SAKURA_DRIVE

―曇りのち晴れ。週末は晴天が続くでしょう・前篇―

シキクサ

 

  壱

 

 夢を、見ていた。

昔懐かしい、まだ小さなころの記憶。

『まてー! まてまてー』

夢の中の【私】は、本当に幼い、小さな小さな子供だった。今はちょうど鬼ごっこでもしているのだろう、短い脚を懸命に動かして、前を行く女の子を…自分のおねえちゃんを必死で追っているようだ。同じように小さな、しかしこの頃はまだ大きく見える姉の背中が、伸ばされた紅葉のような手をことごとく躱していく。そうやってことごとく逃げられるのがもどかしくて、業を煮やした私は、一旦足を止めてから勢いをつけて姉の背中に飛びかかった。それでも、大人気ないおねえちゃんはヒラリと身をよじって、またも私のタッチを回避する。

『ほーらほーら、おねいちゃんはコッチだよ』

挑発するように、その場でクルクルと回って見せるおねえちゃん。その一挙一動がいちいち腹立たしくて、それ以上に悔しくて、意地になって再び追走を開始する。その姿を面白がるように、おねえちゃんはまた背を向けて逃げるのだ。

 

 しかし…

 

 おねえちゃんが、急に立ち止まった。あまりに急だったので、後を追っていた私は停まりきれずに彼女の背中にぶつかる。ぽすん、と軽い音がして、踏ん張るのも間に合わずしりもちをついてしまった。

『おねいちゃん? どしたの?』

 怪訝に思って姉を見上げるが、おねえちゃんはただ呆然と立ち尽くして、あらぬ方向へ視線を向けたまま静止していた。

私もマネをして同じ方向へ目を向けてみたが、その先には何も見受けられない。ならばいったい、おねえちゃんは何を見ているというのか。

少しだけ不安になって、何度も姉を呼ぶ。

『おねいちゃん? おーい、おねいちゃーん』

 何度呼んでも、服の裾をグイグイ引っ張っても、おねえちゃんは微動だにしなかった。

嫌な風が、ザワザワと木々をゆらす。怖くなって、おそらく私は涙ぐんだのだろう。視界の端がにじんで、目に映る風景がグニャリと歪んで見えてくる。

しばらくすると、おねえちゃんはようやく動きを見せた。ただ、その動きは酷く緩慢でカクカクしていて、妙に現実味が薄い。さながら、壊れてしまったロボットの玩具だ。彼女の不審な挙動をいぶかしんで、私はもう一度彼女に呼びかけた。

『ねー、おねいちゃ…』

 ゆっくりと頭が動いて、やがて、二人の視線がガッチリと噛みあう。

 

 私を見つめる【おねえちゃん】の目は、()()()()

赤くて、紅くて、妙にギラギラと輝く目が、私を捕らえた。

 

『ひっ……――――――――』

 極度の緊張が私を襲い、咽喉が潰れたような声が漏れる。

 

 

しかし、その声自体が引き金だったのか…

 

 

私の頭上に、ふと影が差した。

見上げれば彼女の背後には、

世にも恐ろしい形相をした怪物の顔が(・・・・・・・・・・・・・・・・・)――――

 

 

ミ ツ ケ タ

 

 

まるでこの世の終わりを楽しむかのような笑顔で口を開け、手前にいたおねえちゃんを……

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

―――――……

―――――――――――………

 

 

「いやああああああぁ!!

 自分の悲鳴に驚いて、堪らずに飛び起きる。心臓が張り裂けんばかりにバクバクと脈動して、耳の奥からもガンガンと血の巡る音がする。パニックを起こした体が反射的に立ち上がろうとしたが、二段ベッドの上段に勢いよく頭をぶつけてしまった。ゴッ、と鈍い音がして、そのままうずくまる。しかしその衝撃のおかげで、咲耶(さくや)はようやく目を覚ますことが出来たのだった

「ゆ、夢……かぁ」

 たんこぶでも出来たかのように、ジンジンと痛む頭頂部をさする。マンガ的に表現するなら、ぶつけた部分からプシューと煙が上がっているような感じだ。激痛という訳でもないが、このジワジワ来る鈍痛が地味にキツイ。なにより、こんなバカ以外の何物でもないドジを踏んでしまった事そのものがとにかく腹立たしい。なんだか酷く恐ろしい悪夢でも見ていたような気がしたが、その余韻に浸って内容を思い返す気分にもなれない。そもそも、この夢のせいで自分は朝から痛い目を見たのだと、そんな苛立ちすら覚える。

