渇望 斎槻
遠い遠い世界のお話。
どこかの国の、どこかの森の奥深く。一件の小屋がひっそりとたたずんでいた。そこは薄暗くて、とても住みやすいとは言えない環境であった。村人たちは決してそこに近寄ることはない。あるいは、その小屋を見た者は少ない。森の奥ということもあるが、何より噂があるからである。
『森の魔女は声を欲する』
森に行き遭難するものは滅多といないという。しかし、一歩誤って、奥深くまで進んで行ってしまうと、そこには魔女が住んでおり、魔女に声を奪われ、二度と口を利くことができなくなるという。そして、次第に表情も失われていき、やがてはコミュニケーションができなくなり、ただ、動くだけになっていくのである。これまでにも何人もの村人が声を失う被害にあっていた。しかし、村人たちは生活のために森に行かなければならない。そこで、せめて声を出さないようにして、魔女に気づかれないようにしなければいけないという決まりがいつの間にかできていた。しかし、そんなことをしても、何も効果は無かった。声を失って森から帰ってくるものが、後を絶たなかった。そして、その者たちは話すことができないため、他の村人たちは状況を理解することも出来ないのである。そういうことから、いつしかこの不思議な現象を、魔女の仕業と決めつけはじめていた。実際に魔女を見た者は、この時世にはいない。しかし、昔にいたことは確かであると云われている。村人たちは、いなくなってしまったはずの魔女たちが復活しているのだと、怖れを抱いていた。
「ねぇ、お兄ちゃん? 家はまだ?」
「おかしいな……確かにこの道だった筈なのに」
二人の兄妹は森の中を彷徨っていた。少しの好奇心で、森の中を探検していたのだった。とはいえ、すぐに帰れる範囲で遊んでいただけのはずだったのだが。幼い兄妹は、あちこちを歩いていた。しかし、どうやっても家への道が見えてこない。もうだいぶ時間が経っている。次第に妹は歩き疲れ、今にも泣きだしそうになっている。
「ごめんな、もうちょっとで着くから、もう少しの辛抱だ」
そういって、兄は妹の頭を撫でた。ほんとは、兄も泣きだしたいくらいだった。しかし、妹のいる前で泣くわけにもいかない。一歩一歩の足取りが重くなっていた。一体、どうなっているんだ、やっぱり、森に入るんじゃなかった、様々な後悔と不安があふれていた。
「ねぇ、どうしたの?」
不意に、背後から、幼い少女の声がした。ぱっと、振り返ると、そこには妹と同じぐらいの年の幼い少女が首をかしげて立っていた。
「道に迷ったんだ。村はどっちだい?」
「村? 村はまだまだ遠いよ。随分と奥までやってきたんだね?」
少女は、容姿は妹と同じぐらいではあるが、話し方はしっかりしていた。それより、と少女は兄に近づいた。
「疲れたんじゃない? 私の家がすぐそこなの。ホットミルクをごちそうするわ」
「でも、急がないと、もうすぐ日没だから」
夜に森に近づいてはいけないと、散々言いつけられていたことを兄は思い出した。
「でも、そんなに疲れていては、急いで帰れやしないわ」
ぐぅ〜っとおなかがなった。
「あ……」
兄は顔を赤くした。少女はふふっと笑った。
「おまけにパンもごちそうするわ。ついていらして」
先ほどの所から少し歩いたところに、小さなかわいらしい家があった。何度も歩き回ったはずの場所に。
「お邪魔します……」
そっと足を踏み入れると、そこはアンティークな小物がきれいに並んだ部屋であった。入るやいなや、妹はその場に座りこんでしまった。相当疲れてるようだった。
「どうぞ、こちらにおかけになって」
少女はイスを引き促した。
「ありがとう」
「はい、どうぞ」
ことっと、マグカップに入ったホットミルクを差し出した。
「あつっ」
「こら、急いだらやけどするだろう」
「だって……」
妹はホットミルクを早く飲みたい気持ちを抑えながら、やけどしないようにゆっくりと飲んでいた。
「ゆっくりしていってくださいね。パンもあるし」
テーブルには、バスケットに入ったパンが置かれた。
「おいしい!」
兄妹は口をそろえて言った。
「そういって、いただけると嬉しいわ」
ふふっと少女は微笑んだ。そうして、しばらく少女と兄妹の三人で食事をしながら、たわいもない話をしていた。歳が近いということもあって、互いにすぐに打ち解けた。
「そういえば、貴方たちはどうして森にいらしたの?」
