死人に口はナシ          斎槻

 

 

 

 例えば、あなたがあなたではなくて

例えば、わたしがわたしではなくて

例えば、あなたとあのこが出会ってなかったりして

例えば、あなたとわたしが赤の他人だったりして

例えば、わたしとあのこは知り合って無くて

例えば、例えばたとえばたとえば例エバタトエバたとえば例えば例えば例えば例えばたとえば例えば例えば例えば例えば、例えば。

 

 例えば。それは仮定のお話。もしもこうだったら……そんな淡い期待のお話。在りもしない都合のいい妄想。人間みな、都合の悪いことが起こったとしても、取り入れる情報は解決策じゃなくて、自分にとって都合の良い情報だけ。だから、良いことはすんなりと受け入れてくれるの。馬鹿よ。単純で、解り易い。

 

 

「私、あ、貴方のことが好きでした。よ、よかったら、お付き合いしていただけないでしょうか……」

 彼女の視線は緊張のせいで足元に向けられていた。彼女と出会ったのは高校の同窓会の帰り。同窓会とはいえ、まだ、卒業して数年しか経っていない。ほとんどが大学生の集まりみたいなもであった。まさか、卒業してから告白されることになろうとは、思ってもいなかった。そもそも、高校の時、そこまで彼女と関わりがあったのだろうかと思ってしまうぐらいだった。高校の時の記憶なんて、いつの間にか薄れていて、確かに楽しかったはずなのに、記憶はすっと出てこなかった。

 目の前の彼女を見て少し考える。美人で、性格も良いイメージがあった。何より、こんな自分を好きだと言ってくれているのである。

「僕で良いのなら」

 僕の返答は彼女を笑顔にさせた。別に彼女のことを恋愛対象としてみたことはなかった。これから、好きになっていけばいい。何より、僕を『好きだ』と言ってくれたことが素直に嬉しかった。しかし、一つ問題が―――

「あの、さ、下の名前、なんだったっけ……」

 告白を受けて、この質問をしたのである。印象は最悪になるだろう。これでフラれてしまうならそれでいい。そんな軽い気持ちで、小さなテストを彼女に仕掛けてみた……というのは、後付けで、本当に名前が解らなかったのだ。それなら、『なんて呼んだらいい?』と聞けば、良かったのかもしれないが。彼女は一瞬目を丸くして、それから、くすっと笑った。

「久しぶりに会うもんね。菜月……早瀬(はやせ)()(つき)といいます」

 彼女の返答は僕にとって予想外なものであった。もっと怒られるものじゃないかと身構えていたことは内緒だ。

「……じゃぁ、菜月って呼んでもいいですか?」

「じゃぁ、ハル君って呼んでもいいですか? 野田(のだ)遥人(はると)君」

 彼女……菜月はわざとらしい敬語でそう言った。

「敬語はつられてしまっただけなんだからな!」

「ふふっ……知ってる」

 菜月の笑みは見ていて心地の良いものであった。わずかな時間の中でいつのまにか、この人と付き合えて良かった、そう思えるようになっていた。

 

 

 美しい薔薇には棘がある。

そう誰かが言った。棘どころじゃないわ。あの真っ赤で美しい花に魅せられた人は、棘に触れなくても、薔薇の毒に侵されていくの。気づけば、薔薇から目を離せなくなって、逃れられなくなるの。

たっぷりの毒でね。

 

 

 お互い大学が違うため、月に数回ほどしか会うことはできなかった。それでも、毎回の、いわゆるデートというものは、時間を忘れることができるぐらい楽しくて充実したものだった。菜月の仕草は一つ一つが丁寧で、二人で食事をするときも見ていると、食べ方から何もかもがきれいで、育ちの良さをうかがわせた。他のどこに、こんなに素敵な女性がいるのだろうかあと思うほどでああった。そして、それとともに、こんな自分が付き合っていても良いのだろうかと、不安に思うほどだった。とはいえ、たとえ彼女との釣り合いのとれるような人間じゃなかったとしても、手放すつもりはなかった。決して菜月を手放したりしない、そう思えるほど、菜月への思いは大きくなっていた。

 