「咲耶、いつまで寝てるの!? いい加減起きなさい! 遅刻したって知らないわよ!」

 ドアの外からは、お母さんの容赦ない怒号が響いてくる。枕元の目覚まし時計はいつの間にか止められていて、液晶盤の時刻はちょうど七時五十分を示していた。

それはちょうど、いつも咲耶が平日に家を出る時間で。

今日はちょうど、平日で………

―――――あ…

 夜永(よなが)咲耶の、今年の皆勤賞へ向けての努力が、その全てが、今まさに潰えた瞬間であった。

 

 

 

  〇

 

…私達が暮らすこの世界というものは、意外と、私達が思っている以上に摩訶不思議な現象や説明のつかない存在であふれている。

ただ、ほとんどの人には見えていないだけでね。

見ようと思えば、それら(・・・)なんてどこにでもある。

例えばほら、私達の隣にとか、目の前にとか、あるいは…すぐ後ろにとか。

あ、ごめん。驚かせるつもりで言ったんじゃないよ。

まあ、いきなりこんなことを言われても、まず信じられないよね。

しかたない、それが普通なんだし。私だってそうだった。

実際に、その摩訶不思議で説明のつかない出来事に出会うまではね…

 

 今から話すのは、()が体験した最後の『摩訶不思議な出来事』。

 そして…私が『説明のつかない存在』に立ち向かう決意をするキッカケになった、私のお姉ちゃんの話―――。

 

 

  T

 

「ああああ…もったいない事したなああ…」

珍妙なうめき声をあげながら、咲耶は机に伏せた頭をガリガリ掻き毟る。あの夢には、朝から何かと憂き目を食らいまくっていた咲耶だったが、皆勤賞というささやかな努力すら水泡に帰されたのでは、何だか殺意まで湧いてくる。

「たかだか図書カード一枚でしょ。そんなに悔しがらなくても…」

 そんな咲耶の前の席から、形の無い何かにひたすら恨み節を呟くのを不思議そうに眺めるのは、よき親友にして幼馴染、宮森(みやもり)美幸(みゆき)。咲耶とは家も近く、普段は指定の場所で待ち合わせて一緒に登校している。しかし、今日のようにどちらかが時間までに来なければ、情け容赦なく片方を置いて登校するという約束になっていた。

「分かってないなー美幸さん。こう…モノじゃなくてさー、達成感ってのが大事なんだよー」

 もう全てがどうでもよくなったかのように、間延びした声で持論を語る咲耶。しかしその右手は、寝坊した親友をさて置いて自分はちゃっかり皆勤を維持している美幸の横っ腹を執拗につついていた。

「あーそう。で、本音は?」

「図書カード五百円分もあれば、コミック一冊は買える。つまり毎日早起きするだけで、マンガ一冊分のお金が浮くんだよ」

「…ものの一瞬で自分の持論否定したわねアンタ」

「…だって、小遣い少ないんだもん」

 中学二年生の咲耶が、毎月に支給されるお小遣いは千円。両親は妥当な額だと思っているようだが、この頃の中学生と言うのは、とかくに買いたい物、買わなければならない物が沢山あるものなのである。それは咲耶も例外ではなく、やれ毎月のように発売されるマンガだの、やれライトノベルだの…これらを買うだけで月の小遣いなんて使い切ってしまう。

「マンガなら芳乃(よしの)さんも買ってるじゃないの。貸してもらうって発想は無いの?」

「…ああ、ね」

 予想の斜め上を行く不意打ちを受けて、咲耶は歯切れ悪く相槌を打った。

確かに、マンガなら芳乃も集めている。その総数だけを見るなら、咲耶の蓄える在庫のゆうに三倍は超えるくらいだ。もちろん貸してもらう事だってできるし、実際に咲耶は、ついこの間まで頻繁に芳乃からマンガを借りていた。

…それをしなくなったのは、秋の中ごろの事。

自身の姉・夜永芳乃の、トアル一面を目の当たりにしてしまった時だ。

 

 己の意地をむき出して、それこそ本能の赴くまま、ただただ敵を屠るためだけに力を振っていた。圧倒的な力を惜しむことなく、加減も躊躇すらも挟むことなく。

乱暴なまでの煌きを無理やり従わせて、己が標的を殲滅しねじ伏せた。

 その光景に、その姿に、咲耶は初めて本能的な恐怖を覚えた。万が一にも芳乃の邪魔立てをしてしまったなら…いや、あともう少しだけでも近寄っていたら、まず確実に巻き込まれ殺されてしまっていただろう。そう感じさせる程の気迫が、圧倒感が、その場に満ち満ちていた。

 そして全ての片が付いた後、芳乃は咲耶に最後の通告をした。

『もう首を突っ込むな。大人しくしていろ』

 そして、その言葉が…今となっては芳乃と交わした()()()()()になってしまった。

 

