠していった。そして…
パリィ――――――――――――――――――ン…
景気のいい音を立てて、帳が割れる。
その向こう側には、まるで真っ白な太陽が控えていたような、まさに神々しいという表現のために存在するような、輝き。
「私を探してたって? そーりゃ奇遇だな。丁度私も、お前を探してたんだ」
その輝きが地上に降り注いでいくのと同時に、一つの真っ白な影が咲耶の前に落ちてきた。スタっと軽快な音と共に着地して、咲耶が加奈子にしたのと同じように、咲耶に背を向けて堂々と立ちはだかる。咲耶とそんなに大差の無いハズの背中が、今だけはとても頼りがいのある大きな盾のように思える、そんな圧倒感。
「お前を、完膚なきまでに叩きのめす為になあ!!」
いつかと同じように、その髪を真っ白に染め上げた…
夜永芳乃は、怒りの籠った音声を高らかに咆えた。
?
いつもいつも、こういった事件が起こるたびに、無力な咲耶は常に誰かに庇われ続けてきた。春の事件では芳乃に窮地を救われたし、先ほどですらも咲耶は、加奈子を捨て置いて逃げに徹していた。
いい加減、そんなのはもうゴメンだった。いつまでも逃げっぱなしだなんて、そもそも咲耶の性に合わない。それなのに悲しいかな、いまだに咲耶は、一切の反抗手段を持っていないのである。
無力なままでは、また庇われるばかりだ。守る立場に回るためには、何においても力が必要だと痛感しているのに。
それが、このザマか。
気の抜けた咲耶は、ヘナヘナとその場にへたり込む。いつもならココで芳乃が助け起こしてくれるのだが、今回ばかりはそうもいかないようだ。面とにらみ合ったままの芳乃の背中を、見やる。
いつもは穏やかというか、無気力の無感動というか、意外と感情を表に出す事が少ない芳乃。その芳乃が、怒っていた。
「空幻、空幻。なんだお前、そっちに居たのか。肯肯、これは出てこないハズだね。だって居ない、居ないんだから!」
今にも飛び跳ねそうになるのを必死に堪えているような、嬉しさを包み隠さないで全身で表現している面。空が割れて光が刺しているおかげで、面の全身を隠していた影が全て剥がれた。しかし、その体自体が黒いのか、なんだか獅子舞の頭部をそっっくり挿げ替えただけのような、なんだか随分不細工な造形をしていた。
「生憎、空幻はお前と話したかないんだって。言伝でもあんなら、神使の私が引き受けとくけど?」
いつもの砕けた物腰はそのままに、しかし確かな怒気を孕んだ言葉。誰がどう控えめに見ても明らかな程、芳乃の怒りは深く激しいようだった。
「神使? お前が? 空幻の神使?」
「そうだよ。なんか文句ある?」
芳乃がつっけんどんに言い放てば、不恰好な影の上にちょこんと乗っかっている面が首を傾げるような仕草をした。影の塊といえど、キチンと四肢があるし、面のある位置も人間の頭部のソレだ。
なのに、どうしてこんなにも、人外じみた気配を感じるのだろう。
影はしばらく首(とみられる部位)を傾げていたが、やがて元の角度に戻して、今度は腕のような部分を芳乃に向けた。
「否。こっちが間違うハズないよ。分かるんだから」
「じゃあ、今初めて間違ったな。だって私が…」
「否! お前じゃない、お前なんかじゃない!」
これまでの嬉しそうな調子から一転、面は世にも恐ろしい喚き声で芳乃を否定する。その声色たるや、その般若の表情にはとても似つかわしいものだ。
「偽物、偽物! 空幻の神使はお前じゃない!」
「うるさいなあ! 納得いかねえからって、ごちゃごちゃ喚くな!お前がなんて言おうが、今は私だ! 私なんだよ!」
その叫びに釣られるように、芳乃も大声で叫び返す。逆上して、怒りをぶつけるように。あるいは…まるで自分自身に言い聞かせているように。
「空幻! 今回は初っ端から全力だ、とっとと終わらせんぞ!!」
虚空に呼びかけても、あの妙にふわついて安定しない声が返事をすることはなかった。代わりに、芳乃の纏う光と波動がより一層強くなる。
「咲耶! 加奈子ちゃんと一緒に、どっか隅っこに引っ込んでろ!