「僕たちは、森を探検していたんだ」
「探検? 素敵ね」
「昔から、森の奥には行ってはいけないって言われていてね、だから、森の入り口あたりだけしか探検してないんだけど。森に行ってはいけないのは、魔女がいるからなんだって。でも、その魔女が落として行った宝物が、森のどこかに落ちているって聞いたんだ」
「へぇ。でも、魔女なんて会ったことないわ」
「そんな簡単に会えるんだったら、宝物なんてないさ」
そんな兄と少女の話をよそに、妹は暗い窓の外を見ながら、浮かない顔をしていた。
「ねぇ、お兄ちゃん……。もう、外は真っ暗よ……」
「え? それがどうかしたか?」
「何をぼけっとしているの? 早く帰らないと、魔女が出てきて、動かないようにされちゃうよ!」
「しまった! 早く帰らないと、母さんと父さんに怒鳴られる!」
兄はガタッと椅子から立ち上がった。
「え? 帰るの……?」
「あぁ、帰らないと、魔女が」
「魔女なんていないわよ。私、ここにいるけど、会ったことなんてないわ」
「でも、母さんと父さんに叱られるよ」
「こんな真っ暗な森を歩いて帰るなんて危険だわ」
「でも……」
妹は兄の顔を見やった。
「今晩は泊まっていきなさいよ。その方が良いわ。お父さんとお母さんには明日、ちゃんと私が説明してあげるから、ね? お願い、独りにしないで!」
兄妹は顔を見合わせた。
「仕方ない……。確かに、この真っ暗の中、帰るのも危険だよ。今日は泊めてもらうことにしよう」
談笑をしているうちに、妹はうとうとし始めていた。
「そろそろ寝ようか」
「そうね、あ、部屋はそこを二人で使ってもらえるかしら」
「ありがとう。おやすみなさい」
「おやすみなさい。明日も、また、お話しましょうね」
そういって、少女は自室へ、兄妹は案内された部屋へ別れて行った。
――でね……
ふふっ、
くすくす……
あははははは
「……うっ」
兄は目を覚ました。時計を見ると、深夜の2時前である。何故か多くの笑い声が、ささやき合っているような夢を見たのであった。それは、楽しそうなのではあるが、妙に鬱陶しさがあった。もう一回寝ようと、布団に入るしかし眠れない。何故なら、夢であるはずの笑い声が、まだ聞こえているからである。兄は怖くなって、布団にうずくまっていた。
ゴーン、ゴーン
時計の針は、2時を指し、時計の鐘は重く厚みのある音で鳴った。静かな部屋の中ではよく響く。兄は、びっくりして布団から飛び起きた。心臓が、ドッドッドッと、脈打っているのがよくわかる。
あははっははははははははははははははははははははは……ふふふッ……きゃははははははははははははははははははは……えへへ……けけけけけ……ははははははははははははははははは―――
笑いと嗤いと笑いと笑いと笑いと笑い――
部屋中を楽しそうな笑い声が埋め尽くしていた。子供たちの無邪気な笑い声から、大人たちの大きな笑い声、老婆の不気味な笑い声。それらは真っ暗な部屋によく響いた。そして、響くその声は、棚のガラス戸をも、がたがたと揺らしていた。
『怖い』
兄の頭の中は、その一文字であった。とにかく、ここから出ないといけない、そう本能が叫んでいた。急いで、妹を布団から引っ張り出して、無理やり起こした。眠気眼の妹は何が起こっているのかわかっていなかった。兄は、妹の手を引き走り出そうとした。しかし、妹は足がもつれて、その場にこけてしまった。兄は慌てて妹をおんぶして、部屋を飛び出し、廊下を駆けた。しかし、笑い声は廊下まで響いている。やっとの思いで、外への扉に手をかけ、飛び出した。兄は妹を抱えたまま、無我夢中で駆けていた。
はぁっ、はぁ、はぁ……
気づけばかなりの距離を走っていた。後ろを振り返ることは、怖くてできなかった。妹を背中からおろし、その場に座り込んだ。妹は、すでにちゃんと目が覚めていた。そして、兄が裸足であることを見て、事の重大さを理解した。
「大丈夫……?」
「あ、あぁ。それより……早く……帰らないとな……」
兄の声は震えていた。
「でも……どっちに……行けば……」
妹は泣きそうなのをぐっとこらえた。
「とにかく、少しでも、あの家から離れよう」
兄妹はゆっくりと歩きはじめていた。森の中を裸足で駆けてきた、足が痛む。月明かりすら、呑んでしまうような、暗いくらい森の中であった。歩けど歩けど、夜が明けることも、自宅に着くこともなかった。兄妹にとって、それはそれは長い時間であった。ふと、うつむきがちになっていた視線を前に向けた。すると、ちらっと、明かりが見えた。