「菜月は、僕と付き合って良かったって思う?」

 唐突な質問に、菜月はきょとんとしていた。

「やだなぁ、良かったって思っているから、ここにいるんじゃないの」

「ははっ、そ、そっか。良かったよかった」

「どうしたの? 急に変な質問なんかして」

「別に。なーんとなくだよ」

「あぁ、もしかして、ハル君、他の女の子が気になったりしているの!?」

 菜月が少しすねるような表情で言ってきた。

「なんでそうなるんだよ! ありえねぇし!」

「ふふっ、冗談だよ」

「か、からかうなよ!」

「ハル君が変な質問するからだよ」

 菜月は、べーっと舌を出した。

 

 

 時計の針は嫌でも動いている。どんなに、時を止めたくても止められない。逆回りに回ることも出来ない。進む針は必死に進み時間を刻む。

もうそろそろ、お時間でしょうか。

 

 

    ?

 

『ハル君』と呼び始めて、もうどれぐらい経ったのだろう。一日が長い。長くて退屈で苦しい。いつかのデートの帰り。ハル君の部屋。私は急に手を引かれハル君の元へと引き寄せられた。気づけば、ハル君にすっぽりと収まるように抱きしめられていた。心臓の音が聞こえる……。ものすごく速い。

「菜月、しばらくこのままでいさせて」

 ハル君の優しい問いかけ。私には何の効果もないというのに。

 

――明里(あかり)もこうやって抱きしめられていたんだ。

 

「ハル君……」

 いつの日か、明里がそう呼んでいた呼び名で。甘えるように。もっと、高い崖に上らせるの。高い高い崖の上。そこから、一蹴りで突き落としてあげるから。

ふいに、ハル君の顔が近づいてきた。

 

 『嫌』

 

 とっさに顔を手で避けた。それ以上、私に触れないで。貴方は自分が犯した罪を何もわかっちゃいない。私が『演技』だということも。

「ご、ごめん。びっくりしたよな……」

 ハル君はとっさに謝った。

「ううん……こういうの、慣れてなくて……」

 私はいつもどおりの菜月を演じる。

「菜月は、付き合うの初めてだったっけ?」

「……うん。ハル君は?」

「僕は……過去に一人だけ……だったはず」

「はず?」

「い、いや、何もないよ」

 おかしい。

「ま、まぁ、過去のことはもういいじゃん」

「私は知りたい」

「いや、普通は元カノの話とかしないだろ」

 隠そうとしているの? それとも、覚えてないの?

「ねえ、その二人の元カノのお話聞かせてよ」

「ん? 一人だぞ?」

 この人……覚えていないの? 明里のこと。

「何言ってるの? 二人でしょ?」

「菜月は一体何のことを言っているんだ……?」

 ほんとにわかってないのか、とぼけているのか。ううん、自分のことよ。まさか、忘れているわけないわ。

「じゃぁ、その一人の元カノさんの名前教えてよ」

 私の顔は多分ひきつった笑みを浮かべているんだと思う。

「……え、ぁ、彩香だけど」

「だから、隠さないでよ! その彩香だけじゃないでしょ!」

「な、菜月……? さっきから、何を言っているんだよ? どうしたんだよ?」

 ハル君が戸惑っている。どうして、そんなにきれいさっぱり忘れているの? それとも、それも演技?