巻き込まれたって知らないからな!」
「え、あ、うん!」
呆けていた咲耶の耳に、芳乃の乱暴な指示が飛びこんだ。あまりに乱暴で怒りの滲みでていた声だったために、慌てて返事をして素直に従う。
「加奈子ちゃんも! 断絶のやり方は前に教えたよね!? そいつで壁を作って身を守るんだ!」
「はいっ!」
加奈子も素直に返事を返して、寄りかかっていたノロに指示を出して咲耶を回収させ、自分の家だと言っていた住宅の門扉をくぐった。ほとんどもたれかかるようにして鉄柵の門を閉じ、携帯を強く握りしめて何かを呟きはじめる。
「『来ないで』、『来ないで』。『でなければ呪いは起こる』……『破られた』なら『破った者に報いを』……『呪いはモノに、モノはヒトへ』!」
思いつく限りの拒絶の言葉を並べ上げ、最後には念押しの一言のように、最初に聞いた文言を高らかに宣言する。
途端、またもや空気が張りつめて、重苦しい異質の空気と、それを拒絶するもう一つの空気が拮抗し合う感覚が生まれた。
「加奈子、これって一体なんなの?」
「何って…さっきもやってた事よ。それの応用版」
「あの攻撃が? 一体なにがどうなったら、ああいうことになるってのよ?」
「…チェーンメールと同じ原理よ。こちらが何か指示をして、それが達成されなければ不幸になる。それをメールでやるか、口頭でやるのかの違いってだけ。携帯を使うのは、チェーンメールの意識をより強く持つ為。だから、呪いは物に、物は人へ…なのよ」
あまり詳しく説明する気はないのか、加奈子はそこで解説を打ち切って、再び拒絶の言葉を唱え続ける作業に戻ってしまう。咲耶にしても、今この場で事細やかに解説を頂いたって全く頭に入らないのだから、これだけの説明で十分だし十全だった。
芳乃の怒りに身を任せた闘争が、すぐ目の前で繰り広げられている、こんな状況では…
「うおおおおっ!」
神社で見た時に持っていた刀を抜いて、勢いよく鞘を投げ捨てる。カラーンと物寂しい音がして鞘が転がるが、芳乃は少しも気にかけずに突進する。…衝撃波の発生軸を少しだけずらして、ロケットスタート。その神速の勢いを全て刀に乗せて、駆け抜ける。すれ違いざまに刀を振りぬけば、白銀の軌跡が過たずに影の胴を裂いた。
パッと走る、白い光。しかし斬られた影は少しも微動だにせず、ゆらゆらと蜃気楼のように揺れて、いともあっさりと斬られた箇所を繋げてしまった。
「畜生、やっぱ単なる物理攻撃じゃダメージ通んないか」
芳乃も全く手ごたえを感じなかったのか、不満そうな顔で刀を振って血払いの真似事をする。しかし、その声に不安は微塵も感じられない。
「…だーったら、コイツはどうさ」
不満そうに曲げた眉をキッと引き締めて、不敵かつ不遜に、口の端を吊り上げてみせる芳乃。その体にまとう光が、スーッと凝縮されて刀に集まった。先ほど空を照らし出した太陽そのままの光が、その全てが刀に宿る。
「受けてみろ」
全身全霊、渾身の力を込めて振り下ろせば、瞬く輝きがそのまま刃となって飛んでいく。煌、と白銀が尾を引いて。光の太刀はまっすぐに影を捕らえた。だがその光を見てもなお、影は余裕そうな態度のままにその場にとどまる。
しかし、その刃が今まさに般若の面を貫通せんという間際、まるで予想外の物でもみたかのように影の動きが完全に止まる。その直後、恐ろしいまでの瞬発力で面は刃を回避。ギリギリの所で刃を躱した面だったが、その影の体は、先ほどとはうって変わってザックリと袈裟切りに斬られた後だった。おまけに今度は、どんなに時間を費やそうとも、なかなか切断面がくっつかない。
「なんで、なんで!? どうして斬れるんだ!?」
本当に予想だにしていなかったのか、余力を残していた様子をかなぐり捨てて事態の把握を急ぐ般若。
「おーやおや? まだボケる年でもないだろうに…しばらく会わない内に、私達の力を忘れでもしたか?」