「村に出たのかもしれない!行ってみよう!」
兄妹たちは、期待を胸にその明かりの方へと向かった。
しかし、その期待は一瞬にして打ち砕かれたのであった。
「なんで……」
そこは、先ほど少女のいた家であった。必死で逃げだした家……。兄妹は呆然と立ち尽くしていた。
「と、とにかく、引き返そう!」
兄は妹の手を引き、バッと踵を返した。
「なんで、逃げるの?」
「え」
間抜けた声が、兄の口から洩れた。そこには、先ほどの少女が立っていた。
「ねぇ、もっと遊ぼうよ?」
一歩、少女は近づく。兄は妹の手を握ったまま、一歩下がる。
「ねぇ、どうして?」
また一歩。歓談していた時とは打って変わって、抑揚のない声が響く。
「ねぇ、私と一緒にいようよ」
一歩、二歩。
「ねぇ、私を、一人にしないで……」
どれだけ離れようとしても、いくらでも近づいてくる。
「ねぇ、ずっと、一緒にいよ?」
兄妹の背後は、家のドアだった――
朝、村の一人の若い男が、兄妹を探しに森に入っていた。兄妹の親から、探してほしいという依頼を受けたからである。男は村の中でも、随一の剣のできる者であった。男は、この依頼を受け、これを機に魔女を討伐しに行こうと決めていた。しかし、森に向かったのは男一人である。被害者を最小限に抑えるためである。男は森の奥へとどんどん進んでいく。道なき道をただ、ひたすらに進んだ。しばらくの後、とうとう後ろを振り返っても、来た道が一切わからないような場所に来てしまった。このまま、魔女を見つけることができないのだろうか、そう落胆していた時だった。
「どうしたの?」
不意に幼い少女の声がした。
「君こそ、どうしてこんなところにいるんだい?」
「どうしてって、私の家がそこにあるからよ」
少女はさも当たり前のように答えた。昨晩のような、抑揚のないような話し方ではなく、普通の話し方だった。
男はもしかして魔女に連れ去られた被害者の一人なのかと考えた。しかし、それにしては、声も奪われていない。
「僕は迷ってしまったんだ。よければ、君の家に案内してくれないかい?少し、休みたいんだ」
「えぇ、歓迎するわ」
男は、少女に何かがあると思い、少女についていくことにした。
しばらく、進んだところに、小さな家があった。先ほど、男が歩いてきたはずの場所に。男は何かあると確信した。
「どうぞ、入って」
少女は家の扉を開き、男を誘った。男は恐る恐る一歩を踏みだした。男はそこに何があるのか、警戒しながら足を踏み入れたのだが、そこには普通の家と変わらないような、風景が広がっており、何の変哲もなかった。棚に並んである、小瓶など、アンティーク調の小物たちを眺める。棚を覗き込むと、きれいに並んだ瓶の奥に、小さな小瓶が隠れて、並んでいるのが見えた。少女が台所でお茶か何かを用意しているのを見計らって、男は棚を静かにあけ、奥にある小瓶を取り出した。その小瓶の中身は、見た限りでは空っぽだった。
「ちょっと、人の物勝手に触らないで!」
少女は焦ったようにさけんだ。男は構わず、小瓶のコルク栓を抜いた。すると、ぬうっと、まばゆい光を放つ煙のようなものが出てきた。その瞬間、棚の中にあったほかの小瓶たちが、がたがたと揺れ始め、パキン、パキンと音を立てて、一つずつ、割れだした。小瓶から、光があふれだしている。そして、それらは笑い合っていた。否、笑い声がささやき合っていた。
「え、なに?これ?」
「とぼけないでもらおうか!お前が魔女なんだろう!」
「な、何のこと!?」
「この、今漂っている光……これが村人達から、奪った声なんだろう」
「ほんとに、何を言っているかわからないわ!」
「あぁ。笑い声が聞こえるだろう」
楽しそうな笑い声は部屋中に響いていた。
「笑い声?これはいつものことじゃない?」
少女は首をかしげた。
「そこまで、言って何を隠すんだ」
「確かに、いつも夜になると、声が聞こえているわ。でも、それは、私が寂しくないようにって。それに、こんな光、見たことないもの!」
少女は必死に訴えた。
「もしかして……自覚無いのか?」
「心当たりがないわ」
「でも、寂しくないようにってことだろう。それは、どういうことなんだ?」