「ハル君は、戸惑ったときや動揺しているときは、左手をぐっと握りしめているの……」

「え?」

 ハル君は自分の左手を見る。気づいてなかったようだ。

「ハル君は、嘘をついているとき、首の後ろに手をやるの」

 いつの日か、明里が話していたことを思い出す。その話が本当なら、彼は嘘をついていない。

「よ、よく見ているんだな、菜月――「明里よ」

 ハル君の言葉をさえぎるように言った。

「まさか、ほんとに覚えていないなんて、言わないでしょうね?」

 ネタ晴らしするには少し早い気がするけど、もういいや。もう時間なのよ。もう少し時間かけたかったけど、でも、もういい。

「あか……り……?」

「あなたの、二人目の元カノの名前よ!」

 まるで、魚が死んでいくように、その目は色を失うように。

「これを見ても、まだ、知らないって言うの!?」

 私は明里が身に着けていたブレスレットを見せる。

「明里の宝物だった。今となっては『遺品』よ」

 目の色だけじゃない。顏、身体全体血の気が失せるように、まるで、死人のように。

「な、なんだよ。過去の話じゃねーか」

 目が笑っていない。

「そう。なら、なんでそんなに動揺しているのよ」

「べ、別に。そ、そもそも、なんで菜月が明里のことを知っているんだよ」

「そんなこと、アンタに関係ない!」

 こんな茶番、くだらない。結末のわかりきった恋愛小説よりもくだらない。

「なんで、アンタは明里のことを忘れていたの? 忘れることができたの?」

 許さない。

「な、なつき?」

 完全に私のことを怖がっている。怯えた子犬。

「アンタは、どうやって明里を殺したの?」

 さっさと、本題に入ろう。序章の長すぎる小説なんて、読む気が失せる。

「こ、殺した?」

 声が震えきっている。

「えぇ、明里に何を吹き込んだの?」

「俺は、殺してなんかいない!」

「えぇ、表はね。でも、裏はどうかしら?」

 別に殺人事件が起こったわけではない。世間的には、メディア上にも出てこないような小さな出来事。

 

「明里は自殺したのよ」

 

「…………」

「アンタの所為でね!」

 そう、明里は殺人事件に巻き込まれたわけではない。だから、明里を殺した犯人が裁かれることはない。

「じ、自殺なら、俺は殺してねぇじゃねぇか」

「いいや、アンタよ! アンタが殺したのよ!」

     ?

 

 明里とは二年ほど付き合っていた。気の利いた優しい彼女だった。しかし、いつの日からか、明里の存在というものが重荷になっていた。当時、大学一回生。明里とは、高校の時に付き合い、お互い進路が別々になることも承知していた。しかし、大学に入学にしてからというもの、明里から毎日のようにメールが来るようになった。一日数通。始めのうちは可愛く思えていたが、日に日に増えていくメールの量。次第に着信までもが増えだし、とうとう、明里に「別れよう」そう一言、電話越しに伝え、一切の連絡を絶った。

 それから、数週間ほど、明里と別れると、かなり気が楽になっていた。大学生活もようやく馴染めそうだ、そう思い始めていた矢先のことだった。

『明里が自殺した』

 高校の同級生たちからの噂だった。半信半疑でどうにもならなかった。自分が? 僕のせい? そんなわけ……そもそも、別れてから日が経っている。そうだ、これはただの噂なんだ! 僕は無関係だ。何も知らない。

 何も聞いてない。

 そうだ、きっとそうだ――

 

 

    ?

 

「やっと、思い出してくれた?」

 彼の顏を覗き込む。

「私ね、明里と、幼馴染でね、親友なの。ううん、それ以上に大好きなぐらいだった」

 いつも私のそばにいた明里。いつでも、私を支えてくれた明里。何でも話してくれた明里。明里、大好きな明里。貴方に彼氏ができたと聞いたとき、少しさみしかった。でも、明里が選んだのだから、それは素直に喜んであげよう、そう思った。なのに、彼はそんな明里を拒んだ。あの日から、明里は悲しみに溺れて、毎日のように泣いていた。私がどんなに声をかけても会ってくれなかった。何かあったら真っ先に相談にのるって決めていたのに。そうして、日が過ぎていき、ついに――

 

 明里は部屋で首を吊っていた。

 

 言葉なんてものは無かった。声なんてどこかに忘れてきた。叫びにならない叫びと、ショートする思考。そこから、少し記憶がなかった。気づけば私はハル君に復讐することだけを考え始めていた。

 

「私は、貴方を愛したことはありません。これは、すべて復讐のため」

 ひたすらに、トドメだけを突き刺していく。

「僕は嬉しかったんだ! 菜月に告白されたあの日から、幸せだったんだ!」

「だから?」

「え」

「だから何? 私は貴方を愛したことはないと言っているでしょう?」

 明里のことを忘れて、さっさと他と付き合えるなんて、どうかしてる。

「ぼ、僕は、菜月のことを愛しているというのに……」

「そんな言葉、気安く言わないで! そろそろ終わりにしましょう?」

 私は台所から包丁を取り出す。

「あ、謝るっ! な、なんでもするから! た、頼む、もう少し、そ、そうだ、話し合おう! もう少し話し合おう!」

「話し合う? 私には話すことなんてないわ」

 ひぃ、とハル君が間抜けな声を上げる。

「野田遥人。私はあなたに復讐するためにあなたに近づきました。というわけで、はい!」

 私は人生で最初で最後のとびっきりの笑顔で、ハル君に包丁を渡す。

「これで、私を刺してください」

「……は」

「なんでもするんでしょう? これが私の復讐だよ」

「い、いや、そんなことできるわけない! 僕は菜月が好きなのに! こんなこと……!」

「だから、だよ? 私はあなたに刺されて明里の元へと行ける。あなたは、刑務所行きで人生おしまい。私という愛する存在を殺した罪悪感でいっぱいのまま一生を過ごす。あなたが知らないところで死んでしまっては、あなたは覚えてないものね? だから、目の前で死んであげる」

