朝の世界の駅の前で                      

針音 純

 

都会育ちの私にとって、()()はとても生きづらい場所だ。

 コンビニも、デパートも、映画館も、マックも、プールも、私がこの間まで暮らしていた街にあったものがなにもない。あるのは豊かな自然と点在する家が少しだけ。なにも楽しいものも、便利なものも、ない。

 私がこんなところで暮らすことになった理由は、行きたかった大学に通うためだった。

 この大学に通うってなったとき、私はてっきり一人暮らしをさせてもらえるものだと思っていた。実家から遠く離れた場所にあるその大学には毎日到底通えないから、そうするしかないと思っていた。それである日、お母さんに一人で住むアパートのことを相談しようとしたら、思わぬことを言われてしまった。

 「あなた何言ってるの? 田舎のおじいちゃんの家からなら通えるでしょ?」って。

びっくりした。というか、そんなこと考えてもいなかった。もう頭の中はどんな部屋にしようとか、トイレとお風呂は別がいいなとか。そんなことしか考えていなかった。だからお母さんの言葉は一瞬理解できなかったし、は? って文句も言いたかった。一人暮らしさせてくれるんでしょ? って言い返したかった。でも、私に文句も言い返すこともできなかった。だってそんなことしたらこの大学に行かせてもらえなくなるかもしれないから。それにただでさえ学費の高いこの大学に通わせてもらえるんだから、これ以上わがままは言っちゃいけないって。そう自分に言い聞かせて、分かった。とだけ言ってその話は終わってしまった。

そんなわけで、私は今、田舎で暮らしている。

とはいえ、一つだけこっちに来てよかったかもって思わせるものがある。それは、朝の世界だ。

朝、学校に行くのに家を出ると、そこには一面青い世界が広がっている。

 早朝。

 その世界はまるで私の知らない世界だった。

 月と太陽が入れ替わる直前。どこからか漏れ出した光で世界が微かに明るみ、それでもまだ夜の余韻を残すわずかな時間。汚れた空気も、人の姿も、耳に障る音もない透き通った静寂の世界。そして、昨日浴びた太陽の熱を忘れてしまったかのように冷え切った世界。

 こんな世界は、あわただしい人間とコンクリートに飲み込まれた私の街じゃありえなかった。

 私はこの世界が大好きだ。

あの人に初めて会ったのも、ちょうどこの世界だった。 

 

 

一年ほど前。

 その日、私はいつもよりも一時間早く学校に行くことになっていた。というのが、私の学校では週一、週二回のペースで小テストが行われる。だから友達がこれからみんなで朝早く集まって勉強しないか、って言い出したんだ。別に朝早くに集まらなくたって放課後でいいんじゃないかって言ってみたけど、放課後はみんな何かと忙しいらしい。

ここでは電車が一時間に二本しか走ってないから、一時間前に学校につくためには、三本早い電車に乗らなければならなかった。電車を三本早めたら大体一時間半早く家を出ることになる。

私は余裕を持って家を出て、ゆっくり歩いて駅まで来た。そして何時だろうとケータイを見て自分が勘違いして一時間早く来てしまっていることに気が付いた。多分、寝ぼけて時計を見間違えたのだろう。

 一度家に戻ってもよかったが、私はなんとなく誰もいない駅の前のベンチに座った。そこでボーっとするのが気持ちよさそうだったから。

 朝の世界をボーっと眺めながら、ただ時間の過ぎるのを待っていると、

「すみません、隣いいですか?」

と、突然声をかけられた。

見ると犬を連れた男性だった。一瞬驚いたが、どうぞ、と言って私はベンチの端に少し寄った。

男性は若い人で、長身で割と細身、口調からして穏やかな人のように感じた。顔はまあまあかっこよくて、俳優の何とかって人に似ているような気がした。ただ、Tシャツにジャージという地味な格好だったから、かっこいい人だなぁとかは、あんまり思わなかった。変な人じゃなさそうだったし、私はまたボーっと景色を眺め始めた。