「それもアリだけどさー…最近、お姉ちゃんってば帰ってくるのが遅くって。この頃は私が寝る頃になってようやく帰ってくるみたいでさ。勝手に持って行く訳にも行かないから、結果的に借りれないんだよ」

「あらま。大学が忙しいの?」

「どーでしょ。休みの日もいないくらいだから、そうかもね」

 肩をすくめて、自分も知りえない事であると主張する咲耶。しかし、これは嘘だ。いや、嘘を吐いたというよりは、言っていない事があるという方が正しい。

 確かに最近の芳乃は、平日も休日も関係なく毎日のように咲耶が起きる前に家を出て、日付が変わる頃に帰ってくる。当然、咲耶と芳乃が顔を合わせ言葉を交わす機会もめっきり減ってしまった。加えて、この悪循環でしかない生活リズムは、すでに二か月近く続いている。

秋の通告が最後の会話となった理由が、まさにこれである。

 

では何故咲耶は、わざわざ美幸に嘘を吐くようなマネをしたのか。その理由は至極簡単。()()()()()()()()()()()()()を持ち込まなければならないからだ。

咲耶の予想する、芳乃がほとんど家に居ない実際の理由は、もっと別のもの。少なくとも、決して大学関連の用事ではないという確信はあった。

秋の一件を少しだけ反芻してみる。

敵を倒し、こちらへ歩み寄ってきた芳乃を、事もあろうに咲耶は()()()。その恐怖を、おそらく芳乃は感じ取ったのだろう。むやみに近寄ることはしないで、少し距離を取って咲耶の様子を伺っていた。今にして思えば、それのせいで芳乃も傷ついたのだろう。実の妹に怖がられて、平気でいられる姉なんているハズがない。

 そして芳乃は、翌日から姿を見せなくなった。

顔を合わすのも、言葉を交わすのも気まずくなって、なるべく家を空けるようにしたのかもしれない。

 

 芳乃が帰ってこない、本当の理由。

言ってしまうならそれは、ただ咲耶に会いたくないだけなのだ。

 

「でもさ。どうせだったら、芳乃さんが出る時に一緒に起こしてもらえばよかったんじゃない? それなら遅刻しないで済んだかもよ?」

「それを言わないで…」

 意地の悪い顔でほくそ笑む美幸を、非難の意を込めて睨み返す。

 

 時刻は、午前十時ちょうど。

二限目の開始を合図するチャイムが、ひび割れた音で冷たい空気を引っ掻いた。

 

 

  U

 

 

 放課後、一緒に帰ろうと言う美幸の誘いを、咲耶は泣く泣く辞退した。嫌という訳では断じてないが、今日のところは別の【用事】があるのだ。

家の方角とは反対方向へ学校を出て、商店街と住宅街が途切れるまでひたすら歩く。やがて見えてきたのは、鬱蒼と生い茂る雑木林と、朱塗りの塗装が剥げた薄茶色の鳥居。その額束には、朽ちかけた木材と錆びた金箔で『白鳴神社』と書かれている。その文字を少しだけ眺めてから、咲耶は再び足を進めた。

向かうは、鳥居をくぐった直ぐ右手。社の手前にちんまりと控える宮司詰所だ。

「こんにちわー」

「お、咲耶ちゃんか。いらっしゃい」

「………」

 引き戸を開けると、奥の炬燵には男と少女が座っていた。それぞれの手に湯呑を持って、炬燵の上にはお菓子とミカンが見受けられるあたり、どうにも二人は和やかなお茶の時間を満喫していたようだ。

言わずもがな、男の方は(もり)(がた)(つかさ)。この白鳴神社に努める神職の一人である。そして、少女の方が―――

「やっほー、加奈子」

「…うん」

 茂木(もぎ)加奈子(かなこ)。今の咲耶にとって、『摩訶不思議な出来事』や『説明のつかない存在の事を話し合える唯一の友人(・・)

「森形さん、お姉ちゃんは…」

「残念、今日はもう無理そうだ。なにせ俺が出勤する頃には、もう祠は空っぽだったんでな」

「…そうでしたか」

 少々落胆した様子で、加奈子の隣に力なく座る咲耶。森形が回してくれた小鉢からお茶請けのクッキーを受け取り、もそもそと味気なさそうに咀嚼する。

 

芳乃が帰ってこない理由だが、咲耶にはもう一つ心当たりがあった。

実は、芳乃が異変を解決する際にいつも振るう武器…【刀】が納められている場所こそ、この白鳴神社なのである。そこの神職であり、その刀の普段の管理も任されている森形が証言するに、芳乃は毎日ふらりと現れては欠かさず武器を回収しているというのだ。それはつまり…またしても芳乃は、武器を持たなければならない事態に向き合っているという事に他ならない。