「で、でででき、るわけない」

「ほら、早く」

 ハル君が握っている包丁に手を添え、自分の腹部へと引き寄せる。

「や、やめ……」

 ハル君は必死に抵抗した。

「……なら、私がハル君を殺してあげる」

 ハル君から包丁をいとも簡単に奪うことができた。それをそのままハル君に向け振り下ろそうとした。しかし、

 つーっと、一筋何かが頬を伝った。

「え? 私、なんで涙なんか……」

 流れる涙はおさまるどころか、ぼろぼろと溢れ出し、それと共に、今日までのハル君との日々が蘇ってきた。それは不思議なぐらい温かいものだった。今日まで、あなたに復讐することだけを考えて生きてきたのに、なのに、包丁を握った手は振り下ろすことができない。

 

『菜月』

 

 ふいに、ささやくような声がした。

「え?」

『菜月、もうやめて』

「明里? 明里なの? ねぇ!」

「……明里がそこにいるのか?」

 確かに聞こえた明里の声。ねぇ、明里。目の前にいるのは、明里に辛い思いをさせた張本人なのよ? 私、明里が苦しんで欲しくなくて、幸せに生きていて欲しかった、ただ、それだけなのに……

「うわああああぁあああああぁぁあぁぁぁ!」

 私は勢いよく包丁を振り下ろした。

 ザクッ

 それは、ハル君の真横で壁に突き刺さっていた。ハル君は、もうすっかり腰を抜かしてしまっている。

「明里……ねぇ、帰ってきてよ! ねぇ、なんで死んじゃったのよ」

 まるで子供のように泣きじゃくった。

「僕が言える立場じゃないかもしれないけど、少なくとも、明里はこんなことを喜ぶような子ではなかった。むしろ、嫌がっていたよ……」

「……うるさいっ」

 言葉をさえぎるように、ぎゅっと抱きしめられた。

「は、離して! いやよ、アンタなんか嫌いなの!」

 もがいても振りほどけなかった。

「僕のことは、一生恨んでくれてもいい。それは、僕が何をしても、きっと菜月は許せないと思うから。……ただ、一つだけ」

 どうしてこんなに胸が苦しいの。ハル君に抱きしめられると抵抗できない……。

「一つだけ、何よりも、明里のことを一番に考えて欲しいんだ。明里がこんなことを望んでいたのか、それだけでもいいから、もう一度、明里のことを思い出してあげて」

 ハル君が手を緩める。この感情は何? どうして? 一瞬でもその手を離さないでと望んだ私がいる……。苦しい。早くこの場から消えよう。

「……もう、あなたの前には現れません。もう二度とあなたには会いません。さようなら」

 とっさに、ハル君の家から飛び出した。自分の思考回路が解らなくなっていた。あと、少しで復讐は終わっていたはずだった。私の計画は完璧だったはず。なのに、苦しい。辛い。どうして、そんな感情なの? わからない。

 

 

 ハル君って、ほんとに明里が言っていたように素敵な人だったね。ねぇ、明里。どうして私を置いて死んじゃったの? 私、明里に聞きたいことがありすぎるの。ハル君に復讐しようとしたこと怒っているかなぁ? ねぇ、いろいろお話しよ?

 

 

   ?

 

 一気に嵐が訪れて去って行ったような気分だった。あれから何日経ったのだろう。愛した人に裏切られた。自分が、愛していた人を殺した。どういうことなのかがわからない。そもそも、死んだ人に聞くなんて無理な話だ。いっそ、死んでしまったら聞くことができるのだろうか。そんなバカげたことを考えつつ、重たい思考を働かせようとする。僕はもう十分罪の意識を植え付けられた。僕が悪い。この闇の中はもう抜け出すことはでいないだろう。何もやる気も出るわけがなかった。

そんな中、つけっ放しにしていたラジオから耳に入ってきたニュース。

『昨晩から、某大学の女子大生が行方不明になっています』

 

 

僕たちはこの先救われることは無いのだろうか。   死人に口はナシ          斎槻

 