ようやく優位な位置に立つ事ができたためか、非常に上機嫌な声で面を挑発する芳乃。刀を肩に担ぎ、塀の上で仁王立ちして面を見下す芳乃は、意趣返しでもしているようにケタケタと笑っている。
「私達は、お前を討ち倒した張本人だぞ? お前に対する有効な攻撃手段なんざ、いくらでも用意できんだよ」
「…正確には空幻が、だよ。お前じゃない」
「まだ言うか…」
面はようやく認識を改めたのか、斬られて乖離してしまった半身を諦めたようだ。代わりに断面から新たな手と足を生やして、フワリと宙に躍り出る。
「肯肯。やっぱり、殺すのが一番だね。殺しちゃえば、神使も何も関係ないもの」
「そんな事、させるか!」
距離を離されてなるものかと、芳乃も塀を蹴りつけて空間を突っ切る。纏っていたモノのほとんどを刀に集めてしまった為か、初めに比べて幾分か機動力が落ちたように見える。それでも、体の半分を持って行かれた影に追いつくには十分な速さだ。
二人の闘争はそのまま空中戦にもつれ込み、天鵞絨の帳と白銀の太陽をバックに激しい攻防が繰り広げられた。
芳乃が振るう真白の軌跡を、影はヒラリと躱す。その躱した動きの慣性を乗せた、しなる腕の一撃が今度は芳乃の心臓を直に狙う。これを刀の側面で受け止め、弾いては一刀両断。距離を離されれば、光の刃を飛ばして牽制。隙をついて接近しては、またも鍔迫り合い。
影の黒と、芳乃の白が、幾度となく交差する。
黒と白が入り混じる世界に、息もつかせぬ斬撃が飛び交う。
…ただそこに、意味などは無かった。どちらも己の意地と矜持を誇示するためだけに得物を振るい、嫌悪しあう互いを少しでも蹴落とすためだけに一撃を繰り出す。
特に、芳乃の意地たるや凄まじい物だ。意地でも自分を否定されたくないような、何が何でも自分を肯定させたいような。今や芳乃が振るう刀には、それしか込められていなかった。
――私が神使だ。私が、空幻の神使なんだ!私以外が神使であるなんて、あってはならないんだ!
…果たして、芳乃の意地が、かろうじて影に宿るそれを上回った。
半分になった体をさらに半分に斬られた影が、力なく地面に叩きつけられる。影がアスファルトにめり込んで、縦にヒビの入った般若の面が弱弱しく鎌首をもたげた。その様に満足した様子の芳乃が、それでも刀の集中は解かないままにゆうゆうと舞い降りてくる。
「うう…どうして偽物に、こっちが勝てない!?」
「世の中、勧善懲悪なんだよ。神様に逆らったお前が悪い」
「否! ならば、本来の立場を偽るお前が、お前こそが悪だ!」
今にもヒビの入った所から割れてしまいそうなくらいに、最後の力を振り絞って喚きたてる面。その姿は凄惨そのもので、いっそ不憫にすら思えるほどに悲惨だった。
「…あのさ、何をムキになってんのか知らないけど。現に空幻は私を認めて神使としたんだ。そこに何の問題がある?」
聞き分けのない子供を諭すような、出来うる限りの優しさを全面に押し出した宥めの言葉をかける芳乃。しかしその言葉の裏には、あたかも競り勝った意地を誇らしげに提示するような、少しばかりの自尊心が裏打ちされていた。これは、偽物呼ばわりされた事を相当に根に持っているようだ。よく大人気ないと称される芳乃の、そう称される所以が、ここにあるのである。
「問題!? あるとも、あるともさ! 」
対する般若の面は、その裏打ちされた真意をおもんばかる余裕すらもないのか、ただ単純に勝者に慰めの言葉を投げられた事自体に腹を立てたようだった。
「空幻は、刀を預ける人間を随分時間かけて選んでいたみたいだからねえ! その御眼鏡に叶った人間が、いつもいつもこっちを上手いこと邪魔するんだよ! …だけど、お前は違う! お前は、その選ばれた人間から権利を掠め取ったんだ!」
「…」
まるで図星でも突かれたかのように、急に押し黙る芳乃。
それを動揺したと判断したのか、面はさらに続ける。
「肯肯。そうだよ、そうだよ! ねえ空幻、そこに居るんでしょう?