 何分ぐらいしてからだったろうか、男性が突然私に話しかけてきた。

「見たことない顔だけれど、どこかから?」

 またもや突然でびっくりしたけど、その男性の声色のおかげか何も怖さとかは感じなかった。

「は、はい。大学に通うのに、こっちのおじいちゃんの家に住ませてもらってるんです」

「そうなんだ」

 そういうと男性は何かを考えるようなしぐさをして、またこっちを向いた。

「通ってる大学って、もしかして、笠大?」

 笠大とは、まさに私の通っている(かせ)()大学(だいがく)のことだ。

「そうです、そこの獣医学部に通いたくて、こっちに来たんです」 

 すると男性は驚いた顔をして、それから嬉しそうな顔で、

「そうだったんだ! 実は僕も笠大出身なんだ。しかも獣医学部の」

 私は本当に驚いた。こんなタイミングでこんな人に会えるなんて。

「そうなんですか!? じゃあ先輩なんですね!」

「うん、そうなるね」

男性は、あははと照れくさそうに笑った。

「獣医学部ってことは……もしかして、獣医さん?」

 私がそう尋ねると、男性は一層照れくさそうな表情で、

「一応ね。昔から動物が好きで、それでね」

 連れていた犬を膝の上に載せて、優しく撫でながらそういった。「すごいですね。私も将来獣医になりたくって! やっぱり獣医って仕事は大変ですか?」

 何気ない質問のつもりだった。しかし、男性は撫でていた手を止め、どこか悲しそうに、

「でも、獣医としては働いてないんだ。ごめんね……」

 といった。明るかった表情が一気に曇ったのが妙に気になって、

「え? どうして……」

 そう尋ねようとしたとき、ちょうど電車がもうすぐ到着することを知らせる遮断機の音が鳴り響いた。

 男性は静かに立ち上がって、

「じゃあもうそろそろいかないとね、僕は毎朝ここに来るから。また」

とだけいうと、男性はゆっくりと元来たであろう道を帰って行った。

 私はなぜか男性の最後の言葉が気になって仕方なかったが、誰もいない駅のホームを通過して誰も乗っていない電車に乗り込んだ。

 

 

 翌日は休日で学校に行く必要はなかったが、前日のあの男性の言葉が気になって、私は前日と同じ時間に駅に向かった。

 私が駅に到着すると、男性はすでにベンチに座って犬を撫でていた。

「おはようございます」

「おはよう、来ると思ってたよ」

 男性は顔に笑みを浮かべてベンチの端に少し寄った。

 私はベンチの端に座って、何をどうしようか考えていた。さっそく本題の質問をすべきなのか、軽いあいさつから入るべきなのか。   

その時の私はたぶん何か言いたそうな顔をしていたのだろう。男性は私の顔を見て、あははと笑った。

「僕がなんで獣医やってないのか、気になるんでしょ? そんなこと、人にわざわざ話すことでもないんだけどな」

 男性は少し困ったような、照れくさそうな表情で、犬を膝から降ろした。

 確かにそうだ。獣医学部を出て獣医さんになったからって、みんながみんな獣医をやっているとは限らない。それはなんとなくわかるんだけど、なぜか私にはこの男性が獣医をやってない理由の裏には悲しい何かがあるような気がして。それを聞いたからって何にもできるわけじゃないのに。とにかく、気になって仕方がなかった。

 私がそういう視線を男性に投げかけていたのか、男性はゆっくり立ち上がっていった。

「今日、学校ないんでしょ? もしよかったら、うち来る? あ、心配しないで、別に僕の家に来いっていうんじゃないから。僕、喫茶店やっててさ、そこでお話でもしようか」

 男性はこちらに向き直って、

「君が教えてほしいこと、全部は無理かもしれないけど、答えられる範囲で教えてあげるよ」

 そういうと男性はしずかに微笑んで背を向けて、元来たであろう道をゆっくり歩き始めた。

 