 

 

 例えば、あなたがあなたではなくて

例えば、わたしがわたしではなくて

例えば、あなたとあのこが出会ってなかったりして

例えば、あなたとわたしが赤の他人だったりして

例えば、わたしとあのこは知り合って無くて

例えば、例えばたとえばたとえば例エバタトエバたとえば例えば例えば例えば例えばたとえば例えば例えば例えば例えば、例えば。

 

 例えば。それは仮定のお話。もしもこうだったら……そんな淡い期待のお話。在りもしない都合のいい妄想。人間みな、都合の悪いことが起こったとしても、取り入れる情報は解決策じゃなくて、自分にとって都合の良い情報だけ。だから、良いことはすんなりと受け入れてくれるの。馬鹿よ。単純で、解り易い。

 

 

「私、あ、貴方のことが好きでした。よ、よかったら、お付き合いしていただけないでしょうか……」

 彼女の視線は緊張のせいで足元に向けられていた。彼女と出会ったのは高校の同窓会の帰り。同窓会とはいえ、まだ、卒業して数年しか経っていない。ほとんどが大学生の集まりみたいなもであった。まさか、卒業してから告白されることになろうとは、思ってもいなかった。そもそも、高校の時、そこまで彼女と関わりがあったのだろうかと思ってしまうぐらいだった。高校の時の記憶なんて、いつの間にか薄れていて、確かに楽しかったはずなのに、記憶はすっと出てこなかった。

 目の前の彼女を見て少し考える。美人で、性格も良いイメージがあった。何より、こんな自分を好きだと言ってくれているのである。

「僕で良いのなら」

 僕の返答は彼女を笑顔にさせた。別に彼女のことを恋愛対象としてみたことはなかった。これから、好きになっていけばいい。何より、僕を『好きだ』と言ってくれたことが素直に嬉しかった。しかし、一つ問題が―――

「あの、さ、下の名前、なんだったっけ……」

 告白を受けて、この質問をしたのである。印象は最悪になるだろう。これでフラれてしまうならそれでいい。そんな軽い気持ちで、小さなテストを彼女に仕掛けてみた……というのは、後付けで、本当に名前が解らなかったのだ。それなら、『なんて呼んだらいい?』と聞けば、良かったのかもしれないが。彼女は一瞬目を丸くして、それから、くすっと笑った。

「久しぶりに会うもんね。菜月……早瀬(はやせ)()(つき)といいます」

 彼女の返答は僕にとって予想外なものであった。もっと怒られるものじゃないかと身構えていたことは内緒だ。

「……じゃぁ、菜月って呼んでもいいですか?」

「じゃぁ、ハル君って呼んでもいいですか? 野田(のだ)遥人(はると)君」

 彼女……菜月はわざとらしい敬語でそう言った。

「敬語はつられてしまっただけなんだからな!」

「ふふっ……知ってる」

 菜月の笑みは見ていて心地の良いものであった。わずかな時間の中でいつのまにか、この人と付き合えて良かった、そう思えるようになっていた。

 

 

 美しい薔薇には棘がある。

そう誰かが言った。棘どころじゃないわ。あの真っ赤で美しい花に魅せられた人は、棘に触れなくても、薔薇の毒に侵されていくの。気づけば、薔薇から目を離せなくなって、逃れられなくなるの。

たっぷりの毒でね。

 

 

 お互い大学が違うため、月に数回ほどしか会うことはできなかった。それでも、毎回の、いわゆるデートというものは、時間を忘れることができるぐらい楽しくて充実したものだった。菜月の仕草は一つ一つが丁寧で、二人で食事をするときも見ていると、食べ方から何もかもがきれいで、育ちの良さをうかがわせた。他のどこに、こんなに素敵な女性がいるのだろうかあと思うほどでああった。そして、それとともに、こんな自分が付き合っていても良いのだろうかと、不安に思うほどだった。とはいえ、たとえ彼女との釣り合いのとれるような人間じゃなかったとしても、手放すつもりはなかった。決して菜月を手放したりしない、そう思えるほど、菜月への思いは大きくなっていた。

 