もしかしたらこれまでのように『摩訶不思議な出来事』の対処に奔走しているから帰ってこないのではないか? そう踏んだ咲耶は、この推測を芳乃の捕捉に応用する事にした。

森形の更なる証言では、どうにも芳乃は、一度回収した刀はその日の内に必ず祠に戻しているようだった。つまり、芳乃は一日に最低二回、必ず神社に来ているのだ。と言うことは、回収に来ている手ぶらの状態を狙って張り込めば、逃げられてしまう確率はグッと低くなると考えたのである。少なくとも秋に取り逃がした時は、既に刀を回収された後だった。ならば刀を取られる前に見つけられれば、どうあっても回収したいであろう芳乃はそう簡単に逃げたりしないハズだ。

 ただし、今日はもう刀を持っていかれているので、この作戦は失敗に終わった。そして、そうなった時のために、こうして加奈子が控えているのである。

「加奈子はどう? 何か連絡とか来た?」

「ううん。今のところ何にも音沙汰は無いわ」

 春に一度、加奈子は芳乃と戦った事があった。それに負けて以来、咲耶の知らない間に、なんと芳乃は頻繁に加奈子の元を訪れては、いろいろと力の使い方などを指導していたらしいのだ。しかしそれも、秋の一件からはパッタリと頻度が下がったらしい。それでもポツリポツリとは続いていたようで、実際に加奈子は、咲耶が相談するまで二人が顔を合わせなくなった事を知らなかったくらいなのだ。

妹には会いたくなくても、弟子の方になら何か接触をしてくるかもしれない。咲耶はその一縷の望みに賭けて、加奈子をこの神社に呼んだのである。

「もしかして、またアイツみたいなのと戦ってたりしてね」

 微妙な沈黙を破って、加奈子が話し始める。

「アイツ?」

「ほら、こないだ私の家の前で遭遇したアレよ」

「ああ…」

 咲耶と加奈子が初めて協力し連携した、秋の件。

あの時二人の前に立ちはだかったのは、不気味な影の塊だった。挙動だけならとてもコミカルなのに、どうにも恐ろしさのぬぐえない、不可解な化け物。

「確かに、どっかで量産されてても違和感なさそうな見た目だったけどさ」

「でしょう?」

「うー…。あんなキモイのが沢山いるとか、冗談だけにしてほしいよ」

 黒っぽい物体が密集している様を想像したせいで、体中に鳥肌が走った。炬燵に足を突っ込んでいるにも関わらず、得体の知れない悪寒が背筋を這いまわる。

気分を落ち着けるために、ほっこりと湯気の立ちあがる緑茶をすする。ついでにミカンもつまむ。

「つーか、咲耶ちゃんよぉ。確か芳乃には、もう首突っ込むなって言われたんじゃなかったか?」

 森形の何気ない問かけを受けて、咲耶は少しだけ体を強張らせた。

「それなのに、なんでまだ芳乃を追いかけてるんだ? あ、この間みたいに『妹だから』ってのは無しな」

 脈絡なく話題を振ったと見せかけて、森形はしっかり咲耶の逃げ道を絶っていた。芳乃に好き勝手振り回されているような印象しかない森形だったが、そこは大人の年の功、尋問に関しては一枚上手である。

 対する咲耶は、やはり逡巡した。今回も同じ言い訳で乗り切ろうとしていたのに、いきなり出鼻をくじかれたのである。さりとて、何か深い考えの果てに行動しているワケでも、何が何でも芳乃に遭わなければならないワケでも、なんでもない。

 

 ただ…自分のしたい事を、したいようにしているだけ。

 

「…嫌なんです」

「ん?」

「嫌なんですよ。何にも知らないまま蚊帳の外で置いてけぼりってのが、一番。私は知りたいんです。お姉ちゃんの隠す、本当の事を」

 そう。せっかくここまで見てきたのだ。

最期まで見届けなければ、自分の手で真理に辿り着かなければ、納得できない。

「一応お姉ちゃんとは、全部終わったら教えてくれるって約束したんです。でも、そんなの終わった後なら何とでも言えるじゃないですか。そしたらお姉ちゃんは、絶対に本当の事を隠します。自分だけが納得できる()()ねつ造して、そっちを伝えてくるハズなんです」

 でも…と、咲耶は拳を強く握りしめる。

「そんなの、私が納得できない。…最良でなくていい。私は…『摩訶不思議な出来事』も、『説明のつかない存在』も、()()()()()()()()()()()をひっくるめた上で、本当の事を知りたいんです! その為には、見ていたいんです。もう守ってもらえないならそれでいい。自分の目で、終わりまで全部全部見たいんです!