 道中私たちは一言も話さなかった。

 男性は何も言わず少し前を、ただ歩いていた。

 私はその間、この状況について考えていた。

 会って二日目なのに。そこまで熱烈に興味を持っているわけでもないのに、これから、言ってしまえば、他人の個人的な話を聞きに行くわけだ。

 別に断ったってよかったはずだ。得体のしれない、ただ出身大学と学部が、私が通っている大学と学部と同じだったってだけの男性に、誘われているのだ。もしかしたら、何かよからぬことをされるかもしれない。だから、その場から逃げたってよかった。だけど、なぜかそれができなかった。何かが私をこの男性から離さないでおこうと力をかけているような。私がこの男性に何かの力でひきつけられているような。そういう何かがあったから、静かに後を追うことしかできなかったんだ。

 そんなことを、ただ悶々と考えていると、

「ついたよ」

 と男性が声をかけてくれた。

 見てみると一軒の喫茶店の前についていた。

 「喫茶カントリー……」

 「そう、ここが僕のお店」

 喫茶カントリーは、はっきり言って場違いな印象を与えるような店だった。

 周りは緑ばっかりなのに、そこにぽつんとオシャレな喫茶店がある。その光景はもはや異様ですらあった。

 「さぁ、どうぞ」

 男性は左手に犬を抱えて、右手でドアを開けてくれた。私は半ば吸い込まれるように店内に入っていった。開店前のその喫茶店は静かで、ほんのりコーヒーの香りがした。

 

「なんか好きなもの言ってよ」

 店の一番奥の席に促された私に、男性はそう言った。何かごちそうしてくれるようだ。これはきっと男性の好意によるものだし、いらないなんて言っちゃ逆に失礼なんだろう。でも、ここは一度、いいんですか!? ってリアクションをしておくべきだ。なんか、常識的に。

「いいんですか?」

 一応。

「いいよ。なんでも好きなの言って」

「じゃあ、」

 私はテーブルに置かれたメニューを開いてみた。

 見た感じメニューはありきたりだった。

 モーニングセットとか、サンドイッチとか、コーヒーとか。そういう喫茶店には必ずあるようなメニューが並んでいる。

 ただ一つ違っていたことが、メニューの端の方に『ペットメニュー』ってのがあったことだった。

「ペット専用のメニューあるんですね」

 グラインダーでコーヒー豆を砕いていたその男性は、手を止めて、「僕、動物好きって言ったでしょ? どうしてもペット同伴で入れるようにしたくてさ。衛生管理は大変だけど、どうしても譲れなくて」

 と言って、またコーヒー豆を砕き始めた。

 私は結局モーニングセットをお願いした。トースト、スクランブルエッグ、サラダにコーヒー。この上なくオーソドックスだった。

 五分ぐらいたって、男性は私と自分の分のモーニングセットを運んできて、私の向かいに座った。男性も私と同じものだった。多分朝食なんだろう。私もそのつもりだったし。

 それからしばらく、二人とも黙々とモーニングセットを食べた。味は……至極普通だった。特別うまいわけでもなく。かといって決してまずくない。普通の喫茶店のモーニングセットだった。

「ごちそうさまでした」

 最後のコーヒーを飲み終えて私は小さく言った。

 先に食べ終えていた男性は、そっと席を立って二人分の皿を片付けて、また戻ってきた。それからまた席に座った。

 ちょっと間をおいて、男性は静かにしゃべり始めた。

「ごめんね、なんか強引に連れてきちゃって」

「いいえ、どうせ学校もないし。モーニングセット、おいしかったです」

「ありがとう」

 男性はそういって足元にいる犬を自分の膝に乗せた。

「そういえば、まあだ僕の名前言ってなかったよね?」

 そういえば……

「僕はシンドウ ハルカ。ここは僕のお店で、こいつがミニチュアダックスフントのモカ」

 ハルカさんはモカを持ち上げテーブルに乗せて優しく撫でた。モカは動き回るでもなく、気持ちよさそうに目を閉じていた。

「私はミヤコって言います。京都の京一文字でミヤコ」

「そうなんだ、女の子らしいいい名前だね。僕ハルカって名前だからさ、小さいとき、女の子みたいだってよくからかわれたよ。あ、僕のことはなんて呼んでくれてもいいからね」