「……わからない。でも、私がもっと小さかった頃、誰かが、寂しくないようにねって言ってた。そのうち、夜になったら楽しそうな声が聞こえてきて……一人じゃないって……」
少女はうつむきがちに言った。
「……きっと、この声は、君が家に招いた人たちのモノだよ」
「じゃあ……私が声を……取ったの?」
少女はまるで理解していない反応だった。
「あぁ。無意識にやっていた行為だとしても、君はすごい過ちを犯しているんだ」
男は少女を諭すように言った。
「でも、どうすれば……」
「さっきの棚に何か手がかりみたいなのは無いか?」
「棚……」
少女は小瓶のあった棚を探し始めた。棚の中の物は全部床に散らかして、細かい小瓶のガラス片だけが残っている状態になった。
「これ……」
棚の中を漁った結果、一つだけ、大きい瓶が棚の奥の端っこにひっそりとあった。
「見たことない瓶……」
男はその瓶の栓を抜こうとした。しかし、びくともしなかった。
「貸して……」
少女はその瓶を抱きかかえ、栓を抜いた。すると、びくともしなかったはずの瓶の栓は簡単に抜けた。
「うわっ」
栓を抜いた瞬間、少女の頭の中に大量の映像が流れだした。
昨日、出会った兄妹、久々に出会った同い年ぐらいの子供。楽しい雑談。しかし、いずれは帰ってしまう。おにいさんや、おじさん、おばあさんまで
嫌だ。一人になりたくない。私のいないところで楽しそうにしないで。私の前だけで、ずっと楽しくお話ししていようよ?いやだ、寂しいよ……その楽しそうな笑い声、私だけのモノに……
「私……声……取った……」
少女は泣きながら言った。
「ここにやってきたみんなは、とっても楽しいお話をしてくれたの。だけど、帰るって言われて……また、独りになるんだって……」
少女は泣きじゃくっていた。
「でも、声、取るやり方なんて、知らない。だけど、帰ってほしくないって、思っていたら……あの、小瓶に……」
割れた小瓶を指差した。
「私……魔女だった……んだ……」
少女はその場に座り込んでしまった。
「そして、声を奪われた人たちは、勝手に村に帰って行ったんだね」
「おじいさんもおばあさんも、子供もみんな、昨日の兄妹もみんなみんな、私が、声だけ……瓶に入れて……気づいたら、また、誰もいなくて、夜になったら、みんなの声が聞こえて……」
「もう泣かなくていいよ」
男は少女の頭をポンとたたいた。
「自分が犯してしまったことに気づいたのなら、それでいいんじゃないかな?それに君の場合は無意識だった」
「でも、」
「もう悔やんでいても仕方ないよ。とにかく、ここに漂っている、光……声たちを解放してあげよう」
少女が立ちあがるのを、男は手で支えた。少女は、部屋の窓へと向かった。そして、両開きの窓を、バッと勢いよく開いた。すると、部屋に漂っていた光たちは勢いよく窓の外へと飛び出して行った。
「ごめんなさい……」
少女は涙を流しながら、出て行った光たちを見送っていた。すると、少女の身体は少しづつ薄くなり始めていた。そして、男が少女の方を見た時には、そこには少女の姿は無く、大人の女性の姿があった。しかし、身体は妙に透き通っていて、向こう側が見えるようになっている。少女だった女性は、男の方を向いた。
「ありがとう、貴方には感謝してもしきれないわ。私、ずっと、寂しかったの。大好きな人もいなくなって、気づけば、私一人しかいなくて。……私のおばあさまが、魔女だったの。やっぱり、私にもその血が流れていたのね。気づいてないうちに、力を使ってたんだわ」
「それは、仕方ないことだ」
「そう……よね……。でも、ずっと謝っていたいわ。そして、ずっと感謝していたいわ。……ありがとう」
女性はそう言い残し、すうっと消えて行った。すると、その瞬間、男のいる家は、ばらばらと崩れるように消えていった。男の視界に広がったのは、明るい森の木々たちと、村へと続く道だった。男は村へと帰って行った。
村に着き、男は、兄妹を探してほしいと頼まれていた夫婦のもとへと足を運んだ。すると、そこには何事もなかったように兄妹たちが、遊んでいる姿があった。男は声を失っていたという他の人達の元にも向かった。すると、そこにも、何事もなかったように、元気に働いている姿、楽しく話している姿、村人たちの笑顔があった。誰もが楽しそうに、笑いながら。村には、そこらかしこで、笑い声が絶えなかった。