「菜月は、僕と付き合って良かったって思う?」

 唐突な質問に、菜月はきょとんとしていた。

「やだなぁ、良かったって思っているから、ここにいるんじゃないの」

「ははっ、そ、そっか。良かったよかった」

「どうしたの? 急に変な質問なんかして」

「別に。なーんとなくだよ」

「あぁ、もしかして、ハル君、他の女の子が気になったりしているの!?」

 菜月が少しすねるような表情で言ってきた。

「なんでそうなるんだよ! ありえねぇし!」

「ふふっ、冗談だよ」

「か、からかうなよ!」

「ハル君が変な質問するからだよ」

 菜月は、べーっと舌を出した。

 

 

 時計の針は嫌でも動いている。どんなに、時を止めたくても止められない。逆回りに回ることも出来ない。進む針は必死に進み時間を刻む。

もうそろそろ、お時間でしょうか。

 

 

    ?

 

『ハル君』と呼び始めて、もうどれぐらい経ったのだろう。一日が長い。長くて退屈で苦しい。いつかのデートの帰り。ハル君の部屋。私は急に手を引かれハル君の元へと引き寄せられた。気づけば、ハル君にすっぽりと収まるように抱きしめられていた。心臓の音が聞こえる……。ものすごく速い。

「菜月、しばらくこのままでいさせて」

 ハル君の優しい問いかけ。私には何の効果もないというのに。

 

――明里(あかり)もこうやって抱きしめられていたんだ。

 

「ハル君……」

 いつの日か、明里がそう呼んでいた呼び名で。甘えるように。もっと、高い崖に上らせるの。高い高い崖の上。そこから、一蹴りで突き落としてあげるから。

ふいに、ハル君の顔が近づいてきた。

 

 『嫌』

 

 とっさに顔を手で避けた。それ以上、私に触れないで。貴方は自分が犯した罪を何もわかっちゃいない。私が『演技』だということも。

「ご、ごめん。びっくりしたよな……」

 ハル君はとっさに謝った。

「ううん……こういうの、慣れてなくて……」

 私はいつもどおりの菜月を演じる。

「菜月は、付き合うの初めてだったっけ?」

「……うん。ハル君は?」

「僕は……過去に一人だけ……だったはず」

「はず?」

「い、いや、何もないよ」

 おかしい。

「ま、まぁ、過去のことはもういいじゃん」

「私は知りたい」

「いや、普通は元カノの話とかしないだろ」

 隠そうとしているの? それとも、覚えてないの?

「ねえ、その二人の元カノのお話聞かせてよ」

「ん? 一人だぞ?」

 この人……覚えていないの? 明里のこと。

「何言ってるの? 二人でしょ?」

「菜月は一体何のことを言っているんだ……?」

 ほんとにわかってないのか、とぼけているのか。ううん、自分のことよ。まさか、忘れているわけないわ。

「じゃぁ、その一人の元カノさんの名前教えてよ」

 私の顔は多分ひきつった笑みを浮かべているんだと思う。

「……え、ぁ、彩香だけど」

「だから、隠さないでよ! その彩香だけじゃないでしょ!」

「な、菜月……? さっきから、何を言っているんだよ? どうしたんだよ?」

 ハル君が戸惑っている。どうして、そんなにきれいさっぱり忘れているの? それとも、それも演技?