 あはは、とハルカさんは笑いながら言った。

 私も少し笑って、それから、本題に入ろうとした。

「じゃあ、ハルカさん。その、昨日の最後の言葉。獣医の仕事やってないって話……」

 ハルカさんはテーブルのモカをまた自分の膝に乗せて、静かに話し始めた。

「僕、小さいころから動物が好きでね。中学の時から将来獣医になりたいって思ってたんだ。それで、高校出て笠田大学の獣医学部に入ったんだ。それでなんとか頑張って卒業して、晴れて獣医として働くことになったんだけど、」

 ここでハルカさんは一息置いた。そしてまたつづけた。

「現実はそんなに甘くなかった。獣医として都会にある大きな動物病院に勤務することになったんだけど、そこで働き始めてすぐにとある出来事があったんだ」

 ここでハルカさんはそのころを思い出したように表情を曇らせた。

「癌を摘出する手術だったんだけど、その手術が失敗しちゃったんだ。失敗というか、無意味に終わってしまったというか。まず成功することのないってぐらい難しい手術だったし、もし成功していてもどのみちその犬が助かることもなかっただろうって、上の先生も言ってくださって、飼い主も、仕方のなかったことですって僕を責めたりはしてこなかった。でも、どうしても自分のせいでその犬が死んだんだって思っちゃって、」

「それで、やめちゃったんですか?」

 そう聞くとハルカさんは少し間をおいて、

「ちょうどそのことで悩んでいた時に、この喫茶店を経営していた親父が倒れてさ。タイミングが良すぎたんだ。別に後を継げとも言われてないんだけど、自分の中で獣医をやめるいい口実になっちゃったんだ。田舎で静かに喫茶店やるのもいいかなって、ペットも入れるようにしちゃえば動物とも触れ合えるしね。中学生のころからの夢だったのにね。結構簡単に終わっちゃったよ」

 そういってハルカさんは小さく笑った。その笑いはどこか自嘲するような笑いだった。

「そうだったんですか……」

「うん。すごく情けない話だよね。でも、あまり後悔はしてないんだ。喫茶店もなんだかんだで楽しくやってるし、今はこの状況で満足してる」

 ハルカさんはそう言って、膝に乗せていたモカを下した。

 たしかにその時ハルカさんは今の状況を満足してるって言った。でも心のどこかではまだ獣医として働きたいっていう気持ちがあるんじゃないかって、そう思えた。

「ハルカさんは、もう一度獣医として働きたいと思わないんですか?」

 思わず口をついて出てしまった。

 ハルカさんは落ち着いた声で、

「この生活には満足してる。だけど、その質問に完全にノーとは言えないかもしれない。今だってもしあのまま獣医を続けていたらとか、ここままでいいのかなとか、思うこともあるから」

「じゃあ、もう一度獣医として働けばいいんじゃないんですか? そんな、ハルカさんが全部悪いわけじゃないのに、そんなんであきらめちゃってよかったんですか?」

 少しだけ大きな声でそう言った。

ハルカさんは少し黙って、それからゆっくりとしゃべり始めた。

「ミヤコちゃんは、どうして獣医になろうと思ったの?」

「え?」 

いきなりの質問に驚いた。私の質問は? って思ったけど、私はゆっくりと自分が獣医を目指すきっかけになった話をした。

「私、小さい頃シロっていう犬を飼ってたんです。ある夏の暑い日、私がシロに餌をやるために外に出たら、シロが倒れてたんです。私は突然のことでどうすればいいのか分からなくなりました。急いで動物病院に連れて行ったんですけど、シロはそのまま死んじゃいました。死因は熱中症でした。外で飼っていたから暑さにやられちゃったみたいで。でも、その時獣医さんに、もし気づいたときにすぐに応急処置をしていれば、シロは助かったかもしれないって言われたんです。その時、私はきっとこのことを知らないで犬を飼っている人は日本中にたくさんいると思いました。だから私は動物のことをいろいろ勉強して、一人でも多くの人にそのことを伝えてあげたいなって。だから獣医っていう仕事がしたいんです」