 まるで、芳乃本人が目の前にでもいるかのように開き直って、己の言い分の全てを吐き出す咲耶。もう森形を言いくるめようだとか、そんなことは考えない事にした。

ただただ、言いたいことを言いたいように言っただけ。

「…そうか」

 森形の方も、もう何も言わなかった。静かに湯呑を傾けて、濃いめに淹れられた緑茶を嚥下する。ついでにミカンもつまむ。

 一気に沈黙が降りてきて、ちょっとだけ空気が沈んでしまったように感じられる。いたたまれなくなった咲耶は、ふと壁の掛け時計に目を向けた。時刻は午後四時を少し回ったくらい。ここに着いて十分くらいしか経っていないが、そろそろ()たなければ()()()()()()だろう。

「ごめん、今日はもう出るね」

「何か用事あるの?」

「そうそう。もうすぐウチのお父さんの誕生日でさ。何かプレゼントでも見に行こうと思って」

 夜永家の大黒柱たる父親は、今年で吾寿を迎える。キリもよくなんとなくめでたいので、毎年近場の商店街で済ませる所を、今年は少々遠出して大きな街まで行くことにしたのである。

そのために乗る電車の時刻が、もうすぐなのである。

「へえ、やっぱり(いわ)(きた)の『トリリオ』?」

 父親への誕生日プレゼントと聞いて、関心を示す森形。彼自身も結構いい年なので、あんまり他人事には思えないのかもしれない。

「いえ。最近、()()(やま)駅の近くにもっと大きな百貨店ができたでしょ? そっちです

「ああ、あっちか」

 テキパキと防寒具を身に着けて、荷物もまとめる。

最後に、お気に入りの赤いニット帽をかぶれば、外出の準備は万端だ。

「それじゃ、これで。あ、明日も来ます」

「はーいよ。じゃあね」

 軽く会釈をする咲耶を、炬燵から出ないままに見送る森形。加奈子もミカンを口に運ぶ手は止めないまま、ヒラヒラと手を振るだけだ。最初の頃はなんだかモヤモヤしたものだが、張り込みを始めて二月にもなろうとしている今となっては、この二人のものぐさな態度にもすっかり慣れてしまった。

苦笑しながら、引き戸に手をかける。

「そーだ、咲耶ちゃん?」

ふいに背後から名前を呼ばれ、引き留められた。振り向いてみると、相変わらず炬燵からは出ようとしない森形が、上体を捻ってこちらを向いていた。

「芳乃は怖いか?」

「……」

 秋の件を知ってか知らずか…いや、おおかた芳乃本人から聞きでもしたのだろう。あまり真面目そうに質問している風ではなかったが、その何気なさこそが、余計に問い掛けの内容に対して真剣な回答を要求しているようにもとれる。

 咲耶は押し黙って、ちょっとだけ考え込んで、一言。

一言だけきっぱりと言い放った。

「怖かったです」

 その答えを聞いて、森形は予想通りだと言わんばかりに渋い顔をする。ただそれは、咲耶の回答の続きを耳にした瞬間に一変した。

「あの時のお姉ちゃんは、正直言って怖かったです。でも、四六時中ああ(・・)だってワケでもないですし。ああいう時でもなければ、そう簡単にビビったりはしないですよ

 パッと聞くだけなら、強がっているようにも聞こえる台詞。しかし、咲耶の顔つきをキチンと見据えていれば、それは間違いであると理解できるだろう。

 

…咲耶は、笑っていた。

恐怖を無理やりに抑えたような引きつった笑みでも、自分の強さを誇張するような自尊に溢れた笑みでもない。

そこにあったのは、妹の笑顔。

とんだ姉を持ったものだと、少しの自虐と多大な親愛の込められた、笑顔。

私のお姉ちゃんはこうなんだぞと大いに自慢する、無邪気な妹の笑顔だった。

 

 

  V

 

 

 底冷えする空気を遮断するために、ニット帽を深くかぶる。それでも冷たい風を全て防ぐことは叶わず、コートやマフラーの隙間から冷気が少しずつ忍び寄ってきた。

「寒…」

ポケットからカイロを取り出して、手のひらで揉みながら時刻表を見やる。次の電車が来るまで、もうあと数分。あと数分我慢すれば、温かい暖房に在りつけるのだ。それまでの辛抱だと、自分に言い聞かせる。

 買い物の結果は上々だった。今回は下見だけを想定していたのだが、予想外に良い品が多かったために、もう今回でプレゼントを決めてしまう事にした。

時間をかけていろいろ考えたのだが、結局咲耶は一番初めに目についた文鎮を選んだ。ただ一口に文鎮と言っても、習字で使うような飾りっ気のないマジモノではない。ちょっと凝った狛犬の意匠が掘られた、アンティークとしても申し分のないような一品である。父親の職場はとかくに書類が多いので、これなら持ち腐れずに済むだろうという、咲耶の配慮の結果だった。