君はどうも思わないのかい!? せっかく君が厳選に厳選を重ねたというのに、この人間はそれを邪魔したんだよ!? どうにも酷い、酷い話さ! 君を―――」
「…もういい。黙ろうか」
やたらめっちゃに大声を出して暴れる面を、とうとう堪忍袋の緒を切らした芳乃が静かに粛清した。面の額に突き刺した刀を抜けば、くたびれた木材で出来ていた面は真っ二つにパカンと割れて、それ以降はちっとも動きも話もしなくなる。同時に、面の体を形作っていた影も、周囲に満ち満ちていた重苦しい空気も綺麗さっぱり消えてなくなった。
ようやく人心地ついたように、芳乃はフウと息を零す。
ギラギラした紅い目が、どこかもの悲しそうに、静かに伏せられた。
?
門の内側で塀に背を預け、膝を抱えて縮こまっていた咲耶。その薄い肩が、微かにだがカタカタと震えている。寒さは感じていないのに、どうしてだろう、なかなか震えが止んでくれなかった。
今回も、芳乃が窮地を救ってくれたのだというのに。どうしてそれを素直に喜べないのか。これまでと、なんら変わり無いのだ。
これまでと、何にも…
「…お姉ちゃん」
春に見た時は、その圧倒的な強さを単純に格好いいと思った。
夏に見た時は、その華麗な刀捌きを実に美しいと思った。
ただ…今回はどうだ。ただ意地と意地がぶつかり合っただけの、まるで言葉を知らない幼子同士のケンカではないか。
己の本音を晒して、ただただ相手を倒すためだけに刀を抜いた芳乃。その姿を見て、咲耶は初めて姉に別の感情を覚える。
――――それは恐怖。地獄の修羅とそう変わらない闘気を目の当たりにして、咲耶はただ恐ろしいと、そう思ってしまったのだ。
…なにが、全てを受け止める、だ。
そんな事を豪語していたのが、もう随分昔のように感じられる。
受け入れるとか受け入れないとか、最早そんな問題ではなかった。
これは…
「咲耶」
呼びかけられて、体が一瞬だけ強張るのがわかった。
一体、どうして怯える必要があるというのか。名前を呼んだのは、自分の実の姉だというのに。
「お姉ちゃん…」
「無事? 巻き込まれてない?」
隠れるように指示した時の乱暴ぶりとは違う、しかし普段のぶっきらぼうな態度とも何かが違う、妙に優しくてむず痒ささえ覚える声。嗚呼、本当に、ここに居るのは夜永芳乃なのだろうか。
「大丈夫。加奈子も無事だよ」
「そう」
違和感すらも恐ろしくなって、加奈子の袖をクイと引っ張ってみたが、いつの間にか、加奈子は失神していたようだった。ノロの姿も、しばらく目を離していた間にすっかり元の猫のサイズに戻っている。今は主人たる加奈子の足元で、じっと静かに控えていた。
「……」
「……」
それっきり、会話も途切れる。
聞きたい事なら、それこそ山のようにある。面の放った言葉、それに答えた芳乃の言葉、数え上げればキリが無いくらいに。
それなのに、いざ言葉にして聞いてみようとすると、どうしてだか咽喉が締め付けられる感覚がして、結局は口を噤まざるをえなくなるのだ。口にすることで、静寂と無音の上に成り立つ、ひどく脆くて曖昧な何かをうっかり突き崩してしまいそうな、そんな恐怖の沈黙が、二人の間に横たわっていた。
これまでなら、こんな風に腰を抜かして動けなくなっている咲耶を引っ張り上げて、なんだかんだ言い合いながらも二人並んで帰路についているところだ。しかし今回の芳乃は、どういったワケだか塀を挟んでポツポツと言葉を交わすだけで、一向に咲耶の側には来ようとしなかった。これではまるで、咲耶の怯えを察知して、咲耶と同じ類の恐怖を抱いているかのようではないか。