「ハル君は、戸惑ったときや動揺しているときは、左手をぐっと握りしめているの……」

「え?」

 ハル君は自分の左手を見る。気づいてなかったようだ。

「ハル君は、嘘をついているとき、首の後ろに手をやるの」

 いつの日か、明里が話していたことを思い出す。その話が本当なら、彼は嘘をついていない。

「よ、よく見ているんだな、菜月――「明里よ」

 ハル君の言葉をさえぎるように言った。

「まさか、ほんとに覚えていないなんて、言わないでしょうね?」

 ネタ晴らしするには少し早い気がするけど、もういいや。もう時間なのよ。もう少し時間かけたかったけど、でも、もういい。

「あか……り……?」

「あなたの、二人目の元カノの名前よ!」

 まるで、魚が死んでいくように、その目は色を失うように。

「これを見ても、まだ、知らないって言うの!?」

 私は明里が身に着けていたブレスレットを見せる。

「明里の宝物だった。今となっては『遺品』よ」

 目の色だけじゃない。顏、身体全体血の気が失せるように、まるで、死人のように。

「な、なんだよ。過去の話じゃねーか」

 目が笑っていない。

「そう。なら、なんでそんなに動揺しているのよ」

「べ、別に。そ、そもそも、なんで菜月が明里のことを知っているんだよ」

「そんなこと、アンタに関係ない!」

 こんな茶番、くだらない。結末のわかりきった恋愛小説よりもくだらない。

「なんで、アンタは明里のことを忘れていたの? 忘れることができたの?」

 許さない。

「な、なつき?」

 完全に私のことを怖がっている。怯えた子犬。

「アンタは、どうやって明里を殺したの?」

 さっさと、本題に入ろう。序章の長すぎる小説なんて、読む気が失せる。

「こ、殺した?」

 声が震えきっている。

「えぇ、明里に何を吹き込んだの?」

「俺は、殺してなんかいない!」

「えぇ、表はね。でも、裏はどうかしら?」

 別に殺人事件が起こったわけではない。世間的には、メディア上にも出てこないような小さな出来事。

 

「明里は自殺したのよ」

 

「…………」

「アンタの所為でね!」

 そう、明里は殺人事件に巻き込まれたわけではない。だから、明里を殺した犯人が裁かれることはない。

「じ、自殺なら、俺は殺してねぇじゃねぇか」

「いいや、アンタよ! アンタが殺したのよ!」

     ?

 

 明里とは二年ほど付き合っていた。気の利いた優しい彼女だった。しかし、いつの日からか、明里の存在というものが重荷になっていた。当時、大学一回生。明里とは、高校の時に付き合い、お互い進路が別々になることも承知していた。しかし、大学に入学にしてからというもの、明里から毎日のようにメールが来るようになった。一日数通。始めのうちは可愛く思えていたが、日に日に増えていくメールの量。次第に着信までもが増えだし、とうとう、明里に「別れよう」そう一言、電話越しに伝え、一切の連絡を絶った。

 それから、数週間ほど、明里と別れると、かなり気が楽になっていた。大学生活もようやく馴染めそうだ、そう思い始めていた矢先のことだった。

『明里が自殺した』

 高校の同級生たちからの噂だった。半信半疑でどうにもならなかった。自分が? 僕のせい? そんなわけ……そもそも、別れてから日が経っている。そうだ、これはただの噂なんだ! 僕は無関係だ。何も知らない。

 何も聞いてない。

 そうだ、きっとそうだ――

 

 

    ?

 

「やっと、思い出してくれた?」

 彼の顏を覗き込む。

「私ね、明里と、幼馴染でね、親友なの。ううん、それ以上に大好きなぐらいだった」

 いつも私のそばにいた明里。いつでも、私を支えてくれた明里。何でも話してくれた明里。明里、大好きな明里。貴方に彼氏ができたと聞いたとき、少しさみしかった。でも、明里が選んだのだから、それは素直に喜んであげよう、そう思った。なのに、彼はそんな明里を拒んだ。あの日から、明里は悲しみに溺れて、毎日のように泣いていた。私がどんなに声をかけても会ってくれなかった。何かあったら真っ先に相談にのるって決めていたのに。そうして、日が過ぎていき、ついに――

 

 明里は部屋で首を吊っていた。

 

 言葉なんてものは無かった。声なんてどこかに忘れてきた。叫びにならない叫びと、ショートする思考。そこから、少し記憶がなかった。気づけば私はハル君に復讐することだけを考え始めていた。

 

「私は、貴方を愛したことはありません。これは、すべて復讐のため」

 ひたすらに、トドメだけを突き刺していく。

「僕は嬉しかったんだ! 菜月に告白されたあの日から、幸せだったんだ!」

「だから?」

「え」

「だから何? 私は貴方を愛したことはないと言っているでしょう?」

 明里のことを忘れて、さっさと他と付き合えるなんて、どうかしてる。

「ぼ、僕は、菜月のことを愛しているというのに……」

「そんな言葉、気安く言わないで! そろそろ終わりにしましょう?」

 私は台所から包丁を取り出す。

「あ、謝るっ! な、なんでもするから! た、頼む、もう少し、そ、そうだ、話し合おう! もう少し話し合おう!」

「話し合う? 私には話すことなんてないわ」

 ひぃ、とハル君が間抜けな声を上げる。

「野田遥人。私はあなたに復讐するためにあなたに近づきました。というわけで、はい!」

 私は人生で最初で最後のとびっきりの笑顔で、ハル君に包丁を渡す。

「これで、私を刺してください」

「……は」

「なんでもするんでしょう? これが私の復讐だよ」

「い、いや、そんなことできるわけない! 僕は菜月が好きなのに! こんなこと……!」

「だから、だよ? 私はあなたに刺されて明里の元へと行ける。あなたは、刑務所行きで人生おしまい。私という愛する存在を殺した罪悪感でいっぱいのまま一生を過ごす。あなたが知らないところで死んでしまっては、あなたは覚えてないものね? だから、目の前で死んであげる」