「そうなんだ」

 ハルカさんはうつむいていた顔を上げた。そして一瞬悲しい表情をして、

「その気持ちを大事にしてね。そうすればきっと獣医になれるから、頑張って」

 ハルカさんはそれだけ言うとおもむろに席を立ちあがった。

「ごめんね、もっと話がしたいんだけど、そろそろ開店時間だから」

 時計を見るともうすぐ午前九時を指そうとしていた。

 私は席を立って、帰ろうとした。

「ありがとうございました。あの、また来てもいいですか?」

 恐る恐る聞いてみる

「いいよ。普段ここに来るお客さんは僕よりずっと年上の人が多いから、ミヤコちゃんと会話するの、すごく新鮮で楽しいよ。またいろんな話聞かせて」

 ハルカさんはそう言いながらレジの横のメモ用紙に何かを書いて私に渡した。

「これ、僕の連絡先ね。いらないだろうけれど一応渡しておくよ」

「ありがとうございます。私もここで話すの楽しかったです。ここすごく落ち着くし、また来ます」

 そういって私は喫茶カントリーを出て、家に帰った。

 

その後、私は暇を見つけては喫茶カントリーに行くようになった。

休みの日には必ず行った。朝早くに約束するでもなく駅で会って、そこから朝食をごちそうになって、開店までたわいもない話をした。

 学校で起きたことを話したり、勉強でわからないことを聞いたり、悩み事を聞いてもらったり。朝の世界の話までした。どうして毎朝あの駅前のベンチに来るのかって聞いたら、モカの散歩のルート途中だから休憩しているだけだよって言ってた。でも、きっとそれだけじゃないんだろうなって思った。だってその話をしている時のハルカさんの顔は自然と微笑んでいて、きっと好きなんだと思った。私と同じで、朝の世界が。

他にも、愚痴をこぼしたり、嫌いな先生の悪口を聞いてもらったりもした。でも、どんな話をしたってハルカさんはいやな顔一つせずに聞いてくれた。

 ハルカさんもその代わりに、お店であったことや動物にまつわる話をたくさんしてくれた。隣の斎藤さん家の猫が遊びに来るようになったとか、海堀さんが知人に貰ったというゴールデンレトリバーを連れて店に来るようになったとか、西岡さんというきれいなお姉さんが越してきてよく来てくれるとか。

そんな他愛のない話に夢中になりすぎて開店時間過ぎてお客さんが来てしまったりもした。おかげでだんだんとお客さんとも話すようになって、それくらいから、わたしはほぼ毎日喫茶カントリーに行くようになった。

喫茶カントリーが私にとって一番の場所になっていった。

 そんなある日。

 その日は休日で、いつものように朝早くに駅に向かっていた。でも、そこにハルカさんのっ姿はなかった。

 体調でも崩したのかなと思って、喫茶カントリーに直接行ってみることにした。

 その途中、なぜか悪い予感がしていた。どうせ風邪を引いて出てこられないんだろう。って言い聞かせてみても、胸のざわめきが収まらなかった。

 そして、その悪い予感は的中してしまった。

 ほぼ毎日のように来ていたのに一度も見たことのなかった所々錆びついたシャッターが入口をふさいでいる。

 店先に飾られていた鉢植えもなく、一気に10年ぐらいタイムスリップしたかのように寂れて見えた。

 シャッターには丁寧に書かれた張り紙が貼られていた。

 