『―――まもなく、二番線に電車が参ります』

あまりやる気を感じられない男声のアナウンスが、つい最近交換されたばかりの真新しいスピーカーから流れてくる。ほどなくして、薄暗い夜の向こうから二つのライトが射し、六両編成の準急列車が大きなブレーキ音とともにホームに停車した。

咲耶はいつものように、四両目の前から二つ目の扉から乗車する。実はこの位置、自分の下車駅で停車した時に、改札へ上がる階段がちょうど目の前にくるのである。この法則を発見して以来、咲耶は六両の電車に乗る時に必ずこの位置で乗車するようになった。

ただ、その法則に気づいて利用していたのは、何も咲耶だけではなかった。

 

「…………あ」

「……うそ」

 

 扉を入ってすぐそばの座席の、一番端っこ。

咲耶がいつも利用しているその席には、なんと今日の今日に限って先客がいた。

「ま、待って!」

 咲耶に気づいた先客が慌てて席を立とうとしたのを、咲耶は間一髪で引き留める。ちらほらと空席が目立つ中で、あえてその人物の隣に腰をおろし、膝上に置かれた鞄を鷲掴んで逃亡を阻止する。

「…なんだよ」

「今帰りでしょ? 一緒に帰ろうよ。()()()()()

 やっと捕まえた、という意味合いを込めて口端を釣り上げれば、相手は…芳乃は、ようやく観念したように首を横に振った。

「何お前、なんでここにいるの。もう門限過ぎてんじゃん」

 眉根をよせて唸り、自分の行動を悔いている様子の芳乃。

まさか、何がなんでも避けたかった相手が、よりにもよって同じ電車の同じ車両の同じ席に座ろうとするとは夢にも思わなかったのだろう。両手で顔を覆って悪態をつく様は、なんだか万策尽きて追いつめられた逃亡犯のようにも見えた。

「あれだよ、お父さんのプレセント買いに」

「気ぃ早いな。まだ一週間以上先だろ」

「ホントは下見だけの予定だったんだけどね。いいのあったから先に買っちゃった」

 スクールバッグの隙間から、例の文鎮が入った紙袋を自慢げにチラつかせる。厳密には他人にあげる物なのだから、自分で自慢するのもおかしな話ではあるが。

「はあ、そーかい」

 芳乃は興味なさそうに、窓の外へと視線をそらした。

さすが冬ともなれば、外はもう真っ暗である。ガタンガタンと揺れる車体のリズムに合わせて、車窓を流れる夜景のネオンもおだやかに過ぎていく。

二人の正面には誰も座っていないので、二人は気兼ねすることなく景色を眺めた。そこに会話は、ない。

 ふと咲耶は、芳乃の持っている布袋に注目を移した。おそらく教科書やノート類が詰まっているのであろう鞄とは、また別に分けられた荷物。その細長く、少しだけ反り返ったシェルエットには、そこはかとない見覚えがあった。

 

 【刀】。

 

 芳乃の武器であり、普段は白鳴神社の祠に納められている神器。ひとたび芳乃がこれを振るえば、どんな悪鬼だろうが怨霊だろうが、仇なす全てはみな押し並べて灰燼に帰してしまう。強くて、神々しくて…分かりやすいほどに()()()()、武器

「………どうした」

 自分の手元に注目されている事に気づいた芳乃が、それとない動作で咲耶の視界から刀を隠した。

この刀は既に何度も見てきたが、触ったことは一度も無かった。随分前に触らせてほしいと頼んでみた事はあったが、芳乃ときたら『駄目、やめとけ』の一辺倒で、なんだか咲耶の目に触れていること自体が好ましくないらしいようだった。

 

『―――まもなく、坂西(さかにし)()坂西(さかにし)()です』

 

 相も変わらず、気の抜けた男声アナウンスが適当な言い回しで停車駅の名前を告げる。自分たちが下車する駅まで、あと二駅。

「あのね、お姉ちゃん」

 ようやく踏ん切りをつけたのか、唐突に口を開く咲耶。

「悪いけど私、やっぱり大人しくなんてできない」

「…!」

 芳乃が息を飲むのが、気配で分かった。咲耶は、それでも構わずに続ける。

「足手まといだろうが何だろうが、目の前で起きてる事までは無視できないよ。だから、これからも私は、目の前でああいった事が起きるたびに首を突っ込むから」

 それは、宣戦布告。

大事なものを捨てるくらいなら、自分自身を捨てる。そう決めた咲耶の、確固たる決意だ。

 

『―――全てのドアが開きます。ドア付近のお客様、ドアにご注意ください』

 

「…」

 視線を下げて、芳乃は押し黙る。

 

『―――全てのドアが開きます。ドア付近のお客様、ドアにご注意ください』

 

「私は私で勝手にするよ。邪魔なんだったら、無理して守らなくていいから…」

「ふざけんなこの馬鹿!!