「で、でででき、るわけない」

「ほら、早く」

 ハル君が握っている包丁に手を添え、自分の腹部へと引き寄せる。

「や、やめ……」

 ハル君は必死に抵抗した。

「……なら、私がハル君を殺してあげる」

 ハル君から包丁をいとも簡単に奪うことができた。それをそのままハル君に向け振り下ろそうとした。しかし、

 つーっと、一筋何かが頬を伝った。

「え? 私、なんで涙なんか……」

 流れる涙はおさまるどころか、ぼろぼろと溢れ出し、それと共に、今日までのハル君との日々が蘇ってきた。それは不思議なぐらい温かいものだった。今日まで、あなたに復讐することだけを考えて生きてきたのに、なのに、包丁を握った手は振り下ろすことができない。

 

『菜月』

 

 ふいに、ささやくような声がした。

「え?」

『菜月、もうやめて』

「明里? 明里なの? ねぇ!」

「……明里がそこにいるのか?」

 確かに聞こえた明里の声。ねぇ、明里。目の前にいるのは、明里に辛い思いをさせた張本人なのよ? 私、明里が苦しんで欲しくなくて、幸せに生きていて欲しかった、ただ、それだけなのに……

「うわああああぁあああああぁぁあぁぁぁ!」

 私は勢いよく包丁を振り下ろした。

 ザクッ

 それは、ハル君の真横で壁に突き刺さっていた。ハル君は、もうすっかり腰を抜かしてしまっている。

「明里……ねぇ、帰ってきてよ! ねぇ、なんで死んじゃったのよ」

 まるで子供のように泣きじゃくった。

「僕が言える立場じゃないかもしれないけど、少なくとも、明里はこんなことを喜ぶような子ではなかった。むしろ、嫌がっていたよ……」

「……うるさいっ」

 言葉をさえぎるように、ぎゅっと抱きしめられた。

「は、離して! いやよ、アンタなんか嫌いなの!」

 もがいても振りほどけなかった。

「僕のことは、一生恨んでくれてもいい。それは、僕が何をしても、きっと菜月は許せないと思うから。……ただ、一つだけ」

 どうしてこんなに胸が苦しいの。ハル君に抱きしめられると抵抗できない……。

「一つだけ、何よりも、明里のことを一番に考えて欲しいんだ。明里がこんなことを望んでいたのか、それだけでもいいから、もう一度、明里のことを思い出してあげて」

 ハル君が手を緩める。この感情は何? どうして? 一瞬でもその手を離さないでと望んだ私がいる……。苦しい。早くこの場から消えよう。

「……もう、あなたの前には現れません。もう二度とあなたには会いません。さようなら」

 とっさに、ハル君の家から飛び出した。自分の思考回路が解らなくなっていた。あと、少しで復讐は終わっていたはずだった。私の計画は完璧だったはず。なのに、苦しい。辛い。どうして、そんな感情なの? わからない。

 

 

 ハル君って、ほんとに明里が言っていたように素敵な人だったね。ねぇ、明里。どうして私を置いて死んじゃったの? 私、明里に聞きたいことがありすぎるの。ハル君に復讐しようとしたこと怒っているかなぁ? ねぇ、いろいろお話しよ?

 

 

   ?

 

 一気に嵐が訪れて去って行ったような気分だった。あれから何日経ったのだろう。愛した人に裏切られた。自分が、愛していた人を殺した。どういうことなのかがわからない。そもそも、死んだ人に聞くなんて無理な話だ。いっそ、死んでしまったら聞くことができるのだろうか。そんなバカげたことを考えつつ、重たい思考を働かせようとする。僕はもう十分罪の意識を植え付けられた。僕が悪い。この闇の中はもう抜け出すことはでいないだろう。何もやる気も出るわけがなかった。

そんな中、つけっ放しにしていたラジオから耳に入ってきたニュース。

『昨晩から、某大学の女子大生が行方不明になっています』

 

 

僕たちはこの先救われることは無いのだろうか。

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