 『  このたび、勝手ながら私の私情により

喫茶カントリーを閉店することになりました。

今まで来てくださった皆様、ありがとうございました。

        

         オーナー 進藤 悠        』

 

私はすぐさまポケットからスマホを取り出して、ハルカさんに電話を掛けた。 

 予想通り繋がらなかった。

 私はそのままその足で周りに住む人たちの家を回った。

 誰かハルカさんが店を閉めた理由を知らないのか。知っていることならなんでも知りたかった。

 でも、誰に質問しても、帰ってくる返事は皆驚きの声ばかりだった。

 途方に暮れた私は、何かできることはないかって考えた。でも、何一つ思い浮かばなかったし、たぶんできることなんてなかった。

 翌日から私は、朝早くに集まっての勉強会に参加しなくなった。

 朝早く起きる理由がなくなったような気がして。

 学校には一応行った。本当は行きたくなかったけれど、それはいくらなんでも親に申し訳なかったから。

 気力をなくしてしまった私に、友人が声をかけてくれた。そのたびに、ハルカさんとの思い出がよみがえって、同時に私の中のハルカさんや喫茶カントリーやモカの存在が大きいことに気づいて、何度も泣いた。 

 

 無気力な日々を過ごしていたある日、学校から帰って二階の自室に上がろうとしたとき、おじいちゃんに声をかけられた。

「ミヤコ、なんか届いとるぞ。お前宛に」

 こっちの家に来てから私宛に郵便物が来ることなんてなかったから、不思議に思った。

 自室に戻って封筒を見てみると、差出人に【進藤 悠】と書かれていた。

 心臓が止まるかと思った。それぐらい突然のことにびっくりした。さっそく封を切って中を確認すると、一枚の手紙と一枚の写真が入っていた。

 私はすぐその手紙を読んだ。

 

『親愛なる京ちゃんへ

   お元気ですか?

   まず、突然姿を消したことを謝ります。

   本当は、みんなに伝えてから店を閉めようと思ったんだけど、いろいろあってできませんでした。本当にごめんなさい。

   喫茶店をやめた一番の大きな理由は、結婚をすることになったからです。

   よくうちの店に来てくれていた西岡さん、覚えてますか?

  その人と結婚することになりました。

早くみんなに伝えればよかったんだけど、言ったらみんなそう意識しちゃうかもしれないし、店の雰囲気を壊したくなくて、あえて隠しておくことにしました。

それで、今回準備も整ったので、結婚することに決めて、同時にまた獣医として復帰することになりました。正直喫茶店の経営だけじゃ彼女を養うことはできなかったからね。

   こうして獣医としてまた働こうって思えたのは、ほかでもなく京ちゃんが始めてうちに来てくれた時に言ってくれた言葉があったからです。京ちゃんに言われたあの質問に答えなかったのも、そう思っていた自分を認めたくなかったからかもしれません。だから、京ちゃんには本当に感謝しているよ、ありがとう。

   今は都会にある大きな動物病院で獣医をやっていて、その近くで彼女と暮らしてます。

   心配をかけましたが、僕はここで元気にやってます。

だから何も心配しないでください。

   

   それじゃあ、また。

 

                    進藤 悠

                             』

 