 公衆の面前だとか、そういった当たり前(常識)一遍に飛んだ。

一瞬咲耶は、何が起こったのか理解できなかった。ただ正面には、激昂した芳乃の凄まじい形相。その表情を見てやっと、芳乃に胸倉をつかまれ、怒鳴られたのだと理解した。

 

『―――全てのドアが開きます。ドア付近のお客様、ドアにご注意ください』

 

「いい加減にしろ! そんな馬鹿みたいな事ほざいて、毎度毎度死にかけてんのは何処のどいつだ!! いつもいつもいつも…! ちょっとは学習しろよ!!

 珍しい芳乃の怒号を間近で聞いているせいか、咲耶はの心中は怒りや恐怖といった感情よりも、むしろ突然の出来事に対する驚きや戸惑いのほうが大きく勝っていた。

 

 

『―――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 同じアナウンスが、何度も何度も執拗に繰り返される。

しかし、他の乗客も咲耶たちも、誰一人として気に留めなかった。いや、正確には、他に注目する箇所があったのだ。芳乃の怒りの音声、それがアナウンスに被さって響き、それを打ち消してしまっていた。

 

 …それ故、誰一人として気が付かなかった。

停まるべき駅は、もうとっくに通り過ぎている事に。

車外の夜景が全て、塗り潰されたような黒で覆い尽くされている事に…

 

 

『―――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 ゴツン! 

 

咲耶の後ろの窓ガラスに、何かがぶつかる鈍い音がした。芳乃に怒鳴られて軽く放心していた咲耶だったが、流石にこれは気づかないワケもなく、ふいと窓に視線を移す。

…ネオンも電灯も、何もない闇の光景。それをバックに、白っぽい点がポツポツと浮かんでいた。その量たるや尋常ではなく、遠目に見ればちょっとした天の川のようだ。しかし、その点の一つ一つを凝視してみて、咲耶はすぐに後悔した。白い点だと思ったのは、【面】だった。薄気味の悪い能面が、見たこともないくらいにおびただしい量の面が、妙にコミカルな動きで窓の外を漂っていたのだ。

 

「……っ!」

 ようやく認識してもらえたからか、能面たちの挙動が一層コミカルなものとなる。最初の音は、この大量の面が一斉に窓ガラスに追突した時のものだったのだろう。よく見れば、長方形のガラスの真ん中部分には大きな擦り傷ができていた。

だが、そう呑気には構えていられない。一旦は後退した面たちが、またもこちらめがけて突進してきたのだ。二度目の衝撃音はもっと嫌な音が響いて、蜘蛛の巣のようなヒビがガラス一面に広がる。その成果に満足しなかったのか、またも後退し勢いをつけて飛んでくる。今度の数は、さっきの二倍近くに膨れ上がっていた。

「伏せろ咲耶!」

 三度目の衝撃を覚悟した瞬間、隣から鋭い指示が飛ぶ。体がとっさに反応して、頭を抱えて椅子の上に縮こまる。その頭上スレスレを、眩い煌きが駆け抜けた。

景気のいい音を立てながら窓を突き破ってきた面を、芳乃の放つ白刃の闘気が返り討つ。爽快な迎撃(カウンター)が決まり、痛恨の一撃を真正面から喰らった能面は、自ら開けた穴を戻って窓の外に吹っ飛んで行った

だがたった一枚の面でも、侵入を果たされてしまった事に変わりはない。外界と車内を隔てる壁代わりだった窓も、その部分だけが機能を放棄し、ポッカリと開いた穴から次々と影をまとう面が流入してくる。しまいには、一体どこに潜んでいたのかというほどの大量の面が、それに追従するおびただしい量の影が、開いてしまった侵入口を無理やり押し広げるようにして一斉に電車内に雪崩れ込んできたのだ。

 

「い、やああああああああああああああああああ!!

