「和歌にのせて、君に詠う」

はじまりは、幼なじみの一言だった。

「斎って、幾人のこと好きなの?」

疑問符が一応ついてはいるものの、どこか断定しているように聞こえるのは、気のせいじゃない。
たぶん、桐麻はわかっている。
わたしが、クラスメートの庵幾人君を好きなことを。

「斎?」
「…恋すてふ、わが名はまだき、立ちにけり、人しれずこそ、思ひそめしか」

返事をするかわりにわたしが答えたのは、 百人一首だった。
壬生忠見が読んだ和歌。
平兼盛に歌合で負け、その後病死したと言われている。
壬生忠見は、いったいどんな気持ちで、この歌を読んだのだろう。
もしかしたら、わたしと同じような気持ちだったのかもしれない。
ちらりと桐麻を見ると、思い出そうとしているみたいだった。
お互いに黙って通学路を歩く。
しばらくして、桐麻が「なるほどね…」とつぶやいた。

「ごめんね、斎」

本当に申し訳なさそうに謝る桐麻。
わたしは「いいよ」と言った。

「桐麻だから、いいよ」

そう言って、首にかかっているヘッドホンを耳にあてた。
音楽は再生中だったらしく、いきなり曲が流れてくる。
最近デビューした、男性四人組のバンドがいま一番好きだ。
自分たちの世界を、ちゃんと持っているから。
うらやましくて、しかたない。

「 」

桐麻がなにかを言ったけど、聞こえない。
桐麻もそれをわかっていたかのように、わたしの髪をなでた。


桐麻と別れて、クラスのドアの前に立つ。
教室に入るときが、わたしは苦手だ。
ドアの音を聞いて、みんながいっせいにこっちを見る。
その視線が嫌でしかたがなくて。
すぅっと息を吸って、ドアを開けて教室に入る。
みんながわたしを見る。
目を合わせないようにうつむいたまま、自分の席に座る。
窓際の一番後ろは、日当たりがいい。
音楽を聴いていても、長い髪で隠していればばれない。
ヘッドホンをはずして、イヤホンに変えようとしたとき、教室のドアが開いた。
入ってきたのは、幾人君だった。
わたしの、好きな人。
迷いのないまっすぐな歩き方が、わたしは好きだ。
彼の席はわたしのななめ前にあるため、自然とこちらに向かって歩いてくる。
イヤホンを耳にはめようとしたとき、幾人君と目が合った。

「おはよう、斎」
「おは、よう」

イスに座りながら、わたしに挨拶をしてくれる。
体をこちらに向けて、何気ない口調で話してくる。

「英語の予習、やった?」
「うん、したよ」
「借りていいか?」
「いいよ」

短いやり取りをして、英語のノートを机から取り出す。

「はい」
「ありがとう」

ノートを幾人君に差し出す。
受け取ろうとした幾人君と、指先が触れた。
一瞬ぴくっと反応してしまうが、ばれていないようだった。

「授業までには返すから」
「あ、うん」

そう言って、自分の机の方を向いてノートを写しはじめる。
わたしはイヤホンを耳にはめて、大音量で音楽を聴きだす。
腕を机の上で組んで枕にし、その上に頭を乗せる。
さりげなく触れた指先をもう片方の手でなでる。
そしてちょっとにやけてしまった。
今日も話せたことがうれしくて、しかたなかった。
「斎」と呼んでくれたことが、うれしかった。
音量をさらに上げて、わたしは目を閉じた。


わたしが幾人君と出会ったのは、二年生になった四月からだ。
知らない教室に、クラスメート。
笑い声や楽しそうな会話が、わたしの耳には雑音にしか聞こえなかった。
音楽プレーヤーの音量を上げて、わたしだけの世界に入る。
視線は窓の外に広がる青空を見ていた。
しばらくぼーっとしていたら、右肩を軽くとんとん、とたたかれた。
慌ててイヤホンを外して右側を見る。

そこにいたのが、幾人君だった。

たぶん、最初から一目惚れだったのかもしれない。
まっすぐな青い瞳は、水のように静かで。
それなのに、強い意思を感じさせるような、不思議な瞳だった。

「えっと…」
「何度も声、かけたけど」
「ご、ごめんなさい…」

謝ると、「別にいい」と言われた。
少し低めの声は、ぶっきらぼうに聞こえたけど、優しさをふくんでいるのがわかった。

「今日の予定わかるか?」
「あ、うん」
「見せてくれ」

右手を出されたので、その上に予定表を置く。
そのとき指先が触れた。
ほんの一瞬だけど、心臓がドキッと高鳴った。

「ありがとう、斎」
「えっ!?」

いきなり名前で呼ばれて、変な声が出る。
右隣の人はきょとんとしていた。

「あれ、斎って名前じゃなかったのか?」
「斎ですけど、その…下の名前です。
名字は泉です」
「え」

さっきまで無表情だった彼に焦りが浮かぶ。

「悪い…泉が名前だと思ってた」
「気にしてないですよ」

本当に申し訳なさそうに「ごめん」と、再び謝られた。

「だいじょうぶです、慣れてますから」
「…そうか」

そう言って、沈黙がおとずれる。
しばらくしてから、「あの…」とわたしから話しかけた。

「名前、教えてくれませんか?」

彼のことをもっと知りたいと思ったら、不思議と聞けた。
いままでクラスメートや先生なんて、どうでもよかった。
桐麻がいれば、それでよかった。
よかったのに、彼のことだけは知りたくなった。
きっと、好きになっていたから。
目があった、その瞬間から。

「庵幾人」

短く告げられた名前を、わたしはつぶやく。

「庵、君…」

庵君、庵君…幾人、君。
心のなかで名前を呼ぶ。
すてきな名前だと思った。
彼にぴったりだと思った。
「イクト」という響きが、一瞬で好きになった。

「幾人でいい。
あと、敬語もなくていい」
「えっ…」
「これからよろしく…斎」

ふっとほほえんだ幾人君に、わたしの顔は熱くなる。
名前を呼んでくれた。
間違いではなく、はっきり「斎」と。
その笑顔をもっと見たくなった。
幾人君のそばにいたいと思った。
幾人君に恋をするのは、本当に一瞬だった。
首からさげたイヤホンからは、恋愛ソングが流れていた。

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