 この手紙を読み終えた私は、自分が泣いていることに気づいた。

「あれ? ……なんでだろう……」

 涙は何度拭ってもとめどなく溢れ出てきた。

 ハルカさんは元気でやっていて、結婚もしていて、何も悲しいこ

となんてないのに、祝福して一緒に喜ぶべきなのに、どうして涙が

出るのだろうか、分からなかった。

 でも、それは同封されていた写真を見た瞬間に気づいた。涙の理由。

 ハルカさんと西岡さんが一緒に移った一枚の写真。そのハルカさ

んの表情は、紛れもなくいつも見せていた、あの照れくさそうな笑

顔だった。

 その写真を見た瞬間、ハルカさんとの思い出が一気によみがえっ

てきて、余計に涙が溢れ出してきた。

 きっと私はハルカさんのことが好きだったんだ。

 だからハルカさんの結婚を伝える手紙を読んで涙が溢れてきた

んだ。ハルカさんが本当に自分の手の届かないところに行ってしま

ったから、それが辛くて涙が出てきたんだ。

 初めて会った時から妙に気になったのも、苦手な早起きをしてま

で会いたかったのも、きっと、心のどこかでハルカさんが好きだっ

たから。

 それに気づいた瞬間、私はいてもたってもいられなくなった。

 すぐさまスマホを手に取り、ハルカさんの番号に電話を掛けた。

 出て! 出て! 出て!

 心でそう叫び続けた。

 頼むから!

 そう心で叫んだ瞬間、「もしもし?」という声が聞こえた。

 懐かしい声。聞くだけで朝の世界が頭に思い浮かぶ、そんな声。

「ハルカさん? 私、ミヤコです! お手紙、ありがとう!」

 突然大きな声で一息にそんなことを言われたからハルカさんは

一瞬戸惑った様子だったが、私だって気づいてくれた。

「久しぶり、元気? 手紙、遅れちゃってごめんね。いろいろバタ

バタしてて、遅くなっちゃった」

「いえ、いいです。ありがとうございました」

 私はこんなことよりももっと伝えたいことがあった。

「あ、あの、ハルカさん。じ、じつは……」

「ん? 何?」

「実は、ハルカさんのことが好きでした!」

 一瞬の間。

「え? なんて?」

 半ば叫ぶように言ったせいか、ハルカさんはちゃんと聞き取れな

かったようだ。

 渾身の一撃をかわされた私は、一気に熱が冷めてものすごく恥ず

かしく思えてきた。結婚を報告してきた相手に告白しているのだ。

こんな滑稽なことはない。

私は完全にテンパって、

「あ、あの、ですから、実は私、ああの、、ですから、ハ、ハルカ

さんのことが、その……」

 と完全にしどろもどろになっている私の声を聞いて、ハルカさん

あははと笑って、

「ちゃんと聞こえてたよ。ちょっとからかってみただけ」

「え?」

「僕のこと好きだって、そう言ってくれたんでしょう?」

 私は散らかった頭の中を整理しつつ、ハルカさんの声を聞いた。

「初めてミヤコちゃんを見たとき、あ、この子とは気が合うなって、

思ったんだ。何の根拠もないのに、ただ、青く静まり返った朝の世

界を呆然と眺める君を見て、そう思った。だからあの日、声をかけ

たんだ。そしたら案の定って感じで。それまで年上の人としか話す

機会がなかったから、君との会話は本当に楽しかったよ」

 ハルカさんの思い出を語る声を聞いて、また涙が溢れだしてきた。

「君との出会いは、僕にとってかなり大きなものだった。今回獣医

としてもう一度頑張ろうって思えたのも京ちゃんのおかげだ」

 ハルカさんは一息置いて、

「僕には大切な人ができた。だから、京ちゃんの告白には答えられ

ない。でもきっと、僕と京ちゃんは、ずっとこれからもつながって

いられると思う」

 その言葉を聞いた瞬間、自分の中のもやもやが一気に吹き飛んだ。

 きっと電話を掛けたのも、この言葉がほしかったからだろう。

 別に、告白してお付き合いしてほしかったわけでも、こっちに帰

って来てほしかったわけでもなかった。ハルカさんとずっとつなが

っていられるってことを確認したかったんだ。

「はい! 私もそう思います!」

 曇りの晴れた私の声を聞いて、ハルカさんはよし! って笑って

くれた。

「それじゃあ、そろそろ仕事に戻らないとだから」

「はい、頑張ってください」

「ありがとう。じゃあ」

 ハルカさんが電話を切ろうとした瞬間、私は叫んだ。

「あの! また会えますよね!」

 少し間をおいて、ハルカさんは静かに笑った。

「もちろん。いつか必ず、朝の世界の駅の前で」

 

END

 

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