 

 突然の出来事で、当然のごとく車内にいた乗客たちはパニックに陥った。我先にと隣の車両に続く扉に押し掛けて行ったが、この分ではどこにいても同じ事だろう。

「畜生、一々面倒臭いったら!」

 悪態をつきながら、それでも刀を抜いて臨戦態勢をとる芳乃。いつもなら勇ましく鞘を投げ捨てて、配分も考えず一気に力を放出して短期決戦に持ち込むところだが、今回ばかりはそれはできない。ただでさえ場所は狭いし、この場には巻き込まれた一般の乗客もいるのだ。それらに加えて、いつの間にやら、全部で八つあるドアが全て開いているではないか。あのやる気のないアナウンスの通りなら、おそらくこの電車の全部のドアが開いてしまっている事だろう。考えて行動しなければ、無意味な犠牲ばかりが増えていくだけだ。

腹をくくったらしい芳乃は、一つ、大きく深呼吸をした。眼を閉じて、吸って、吸って、ゆっくり吐いて。時間をかけた呼気が終了した時には、芳乃の髪は真っ白に染まり、決意とともに見開かれた相貌には燃え盛るような赤が灯っていた。

「長引くと面倒だ。ぱぱっと終わらす!」

沸き立つ光を纏い、芳乃はまず目の前を漂っていた翁の面を問答無用でたたっ切る。とにかく数が多いのだから、余計な茶々は入れずに手早くこなさなければならない。おまけに、一撃必殺の大技を封じられたも同然なのだから、より慎重な組み立てが要求される。ただし敵のほうも密集しているため、一撃を放てば容易に巻き込んで連鎖を起こすことができた。

今乗客の一人に襲い掛かろうとした面を一太刀で両断し、返す刀で背後に迫った別の面を貫く。突き刺さった刀をそのまま振り回し、面にくっつく影の体ごと豪快にぶん回して周囲の面を巻き込んで叩きつけた。離れすぎた場所には極小サイズの光の刃を多数飛ばして対応し、それも間に合わないようなら面を踏み台にしてロケットスタート。足元の面も蹴りつけて破壊していき、その勢いをそのまま刀に乗せて一閃。

 戦場の狭さを少しも感じさせないどころか、うまく活用して戦っているようにもみえる、見事な立ち回りだった。

 息もつかせぬ連撃を刻めば、追従する軌跡が銀の雨となる。

大きく振り上げた一撃に、湧き上がる煌めきが追加で叩き込まれる。常に優位な位置を保ち、崩されぬように苦心するその努力さえ表には現れていない。秋のような惨状は、恐怖は、もはや微塵も見受けられなかった。

その背中を、呆然とみつめる咲耶。元々の乗客数が少なかったおかげか、もうこの車両には咲耶と芳乃、後はあの大量の面が飛び交うだけとなっていた。

 

 …また、守られているのか。

 

 自分の眼前に迫った面が、芳乃の一閃のもとに灰塵に帰したのを見つめながら思う。

 

 守らなくていいと豪語した、その直後だというのに。

芳乃は、やっぱり咲耶を守った。邪魔だと、足手まといだと、あれだけ言ってきたのに。

 

 足元に、斬り伏せられた面の破片が転がる。

 

 一体芳乃は、いつまで自分を子供扱いすれば気が済むのか。

自分は…もう子供でもなんでもないのに―――――

 

「咲耶っ!」

!?

 

 その叫びを聞いた時には、もう全てが遅かった。

体が突然後ろに引っ張られて、そうと認識した頃には、咲耶は車外の闇の中に投げ出されていた。

「お姉ちゃっ…!」

 理解が追い付かず、踏ん張るどころか抵抗する暇すらなかった。状況が分からず思考が止まりかけていた咲耶だったが、ここでようやく自分の体が何かに締め付けられているのに気がついた。

咲耶の体に取り付いていたのは、あの影だ。様々な種類の面を被った影が、それぞれの手足(と思しき部位)を雁字搦めに絡めて外へ引きずり出したのだ。

こうなってしまっては、いくら手を伸ばそうとも何処にも引っかからない。体はもう、完全に外に出てしまっている。それでも、なんとかして纏わりつく黒い靄のような影を引き剥がそうと、渾身の力を込めて暴れる。

「馬鹿! 掴まれ!」

押し寄せる影を掻き分けて、窓から身を乗り出した芳乃が手を差し伸べる。反射的に腕を出して手を握ろうとしたが、闇の中から湧いた新手の面が、させまいとでも言うように一気に雪崩れて芳乃を車内へ押し戻した。

「くっそ…咲耶! 咲耶ああああああああ!」

 心の奥底から絞り出すような絶叫とともに、芳乃の姿は完全に影に飲まれ見えなくなる。やがては電車ごと全てが覆い隠されて、そして後には何も残らないのだろう。

緩やかな絶望が、咲耶の心の隙間に忍び寄る。張り詰めていた何かが一瞬にして緩み、咲耶は徐々に意識を手放していった。

その視界を満たす暗黒の向こうから、再び白い瞬きがはじけ飛んだのを最後に、咲耶の意識は完全に遮断された。

 

 

TO_BE_CONTINUE.

 

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