「…あのさ、咲耶」
それでも意を決したみたいに、芳乃はようやく重い口を開いた。
「これで分かったろ? これに懲りたら、いい加減に首突っ込むのは止めて大人しくしててくれ」
ひどく弱弱しく、懇願するような頼りない声が、静かに震えて響く。
「お前がいても足手まといなんだよ。もし来られたって、できる事もさせてやれる事も何にもないんだから」
頼むから、懲りてくれ。暗に芳乃は、そう言っているようだった。
背後の塀の向こうから、布とアスファルトがこすれる音。ちょうど咲耶と背中合わせになる位置で、芳乃が地面に座り込んだようだ。
「…そんなに、私が邪魔?」
「…ああ、そうだよ」
ハキハキしない、今にも消え入りそうな声なのに、咲耶の心には何か重くて鋭いか塊がズンと突き刺さる感触があった。
いつもの調子でないからこそ、それはなおさらに響く。
…やるせなくなって、抱えた膝にポスンと頭を乗せてみた。
姉妹なのに、向いている方角はまるで反対だ。
咲耶は、ただ知りたかっただけなのに。
知識というのは、力にも比肩する重要なステータスだ。無知は無力という言葉もある。力を持たない咲耶だからこそ、まずは知る事から始めようとして、手始めに芳乃の正体から探ろうとしただけだったのに。
どうしてだろう。知ろうとすればするほどに、芳乃が遠くなっていく…そんな気がしてならないのだ。
(分かんないよ…お姉ちゃん)
咲耶と芳乃、両者の心の内を、空が見透かしたかのように。
空に浮いた白い太陽がゆっくりと傾いて、徐々に消え始める上空から、柔らかくも冷たい雨が降りだした。
零
椅子の背もたれに立てかけられていた般若の面が、ペキッと間抜けな音をたてて真っ二つに割れた。
その様子を無感動な目が眺めていたが、やがて飽きたように、フイっと視線を移す。淡い色のカーテンをそっと開ければ、まぶしいイルミネーションの夜景が窓一面に広がった。
「見つけたよ」
誰に言うでもなく、強いて言うとすれば背後に控える何かにでも語りかけるような、抑揚の少ない無機質な声。その背後には、何も見受けられない。シンプルで簡素な造りのベッドと、壁に備え付けられた、中には食器の代わりに多種多様な面が納められた食器棚がある以外には、本当に何もなかった。しかし、その空間は不自然にユラユラと揺らめいている。まるで…蜃気楼でも発生したかのような、幻を見せる透明の揺らめき。
『空幻、空幻だね。嗚呼、嗚呼、本当に長かった』
般若の面ととてもよく似通った言い回しで、しかしこちらは少しばかり大人しい調子で、あふれる喜びを言い表す蜃気楼。
『でも、神使が居ないようだ。これはではいけない、いけないよ』
「神使ならちゃんと居たよ。ちょっとワケアリみたいだけど」
夜景に目をやったまま、しかし特に何かに注目するという風でもなく、つとつとと言葉を紡ぐ。
『なんだ。だったら問題はないね』
「うん、問題はないよ」
異論はないので同じセリフを返せば、それっきり蜃気楼は黙りこくる。話すことはもう無いのだからと、ひっこんでしまったようだ。蜃気楼の相手をしていた方もそこからは一言も口にせず、やっぱり飽きたような挙動でカーテンを閉め切る。
その窓に、ポツリポツリと、小粒の雨が当たった―――